一方で二つの質問を投げ掛けられた鰐崎は、浮かべていた笑みを絶やさないままに、その笑みをまずは紫村へと向けた。
「悪意を感知する鬼道。既知であってもなお恐ろしいものですねえ、悪人としては」
「いえいえ、悪人に限る話じゃありませんよ」
 その返事と一緒に、向けられた笑みもそのまま返してみせる紫村。鰐崎が彼女の鬼道を把握していたことについては、しかし動揺するような様子は全くない。どころかそのことについて言及すらしないところを見る限り、「知られていて当然」といった風情である。
 発言者が鰐崎ではあまり説得力のないところではあるが、悪人に恐れられるのならむしろその悪人達に知られることで抑止力となる面もあるのだろう。と、黒淵はそんなふうに解釈した。
「……成程」
 そして鰐崎はというと、紫村の言わんとすることを察したようで、短くそう返すに際してはこれまでになく暗い表情を浮かべるのだった。
 とはいえそれもその瞬間だけのことであり、一呼吸も持たない間にまた笑みを浮かべてみせてくるのだが。そして「みせてくる」ということで、今回それは紫村だけでなく黒淵へも向けられたのだが。
「今日私がここへ来たのは何のためだったのか。それは、私にも分かりません」
 紫村と黒淵の両方へ視線を送ったことからして、それはどちらか一方でなく両者の疑問に対する返答だったのだろう。……とはいえ、返答になっているかどうか以前のところで、おかしいと言わざるを得ない内容ではあったのだが。
 しかし、
 ――この男みたいな頭のおかしい人間ならそういうこともありますわよね。
 鰐崎と交戦し、その合間に言葉も交わしていた黒淵は、その「おかしい返事」をそんなふうにしか捉えない。だがやはりと言うべきか、そうでない他の鬼達は一様に怪訝な表情を浮かべていた。
 交戦を抜きにしても、今の格好を見ればこの男が頭のネジを数本失くしているのは分かるだろうに。そんなことを頭によぎらせた黒淵はそれに続け、そうさせたのが自分でないことをもう一度きちんと説明すべきだろうか、などと余計なところにまで思考を及ばせてしまっていたのだが、
「黒淵さんにはお話ししましたよね? 今日は知り合いからの頼み事で来たんです、と」
 その頭のネジを数本失くしている男から、名指しで呼び掛けられてしまった。相槌の代わりに睨み付けてやったところ、しかし鰐崎はやはり笑みを崩さないままこう続ける。
「その頼み事というのが実に曖昧でしてね。何処で何をするかだけを伝えられてまして、何のためにそんなことをするのか、は教えてもらえないままだったのです」
 そんなふうに言ってみせるこの男がしていたことといえば、この廃病院の前で様子を窺うように立ち続けていただけである。
 ――まさかそのまま、この病院を眺めているのが役目だった、なんてことはないんでしょうけど。でも、ああして何かしら機を窺っていたとして、じゃあ一体何を?
「なるほどねえ」
 曖昧な指示の下に動いていた、と自らそう語る鰐崎に質問を投げ掛けることへ一瞬の躊躇が生まれたところ、そんな黒淵に代わって納得したように頷いてみせるのは紫村。
「わたしの鬼道対策ですよね、それって。自分が何をしているのか分かってないんじゃあ、悪意もそりゃあ薄くなるでしょうし……だから、ここの前で何を待ってたのかは知りませんけど、その待っていた何かに対しても、危害を加えたりするつもりではなかったんですよね? あなたが余程おかしい人でない限りは」
 その紫村の言い方は、つまり余程おかしい人間であれば対した悪意も持たないままに何か――誰か、としたほうがより正確なのだろうが――に対して危害を加えられると、そういうことにもなってしまう。
 もちろん、などと言ってしまうのはなんとも世知辛い話ではあるのだが、一つの地獄の長たる黒淵にとってそれは、容易に実例を挙げることすらできてしまう話ではあったのだが……。
 ――そういう人間の「中身」を感じ取ってしまえるなんて、このわたくしですら同情を禁じ得ませんわね。
 そんなふうに思ってしまったところでふとその紫村へ視線を送ってしまう黒淵であったが、しかし今すべきはそんな話ではない。紫村から感付かれる前に、鰐崎へと視線を戻した。
 その鰐崎は、「私がどれくらいおかしい人間かはともかく」と前置きで済ませていい内容ではない前置きののち、軽く笑ってからこう続けた。
「ご明察です。さすがはご本人、といったところでしょうか。……ふふふ、しかしまあ黒淵さんを差し向けられてしまった以上、悪意を薄くしたところであまり意味はなかったようですけどね」
 ――その通りな以上、間抜けとしか言い様がありませんわね。
 ――…………。
 ――ただ、そこが予定外だったというのなら、もうちょっとくらい悔しそうな顔をして欲しかったものですけど。
 ついそんな考えを連ねさせてしまったところで、黒淵の視線は再度紫村へと。
 先程は感付かれる前に視線を逸らした黒淵だが、今度はしっかり微笑み返されてしまうのだった。


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