「修治さん」
 部屋を出た白井は、するとすぐさま、ドアを閉じたその場で呼び止められる。
「ああ、黒淵さん。……黄芽さんのお見舞いですか?」
 そこにいたのは黒淵。対応を間違えるということもないだろうが、頭を切り替えるための間を一拍挟んでから切り返す。
 と、
「いえ、修治さんに用がありまして」
 ――ですよね。
 もし本当に黄芽に用があったとしても、黒淵の返事は同じだっただろう。そう確信できるくらいには、普段から露骨なまでに白井を贔屓してくる黒淵だった――しかももう一方がそりの合わないらしい黄芽であれば尚更、である。
 というところまで頭を働かせておいて、白井はこう答えた。
「僕ですか?」
「ええ。他の皆さんにはもうお話ししたのですが、わたくし、今から地獄に戻ろうかと」
「ああ、部下の方がどうとかいう……それに、靴もそんなですしね」
 少し視点を下方へずらせば、そこには踵が低くなったハイヒールが。そうなってしまうと最早それはハイヒールではないのだが、しかしそれはともかく、いっそ脱いだ方がと思わされるくらい、それは非常に歩き辛そうな格好であった。
 苦笑してみせたのち、黒淵は答える。
「ええ。短い間でしたが、お世話になりました」
 そう言って黒淵は深々と頭を下げてくるのだが、しかし白井は怪訝そうな表情を。
「あれ、もう戻ってはこられないんですか? てっきり、用事を済ませるだけの一時的なことだと思ってたんですけど」
 長期休暇の最中にここへ立ち寄った、と言っていた黒淵。その休暇の期間をはっきり知らされていたわけではないものの、しかし少なくとも、黒淵の様子に「休暇の期限が迫っている」というような雰囲気はまるでなかったのだが……。
 そうして首を傾げていたところ、黒淵からは更に首を傾げさせられる言葉が重ねられた。
「歓迎はされませんでしょう?」
 はて? と、頭の中の疑問符を増やした白井は、しかし数秒の間、思考がそこで止まってしまう。
 ので、その質問に答えるのではなく、逆にこちらから質問を返すことに。
「誰かそんなこと言ってました? 他の皆さんにはもう話したって言ってましたけど」
「いえ、そういうわけでは……」
 想定通りの返事にほっとする白井。黒淵の滞在を歓迎しないなんてことを、しかもその本人に対して言って退ける人はあの中にはいないと、そう思ったからだ。
 それを口にしそうなのは黄芽くらいのものだが、その黄芽は今、後ろの部屋で横になっている。ならば恐らく、ただ一人だけ黒淵の話を聞かされていないのだろう。
 でもまあ今となってはそれも、と白井がドアの向こうの黄芽を振り返ったところ、
「ここの皆さんは」
 と、話を続けてくる黒淵。
「あ、はい」
「どうかなさいました?」
「いえいえ」
 言いつつ、手で話を続けるよう促す。
 何を考えたかはともかく、誰のことを考えたのかは、今の動きを見れば一目瞭然だったことだろう。若干眉を寄せてみせた黒淵は、一呼吸と共にそれを元に戻してから、話を戻した。
「……ここの皆さんは、緑川さんをとても大事にしてらっしゃるでしょう?」
 黒淵自身の話でなければ今回現れた修羅達の話でもなく、ついでに黄芽の話ですらもなく、緑川の話。ここで出てくる名前としては完全に想定外のものであった。
 が、想定外であろうが何だろうが即座に対応できてしまう程度には、黒淵が今言った通りでもある。
「ええ」
「であれば、私のような人間が近くに居続けるのは宜しくないのではないか、と」
 緑川の名前には対応してみせた白井だったが、しかしその話には首を傾げてしまう。
「……黒淵さんのような? と、いうのは?」
 ――時々おっかないこと言い出したりはするけど、それを言ったら黄芽さんなんて常におっかないもんなあ。
 と、黄芽からは常に粗暴な言動を向けられている白井は、真っ先にそんなふうに考えてしまう。そして、だったらそれは今ここでお別れを告げてくる理由にはならないよなあ、とも。
 しかしそこへ返された黒淵の答えは、白井を黙らせてしまうのに充分なものだった。
「元々人間離れしている鬼の中で、更に人間離れ……鬼からすら離れている私のような者が、何を根拠にそうなっているのかは、ご存じないということはないでしょう? 『あちら』ではなく『こちら』でお勤めの方でも」


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