「ンヒヒヒ、手に穴が開いてるのを『怪我』で済ませちゃうんだもんねえ。医者の立場ないよね本当に」
 黒淵の動きを見て、手をプラプラさせながらそんなふうに笑ってみせたのは灰ノ原。自身もつい先日指の骨を折られていることあっての言い様、なのかどうかは分からなかったが。
 それを聞いて「気付いてたんなら言ってくださいよ灰ノ原さん」と不満げにしてみせるのは、その折れた灰ノ原の指を治した白井である。そして、
「それに怪我してる本人も」
 そう言ってすぐに黒淵を向き直り、灰ノ原の指と同様、黒淵の怪我を治しに掛かろうとするのだった。あからさまにそれを避けようとしていた黒淵の所作など、まるで気付いてすらいないかの如くである。
「別に恥ずかしがることじゃないんですから、ちょっとやられたくらい」
 ……いや、どうやら気付いたうえでのことであるらしかった。もちろん、気付かないほうがおかしい話ではあるのだが。
「いやいや白井、そこは察してやれよ。なんせ地獄のお偉いさんなんだから、それが充分恥ずかしいことなんだろ」
 どういう風の吹き回しか、黄芽が庇うようなことを言ってきた――というようなことはもちろんなく、その顔は実に楽しそうなものなのだった。つまるところ、嫌味である。
 ――まあ、別にいいですけど……。
 白井と黄芽の言っていることが的外れだから、ということもないわけではないのだが、しかし黒淵がそうしてこの話を聞き流してしまえたのには、他にもっと大きな要因があった。
「私に不覚をとった、というわけではありませんよ。黒淵さんは」
 その声に、全員の視線がそちらへ集中する。
「あら、お早いお目覚めで」
 視線こそ集中したものの、しかしそれに合わせてざわつきが起こるようなことはない。もちろん黒淵もその中の一人であり、ざわつくどころかむしろ余裕をひけらかすように声の主に話し掛ける――今の今まで気を失っていた、鰐崎へと。
 そしてその鰐崎はというと、軽く笑い返してからこんなふうに。
「いっそ目覚めないままのほうが良かったんでしょうけどね、この状況だと」
 確かにその通りなのだろう。なんせ今この部屋にはこの地区の鬼が桃園を除いて全員集合しており、そのうえで手錠によって両腕の自由と鬼道を封じられているという、抵抗どころか身動きの一つすら躊躇われる状況にあるのだから。
 ――裸であることは全く気にしていないんでしょうけど。と、そんなふうにも思う黒淵ではあったのだが。
 そして案の定、「まあそれはともかく黒淵さんのお怪我ですが」と、そこには全く触れないまま話を元に戻してしまう鰐崎。
「その傷は反撃に転じるためにわざと負われたものなのです。彼女の名誉と私の不名誉のため、そこのははっきりさせて頂きますよ」
 それは確かにその通りなのだが、敵に当たる人物から名誉を保証されてもあまりいい気分はしない。どころか、今回黒淵が仕事を引き受けた理由を考えれば、それはもう単なる気分の問題ではなく実益としてもマイナスに働きかねない事態であった。
 この地区の鬼達、特には白井から、信頼を得るため。
 敵である鰐崎から庇うようなことを言われている場合ではないのである――不名誉のためって何なんだ、などという指摘をしている場合ではないのである。
 黄芽が再び楽しそうな表情を浮かべ始めたのを見て、黒淵は話題を変える決意をした。
 のだが、そこへタイミング悪く――いや、黒淵自身はまかり間違ってもそれを「悪い」などと思いはしないのだが――穴の開いた左手に白井が触れ、そしてその直後、「はい、治りましたよ」と。
「あ、ああ、はい。有難う御座います、修治さん」
 良いか悪いかはともかく意図しないタイミングではあり、なので返事がやや詰まり気味になってしまう黒淵。すると黄芽が浮かべていた楽しそうな表情が黄芽だけのものではなくなっていき、ならばますます、一刻も早く話題を変えねばならなくなってしまう。
「それで鰐崎さん。結局、貴方は何をしにここへ? 愛で世界を救うとか仰ってましたけど、今回のこともその一環だったのかしら」
 それは本来ならば、手錠まで嵌めてから尋ねるようなことではない。何故ならば、いくら職務に対する姿勢が総じて適当である鬼とはいえ、何をしたかも不明なままの相手に手錠を嵌めたりはしないからである。逆に言えば、相手側――何をしたかもわからないのであれば容疑者ですらない――としては、「何もしていない」とシラを切ってその場を去れば、それで済む段階である。なんせ鰐崎は、ただ廃病院の前に立っていただけなのだから。
 黒淵に襲い掛かりさえしなければどうとでも、どころか何もしなくてもこの場を去れていた鰐崎は、ならば何故ここでこうして捕まっているのか……?
「ああ、その話だったらもう一つ」
 ここで律儀に挙手までしながらそう言ったのは、紫村だった。
「妙に悪意が薄かったのも気になりますね、わたしとしては」
 ――そうだ、そういえばそんな話もありましたわね。と、それについては言われて初めて思い出した黒淵であったが。


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