「…………」
 黒淵の顔から歪みが消える。
 そしてそれと同時に、鰐崎が吠えた。
「おぉああああ!『シェイクハンド』ォオ!」
 まだ動ける余力を残していた……いや、悲鳴を別にすればこれまでになかったその叫び様からして、無い物を無理矢理に捻り出したと言った方が正しいのだろう。地に伏したままながら、鰐崎は右腕からあの槍を突き出してきた。
 とはいえやはり、そに動きは鈍っていた。そうでなくとも余裕を持って反応できる黒淵が、ならばそれを避けられないわけもなく、鰐崎から距離を取るようにして槍を回避する。無論、身体の距離が離れたところで、影では鰐崎を捉えたままである。
 つまりは黒淵が一方的に鰐崎を攻め立てている状況に変わりはないのだが――しかし、今回の槍は避けてそれで終わりではなかった。
 鰐崎は、避けられた後のその槍を高く掲げてみせた。
 すると槍が膨張を始め、右腕を飲み込むようにしてその形を変えていく。
 右腕どころか鰐崎本人を越えるほどに太さを増し、鋭く尖っていたその先端には丸い塊が生じ、更にはその塊から五本の突起物が伸び始め――これまで伸縮自在な多数の槍として扱われてきたそれは、周囲の木々や病院すら見下ろすほどの、一本の巨大な腕に変貌していた。
 ――成程、槍よりはお似合いかもしれませんわね。
 恐らくはそれが鬼道の名称、ということなのだろう。ゆっくりと指を折り畳み、「握手」という呼び名とは裏腹に握り拳を形作っていくそれを見上げながら、黒淵はそんなふうに考えた。
 愛で世界を救う、などと馬鹿馬鹿しいことを宣っていた鰐崎。そしてそんな馬鹿馬鹿しい男から突かれた、「自分を愛せないでいる」という図星。自分へ向けて振り下ろされた馬鹿馬鹿しい男の巨大な拳が、自分の鬼道で自分の色に染まっていることに対し、黒淵は口の端を歪めるのだった。
 そして、数瞬後。
「さて、運び込んでしまいましょうか」
 黒淵は立ったままであり、鰐崎は地面に伏したままである。鰐崎の最後の攻撃は、しかし両者の優劣を何一つ変えることはなかったのだった。
 それでも敢えて優劣に寄与しない変化を挙げるとすれば、鰐崎の側は反撃を受けるまでもなく全身を襲う激痛によって気絶し、それに伴って鬼道も解除、巨大な腕は平時のそれに戻っていた。そして黒淵の側はというと、巨大な拳を受け止めた際の衝撃でハイヒールのヒール部分が砕けたくらいである。
「……歩き辛いですわね、さすがに」
 離していた鰐崎との距離を詰めようとしたところで黒淵は忌々しげにそう呟き、その破損部をおもむろにちぎり捨て、その後再度鰐崎へと歩み寄り――しかし、考え直してそのちぎり捨てた破損部を拾い直してから、ようやく鰐崎の傍へと。
 一応は正義の味方に位置する人間がゴミのポイ捨ては不味かろう、という判断だった。柄ではない、ということは重々承知の上だったが。
「さて」
 気を取り直し、気絶したままの鰐崎を片手で担ぎ上げる。本来ならここで手錠も掛けてしまうのだろうが、夜行でない黒淵は当然それを所持しておらず、また白井達に貸してくれと頼んだところで、部外者である以上は貸してもらえなかったことだろう。
 ――……いやまあ、正直な所どうなのか分かったものではありませんけど。
 地獄の長とはいえその部外者に仕事を任せてしまっている現状からも分かる通り、鬼というのは総じて規律や規範というものに対する意識が低い。特にその傾向が強い――というのは黒淵個人の見立てなのだが――黄芽はともかく、真面目そうな――というのも黒淵個人の見立てなのだが――白井ですらそうなのだから、その根は相当に深いものなのだろう。
 もちろん、部外者でありながらこうして仕事に首を突っ込んでいる以上は黒淵もその「意識が低い鬼」の一員であり、なので別にその現状を正そうなどと思っているわけではないのだが。
 意識が低い。一度はちぎり捨て、しかしその後思い直して拾い上げたヒールを見遣ると、自嘲の笑みを浮かべる黒淵なのだった。


「なんで素っ裸なんだよ」
 白井達が集まっている部屋に戻ったところ、掛けられた第一声は黄芽からのものだった。そして、
「趣味悪いよなお前」
 第二声も黄芽からのものだった。
「わたくしが脱がせたんじゃありませんわよ」
 ここまで肩に担いできたその素っ裸の男――全身を黒く染め上げていた鬼道も既に解除してあるので、紛うことなき全裸である――を、床に仰向けにさせながら、黒淵は黄芽を睨み付けた。
 一瞬、仰向けよりうつ伏せのほうがいいだろうか、という考えが頭をよぎりもしたのだが、しかしその鰐崎の様子、もとい有り様を騒ぎ立てるような人物は一人もいなかったので、それ以上は触らずにそのまま放置しておくことにする。
 そうしているうち、白井が手錠を手にして鰐崎に歩み寄る。そのまま何の躊躇も滞りもなく鰐崎にその手錠を嵌め終えた白井は、しかしそこから立ち上がるよりも先に、あることに気が付き動きを止めた。
「あれ、怪我してるじゃないですか黒淵さん」
 怪我。そういえばそうだった、と言われて初めて左の掌に空いた穴のことを思い出した黒淵は――つい、ということになるのだろう。見られた後にそうしたところで意味がないのは百も承知ながら、その左手を右手で覆い隠してしまうのだった。


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