「なあ千秋」
 今度は自分へ向けられたその声に、緑川はびくりと背筋を震わせてしまう。声を出してはいけない、という状況では全くないのだが、しかし紫村と金剛の様子から、そんなふうに錯覚してしまったらしい。
 それはともかく、その声と共に身体ごと擦り寄ってきたのは、千春であった。
「お前に確認取っても意味ねーのは分かってるけど、形忘れってあれだよな。怒り過ぎて自分がどんな奴だったか分かんなくなっちまうっていう」
「う、うん」
 そしてその話をした時、黄芽は続けてこうも言っていた。
 ――俺ら幽霊が死ぬ前のカッコそのまんまでいられるのは、「自分はこういう奴だ」っていうのが頭に焼き付いてるからなんだわ。思念体、とか何とか言い方はあるらしいけど、まあ簡単に言えば「俺は俺だから死んでもやっぱ俺のまま」ってことだな。んでさっきの話だけど、じゃあ他のことで頭が一杯になって、それがなくなっちまったらどうなると思う――?

「おーおー、気合入ってんなおい」
 自分の形を、自分が何者であったのかを忘れゆく逢染に対し、黄芽は感心したかのようにそう言った。言ったところで、それが逢染の耳に届いたかどうかは定かではないのだが――なんせ、今の彼女には耳があるのかどうかすら分からないのだ。
 そして「その最中」、拳銃は変わらずに黄芽を捉え続けていた。たった今黄芽が感心してみせたのは正にその点についてだったのだが、しかしその拳銃、そして拳銃を構えている右腕以外は全て、頭頂部から爪先まで、一片残らず形を忘れていく。全身の肉が融けるように、そして融けた後に焼き固められるようにして、まずは「右腕だけが生えた肉塊」とでも表現するしかない物体となり――。
「あぎおごごころころろごこ」
 何処にあるのかすら分からない口からの意味をなさない呻き声、そして変貌を続ける身体が発する肉が千切れ骨が軋む不快な音に包まれて、その肉塊から体の各部が、失った分を越えて生えてくる。
 悲鳴を上げているような表情で固まっている男と、頭上からペンキを浴びせたかのように真っ黒で人相を窺い知れないもの――こちらもシルエットだけながら男性のように見える――当然ながらどちらも逢染のものではない、計二つの頭部。
 拳銃を構えている右腕とは別に、その右腕と見比べる限りこれもまた彼女のものではないらしい腕が、高さも向きもバラバラに左右それぞれ二本ずつ、計四本。
 安定性に欠ける身体を同等の不安定さで支える足が、腕と同様に四本。
 腕や足とは別に不規則な位置から生えた、金属のような光沢を放つ突起物――先程まで彼女が手にしていた日本刀の刀身にも見える――が、三本。
 それらで全てということなのだろう。最後に生えてきた三本目の突起物が生え終わったところで、彼女の変化は静まった。
 静まった、とはいえそこから元に戻り始めるわけではなく、ならば右腕以外の全てが別の――別人のものに置き換わってしまった以上、それはもう「彼女」と呼ぶべきものではないのかもしれないが。
「ほれバケモン、終わったんならかかってこいや」
 その化け物の向こう側では彼女の相方である全裸男が白井を相手に何か喚いていたが、しかし黄芽は構わず、手招きを交えて逢染を挑発した。
 彼女の目と耳に届いているかどうかはともかく、それはただの嫌がらせというわけではない。
 黄芽の言葉通りに化け物然とした姿になってしまった逢染だが、しかし彼女が所持している武器(手に持っている物、という意味でだが)は未だ拳銃。果たしてあの姿でまともに狙いを付けられるのか……は、さておくとして、銃撃を受けるなり避けるなりに際して重要なのは、その発砲のタイミングである。
 であれば、そのタイミングをこちらから指定してやればいい。
 ――そうすりゃ余裕で避けられる、ってわけでもねえんだろうけど……でもまあ、相手が修羅でも動きも速さも一般人と同じって考えりゃあ気が楽だよな、銃って。
 気が楽、程度のことでしかない可能性も考慮に含めたそんな感想を持ったところで、こちらが指定した瞬間が訪れる。
 勿論それは逢染が銃を発砲するタイミングのことなのだが、引き金に掛けた指が引かれる、という小さな動作を首尾よく察知できたのは、黄芽がそこを注視していたことに加え、そもそも「小さな動作」ではなかったのが大きかった。見るからにアンバランスな形状になってしまった逢染は、本来なら指を引くだけで済むその動作のために、全身をぐらつかせてしまったのだ。
 発砲のタイミングを把握できただけで、発射された弾丸が見えたわけではもちろんない――が、そのタイミングに合わせ右に飛ぶと、放たれた弾丸は見事、飛ぶ前に立っていた位置を通過していく。
 尤も、そのことに黄芽の理解が追い付いたのは、逢染への肉薄に成功した後のことだったのだが。

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