第七章
「過ぎたるは及ばざるがごとし。……いや、及ばざるほうがよっぽどマシなんだけど」



「勝負あり」
 道場内に男の声が通った。彼の眼前では、もう一人の男が女に組み伏せられ、その鼻先すれすれに拳を突き付けられている。
 それは、これ以上ないくらいに分かり易い「勝負あり」の形であった。故に通常その宣言によって制止を掛けられるべき二人は、しかし今回それを待つまでもなく、既に動きを止めていた。
 もちろん決着を告げた男もそれは初めから承知しており、なのでその声は本来孕んでいるべき緊急性をまるで含まず、むしろ穏やかなものなのだった。どころか、この決着に対して微笑を浮かべてすらいる。
 一方、決着を告げられた男と女は静かに立ち上がり、そしてそのまま静かに向き合うと、
『ありがとうございました』
 と、互いに頭を下げ合うのだった。
 そしてその下げ合った頭が元の位置へ戻るとその途端、二人の間で保たれていた緊迫感が、周囲の空気と共に崩れ去る。
「やー危なかった危なかった。こりゃああたしが一本取られる日も近いね」
「これでもう何度目になりますかね、その慰め」
「いやいやホントホント。危うく寸止め忘れるとこだったんだから」
「普通に危ない話はやめてください」
 彼女の全力の突きが顔面に叩き込まれた様を想像してしまった男は、思わず背筋を震わせてしまう。が、
「……いや、危なくはないんですけど」
 と、審判役の男を見遣りつつ、そんなふうにも。
「にしし、毎度のことなのにすぐ忘れるよね。おねーさん、君のその他のこと忘れられるくらい真剣になれるところは大好きだぞ」
「いや、単にバカなだけですよ。自分で言うのもなんですけど」
 女が笑い、男が苦笑し返してみせたところで、審判役の男が言う。
「そろそろ時間でしょう。今日はこれ位にして昼ご飯にしましょうか」
 言われて、女は壁に掛けられている時計へ目を遣る。
「ありゃホントだ。楽しい時間はあっという間だねえ」
「そうですね」
 何の気なしに、という風情で今しがた負かせた男がそう続いてくると、女は口元をにやりと歪ませた。
「悔しいとは思ってるくせにそれだもんなあ。眩しいくらい真っ直ぐだよね君」
「……だから、バカなだけですって」
 照れたような表情を浮かべてみせた男は、すると話題それ自体を変えてしまおうとも。
「そういや今日の昼飯当番って誰、というかどっちでしたっけ?」
「遊ちゃんのはずだけど」
「あー……」
 今度はとても辛そうな顔をしてみせる男。一方女の方はというと、先程と同様に口元をにやりと歪ませるのだが、するとそこへ審判役の男。
「その浮草さんの昼ご飯が冷めてしまう前に戻りましょう、真意さんも田上君も」
「はーい」
「はーい……」
 真意と田上――愛坂真意と田上行太郎の返事は、同じものの割にその中身は真逆なのだった。


「あっ、お帰りなさーい」
 三人が道場からすぐ隣の家へ戻ったところ、その玄関で先程話題に上った昼食当番、浮草遊に出くわすこととなった。
 丁度料理をしていたのか――いや、台所を出て廊下を移動していたことを考えれば、料理が終わったところなのかもしれない。その時浮草は、エプロン姿のままなのだった。
「…………」
 彼女のその格好に田上は口を横一文字に噤み、視線を若干逸らす。
 が、当の浮草はというと田上のそんな仕草はお構いなしに、逸らされた視界に収まるように自身の位置をずらしてくる。そのうえ田上へ接近してさえみせると、
「今日の稽古はどうでしたか? やっぱりまた負けちゃいました?」
 などと挑発染みた台詞を投げ付けてくるのだった。
「…………」
 となれば田上、引き続いて口を噤んだままにもなるのだが、しかしそれで止まるのなら浮草は初めから話し掛けてはこないわけで、
「でも大丈夫ですって、田上さんどんどん強くなってるって真意さんよく言ってますし。ああそうそう、だからってわけじゃないんですけど、今日は肉ですよ肉。昼からそんなに食べて夜どうすんだってくらいの肉尽くし。いっぱい食べて頑張ってくださいね。真意さんに勝ててもまだその真意さんより強い魂蔵さんがいるんですから」
「…………」
 魂蔵と呼ばれた男――先程は審判を務めていた――は、それを聞いて笑みを浮かべるのだが、田上については相変わらずである。
 とはいえ黙ったままでいるのもそろそろ限界と見え、わなわなと身体を震わせ始める田上。するとそれを見兼ねてということなのか、はたまた面白がっているだけなのか、愛坂がここで簡素な合図を送る。
「さん、はい」
 瞬時にその意図を察した田上は、ならばそれに合わせ、爆発した。
「服着ろーーーッ!!」
 玄関に怒声が響く。
 その怒声を向けられた浮草は、しばしきょとんと田上を見詰めたのち、平然とこう返してきた。
「急に何言ってるんですか。ちゃんと着てるじゃないですかエプロンとパンツと」
「エプロンの次が即下着ってことにちょっとは違和感持てよ! 下着の『下』が何を意味してるのか考えてみてくれよ! あとパンツ『と』って何だよもうそれ以上というかその下は何もねえだろ!」
「スリッパは衣服に含まれませんか?」
「含まねえよ!」
「分かりましたよ脱ぎますよ……」
「そうじゃねえよ!」
「じゃあどうしろって言うんですか」
「だから! 服を! 着ろ! 部屋に戻って今すぐに!」
 脱ぎ癖、もとい「着ない癖」のある少女、浮草遊。そんな彼女を、田上は毎度の如くこうして叱り付けているのだった。


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