悪意を薄くしたところであまり意味はなかった。
 鰐崎のその言葉は、彼自身が体現した通りに事実に即するところではあった。
 しかしそこにはもう一つ、彼が体現できなかった事実も含まれている。
「あー、しんっどいわあもう。まさかこの年になって山登りする羽目になるとは」
 山登りというほど高い標高を目指すわけでもなく、また山登りというにはあまりにも舗装され尽くした車道の隅を歩きながら。
「それにそもそも、こんなとこで何やってんのかねえあの子は……? 年寄りの上司を振り回すなんて部下の風上にも置けやしないよまったく」
 ひとかけらの悪意も持たないその人物は、悪意の代わりに悪態を吐きながら、手元の機械が指し示す場所を目指していた。
「ま、それでも迎えに来ちゃう辺り、あたしも上司失格なのかもしれないけどねえ。にっひっひ」
 手元の機械が指し示す場所――鰐崎が隠し持っている発信機の、その位置を。
「見付けたら今度は何の実験台にしてやろうか……って、お? 何かねあのボロっちい建物は」


「少し宜しいですか、皆さん」
 鰐崎に続く二人目の客の接近に誰もが気付けないでいる中、ドアが開けられる音に続いて発せられたその声は、緑川達と共に隣の部屋で待機していた桃園のものだった。
「おや? どうかしたかい叶くん」
 最初に反応したのは、彼女のパートナーである灰ノ原。しかし桃園の視線はそちらではなく、未だ床で仰向けになっている鰐崎へと向けられた。
 もちろん、鰐崎の現在の格好を考えればそちらへ意識を持っていかれるのも当たり前といえば当たり前ではあるのだが――しかし黒淵は、ではその鰐崎の格好に対して桃園がどんな反応を見せるのかと、多少の期待を膨らませるのだった。
 が、
「無力化は済んでいるようですね。ここに連れ込まれたなら当たり前ではありますが」
 顔色も目の色も特に変えることのないまま、桃園はそう言った。つまるところ、黒淵の期待は全くの空振りに終わったことになる。もっとも、初めからそうなることは分かっていたようなものであったが。
 ――ここは比較的平和な地区だというお話でしたけど……それでもやっぱり、鬼なんかやってればこうなるものですわよね。
 ここ最近になって急に事件が多発し始めたとも聞いているが、それがあって初めて「慣れた」ということでもないだろう。
 ならば結局、地獄も「こちら」も大差ないのではないか。……頭をよぎったそんな思考を、しかし黒淵は振り払う。
「抜かりはありませんわ。と言っても、手錠を掛けたのは修治さんですけど。それで、この男に何か?」
 振り払いついでに、桃園へたった今無視される形となった灰ノ原と同様の質問を投げ掛ける。実際に捕まえたのが黒淵でもある以上、不自然な運びということはなかっただろう。
 特に何か訝る様子もなく、桃園はこう返す。
「緑川さんと千春さんが、この方に会ってみたいと仰っているのです。赤ちゃんと青くんには、流石に駄目ですよと言っておきましたが」
「まあ見るだけでも教育上よくねーわな、露出狂なんて」
 双識姉弟の名前が出たからだろう、今度は黄芽が黒淵に先んじる。とはいえ、双識姉弟だけでなく、緑川と千春への対処についても権限を持つのは黄芽ということになる――別に黄芽がその二人の縁者というわけでもなく、なので何故かと言われれば「なんとなく」としか言い様がないのだが――ので、どちらにせよ黒淵は黙っているほかなかったのだが。
 ところで露出狂呼ばわりされた鰐崎だが、それについては特にコメントをすることもなく、ただ微笑んでいるだけなのだった。
 使えば仕方なくそうなる鬼道だからというだけなのか、本当に露出狂なのか。その点について黒淵は、しかし全く関心を持つことはないのだった。
 これまで自分のことも他人のこともべらべらと語り続けてきた鰐崎が何も言わないでいることについて、そういう見方しかできないでいるのだった。
「それで、如何ですか? 緑川さんと千春さんについては」
「駄目だ。――って言いてえとこだけど、それはそれで過保護ってやつかもしれねえしな。本人達が会いてえってんならいいんじゃねえか、ちょっとくらいなら」
 過保護も何も、まず鬼として一般人と修羅の接触は避けさせるべきなのではないか。黄芽の応対について黒淵はそんなふうにも思わないではなかったのだが、しかし一方で、黄芽の考えが分からないでもない部分はあった。
 鰐崎は未だ、自分の所属も何をしに来たのかも、結局のところ明らかにしていない。しかし、これまで断片的にでも彼が語ってきた事柄から推測できる――いや連想させられるとすべきか――ことが、あるにはあるのだ。
 過去、緑川に「よく分からないこと」をし、それが千春誕生の要因ともなった、求道という男。鰐崎の狙いが何なのかは分からずとも、「今回もまた求道が緑川にちょっかいを出しに来たのでは」という想像は、黒淵にでも容易にできてしまうことだったのだ。
 ならば、緑川への拘りが強いこの地区の鬼達については尚更であろう。


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