「…………」
 黒淵の強さに対し、鰐崎は「個人差で済まされるレベルではない」と言っていた。ならばつまり彼は、そしてもしかしたら彼の属する「組織」も、その原理を把握していないということなのだろう。
 そう、原理がある。明確な理由がある。しかもそれと似たような例が今日、鰐崎達のすぐ傍にいた。
「わたくしにはもう、思い出すことすらできないのです。『人間の限界』というものは」
 人の形を忘れ、異形と化した修羅、逢染。
 黒淵の身体能力の出所は、ほぼそれと同様なのである。
「それでも」
 一度は黙らせられた白井の口が、しかし再び開かれる。そしてそこに、無理に言葉を絞り出したような雰囲気は一片もない。
「また来て頂けるのなら歓迎しますよ、僕達は」
「お優しいんですのね、修治さんは」
「黄芽さんもですよ」
 黒淵の言い分が自分だけを対象にしているのは分かり切っていたので、白井はここで黄芽を引き合いに出す。
「あの方が? わたくしを?」
 黒淵はそれを笑い飛ばしてみせる。そりゃあ普段がああならそういう反応にもなるんだろう、とは思うものの、しかし。
「子ども好きですからね、あの人。だから、子どもに好かれてる人も好きにならざるを得ないんですよ」
 それはもちろん赤と青の話であり、なのでそれを訊いた黒淵は照れ臭そうな表情を浮かべ始めるのだが、そこへ。
「白井テメエ! ぶっ飛ばすぞハゲ!」
 ドア一枚を隔てた向こう側から怒声が飛んできた。そう、ここは未だ黄芽が休んでいる部屋の前である。
「黒淵! 赤と青のことさえなきゃあテメエなんてうぷっ」
「無理しちゃ駄目ですよー」
 体調に引きずられて思考力も鈍っているということなのだろう。黄芽が今言い掛けた言葉は、白井の言い分を肯定するだけのものでしかなかった。
「というわけなので黒淵さん。あちらではお忙しいことでしょうが、暇があるようでしたらまた是非」
 なにせ地獄の長という立場にある人物なので、無理に呼びつけるなどということはできはしない。が、
「……分かりました。またいずれ」
 と、少なくとも口約束を取り付けることはできたのだった。
「黄芽さんもお元気で!」
「嫌味かコラ! 今まさに元気ねえんだよこっちは!」
 嫌味なのだろう。し、それが彼女らにとって良い塩梅の別れ方でもあるのだろう。
 苦笑しながらそんな感想を持つ白井だったが、ここで黄芽からもう一言。
「また来るってんなら早いうちにしとけよ。赤と青に忘れられても知らねえぞ」
「はいはい、善処させて頂きますわよ」
 …………。
 ――善処するんだ……、
 赤と青の遊び相手にさせられた当初、「子どもは苦手だ」と言っていた黒淵。その苦手意識が解消された、とまでは言い切れないが、しかし当時そのままであったなら、今その言葉は出てこなかったことだろう。
 そんなふうに思った白井だったが、しかし気が付くと、黒淵がこちらを見て固まっている。
「ん? どうかしましたか?」
「い、いえ、修治さんこそ……。わたくしの顔に何か?」
 ――ああ、成程。黄芽さん程ではないにせよ、僕も同様だったってことか。
「いえ、黒淵さんにも可愛らしいところがあるんだなあ、と」
「ふぁあ」
 ――ん? あくびかな?
「そっ! れではっ! 失礼致しますわ修治さんお元気で!」
「あ、はい。黒淵さんもお元気で」
 ――元気じゃない人への「お元気で」はそりゃあ変だけど、元気過ぎる人への「お元気で」もそれはそれで変な感じがするもんだなあ。
 破損したハイヒールの歩き辛さを微塵も感じさせない足早ぶりで去っていく黒淵を見送りながら、白井はそんなことを考えるのだった。そしてその直後、いやせめて玄関までくらいは送って行っても、ということにも考えが及んだのだが、その頃にはもう黒淵はこの場を去った――逃げ去った後なのだった。
「普段からあんだけベタベタされてんのにお前、さらっと言うかよ今みてえなこと」
「いえ、普段ああだからこそ、今のくらいなら軽口で済むかなーと思ったんですけど……」
 と、黄芽のお叱りにそう返した後になってから、
「ああでも、黒淵さんの役職を考えるとちょっと背筋が冷えますね。直接の上司ではないにしても」
 獄長。地獄の長。
 とっても偉い人である。
 のだが、
「そこかよ」
 黄芽はまだ不満があるようなのだった。そしてもちろん、白井としても黄芽の言いたいことは分からないではないのだが、敢えてそこに触れるようなことはしないでおいた。
 しかし触れないなら触れないで、代わりの話題が必要にもなる。
「……それにしても、あれですよね」
「どれだよ」
「『忘れてしまった』人達でも、何から何まで人間離れしちゃってるわけじゃないっていうか」
「逆に言えば、普通だと思ってた奴が実はぶっ壊れてた、なんてことにもなるってことなんだけどな」
 急も急な話題転換に、しかし黄芽は引き離されることなく付いて来る。黒淵は勿論、逢染のこともあり、ならば考える切っ掛けは充分にあった、ということになるだろう。
 とはいえ、切っ掛けがあれば絶対に考える、というわけでもない。黄芽に至っては、何を考えるでもなくただ寝ていただけ、ということも充分に在り得ただろう。体調を崩していたことを考えれば、そうしているべきだった、とすら。
 しかし、考えないわけにはいかなかったのだ。何せこの話は、
「お前はどうだよ、白井」
「聞きたいですか? 改めて」
「ははは、んなわけねーだろ」
「僕は、黄芽さんが話したいっていうなら聞きますけどね」
「それも、んなわけねーだろ」
 何せこの話は、自分達にも無関係ではないのだから。
 実際に自分を書き換えてしまった黒淵や逢染とは違い、「いずれ、万が一にでもそうなり得る要因」程度のものではあるのだが――。
 鬼道。
 鰐崎は自身のそれを指して「異常性」と言っていた――は、白井も黄芽も、そして他の鬼達も皆、持ち合わせているのだから。
 ただし、鰐崎の認識が全く以ってその通り、というわけでもないのだが。
「ま、お互いしっかりやろうぜ。せっかく『こっち』でちゃんと働けてんだしな」
「そうですね」
 そういったものを抱え、その抱えていることを自覚し、更には同僚全員がそんな自分と同じ状態にあるということまで把握したうえで、鬼達はこの世を生きていた。


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