「傷を治さずに残しておいた、ということになるんでしょうか?」
 求道と逢染がこの場を離れる姿勢を見せる中、しかし白井に解放された鰐崎はここで、白井へと向き直って話し掛けてきた。
「置いて行かれますよ?」
 白井からすれば話の中身よりまずそこが気に掛かるところだったが、しかし鰐崎は「いいんですよ」と。
「どうせここからは徒歩なんですから、走ればいくらでも追い付けますしね」
 一人で帰るつもりは更々ないらしい。
 ということに加え、全裸の成人男性が走って追い掛けてくる様を想像すると、例えそれが身内だと想定しても尚、逃げ出す自信がある白井だった。しかし現在の自分も人のことを言えるような格好はしておらず、なので苦笑いを浮かべるくらいが精々でもあった。
 そして鰐崎は、その苦笑いの意味を少しでも考えているのかいないのか、平然としたまま「それで、どうです?」と返事を催促してくる。
 気持ち悪い想像から話が逸れた――いや、むしろその逸れた先こそが本題ではあったのだが――のは、白井にとって歓迎すべき流れであった。故に、むしろ進んでそれに乗ってみせる。
「その通りですよ」
 先程の求道と同じ質問されたのならともかく、これについては隠す意味はあまりないだろうと判断した。というのも鰐崎の口調が、分かっていて訊いている、つまりはただ確認しているだけのそれだったからである。
 それが証拠に、その通りだと認めただけで、鰐崎はさらりとこうも続けてくる。
「私の身体にあなたの一部……まあ、血ですかね? を、傷を治さないことで消さずに付着させたままにしておいて、そこから全身を作り直したと。ふふふ、見事にしてやられてしまいましたよ」
「…………」
 傷を治せば、その傷から流れ出た血は消滅する。そのこと自体は戦闘中にも話題に上がった(と言っても鰐崎が一方的に喋り続けていただけなのだが)し、それを踏まえて冷静に考えれば、その結論に辿り着くのもそう可笑しなことではないだろう。
 問題はこの状況で冷静でいられる鰐崎の頭の構造なのだが、それは解決不可能な問題なので、放置しておくほかない。
 そしてその放置が過ぎて相槌すら打てないでいたところ、鰐崎は引き続き冷静に、どころか何やら上機嫌そうに、こんなことを言い始めた。
「黒淵さんのことといい貴方のことといい、今回の仕事は勉強になることばかりでした。有難う御座いました。黒淵さんにも宜しくお伝えください」
「黒淵さん?」
 白井自身、自分が鰐崎に勉強をさせてやったつもりなど皆無ではあったが、しかしどちらが気になったかと言われれば、黒淵のほうだった。もしかしたら、あまり自分の話をして欲しくはない、という思いもあったのかもしれないが、それはともかく。
 掌に穴を空けられてはいた黒淵だったが、しかし彼女と鰐崎との戦いは一方的なものだったという。直に見たわけではない以上何一つ断定はできないのだが、しかし果たして、圧倒的な実力差があるということ以外に、この男が黒淵との戦闘において見聞きできたものなどあったのだろうか?
 という疑問も虚しく、鰐崎は「ええ」と。
「最初の一撃、あったじゃないですか。貴方が飛んできて、私が無様にすっ転んで」
 戦闘をしていた以上、そりゃあ「最初の一撃」がないなんてことはないだろう――などという無粋な突っ込みは、しかし頭に浮かんだ当時の記憶に塗り潰されてしまうのだった。
 仰向けに引っ繰り返った全裸の成人男性。
 何をかいわんや、である。
 であるので、せめて話自体はそちらから逸らす。
「黒淵さんの話だったのでは?」
「ええ。ですから、事前に黒淵さんとお手合わせをしていなかったら、貴方のあの一発を避けられてはいなかっただろうな、という話です。黒淵さんの動きよりは遅かったですからね、あれでも」
「ああ、成程」
 ――まあ、それくらいのことはあるんでしょうね。
 黒淵が戦っているところを実際に見たことがあるわけではない白井だったが、しかし鰐崎のその話は、驚きもなく受け入れてみせる。そういう扱いをされて然るべきものなのだ、「獄長」という肩書きは。
「尤も、貴方がたの目的が求道さんを誘い出すことであった以上、あれを決定打にするつもりはなかったのでしょうが」
 はっきりそうだと断定してはいなかった筈だが、鰐崎は探りを入れるでもなく、こちらの目的が求道であったと断言する。もちろん外したところで何か不都合があるわけでもなし、言うだけタダ、という状況ではあるのだが……。
「うふふふ、求道さんが合流するなんて話は聞いてない、なんて嘘まで吐いたのに、全く信用されてなかったんですねえ私」
「ああ、そういえば言ってましたっけねそんなこと」
 ――あの場の誰がどうやってあなたを信用するっていうんですかね。……まあ、信じたとしても、こっちとしては「それでも来るかもしれない」に掛けるしかなかったんでしょうけど。


<<前 

次>>