「んで、結局何の用だったんだ? この部屋に本なんかマンガすらねえぞ、なんてのは、言わなくても分かってんだろうけど」
 言うまでもなく、それは今神の日課である読書にちなんでの発言だった。そしてもう一つ言うまでもなく、浮草側の用事であるなどという発想は、初めから微塵もない。
「いくら頭が悪すぎて読書が不可能だって言っても、さすがにマンガくらい置いといてもいいと思うんですけどねえ」
「うるせえ。そっちだって部屋にある本全部詠吉のだろが」
「えー、だってあたしが読みたい本は『よっしーが読んでる本』ですしぃ」
 という普通ならば首を捻ってみせてもおかしくないような理屈を、しかし田上は聞き流す。理屈自体は理解できなくとも、彼女がそういう人間だということは理解しているからだ。嫌というほどに。
「じゃあ結局、お前だって自分一人だけだったら本なんか買わねえってことだろ」
「いいんですよ、あたしな……おほん。あたしは」
 自分は例外である。という理屈に、田上はそれ以上の反論を諦め、そしてその姿勢を盛大な溜息でのみ示してみせた。
「……まあ、これはこれで成長ですかね」
 今神が苦笑いと共に言った。とはいえやはり、その口元はマフラーで隠れているのだが。
「えっへっへぇ」
 浮草が照れ臭そうに頭を掻いてみたところで、今神は外からは見えない――が、彼を知る者には見えずとも悟られもする――薄い笑みと共に話題を切り替える。
「さっき田上さんが言ってたことですけど、そんな気分で帰ってくるだろうって予想してたんですよ、俺達」
「さっき言ってたことっつうと――」
 本についての浮草との問答、ではないだろう。それは「さっき」ではなく「たった今」であるし、それに浮草ならともかく、今神はそんな話を持ち掛ける人物ではない。
 であれば、つまり。
「下ネタ的な意味ではなく?」
「手合わせがしたい的な意味ですね」
 ――ふうむ?
「だとしたらバッチシ予想通りだけど、なんでまた?」
 ――もちろん、俺と一緒に出掛けてた浮草から話を聞いたってことなんだろうけど……荒田のヤツとゴタゴタやってた時にはもう、浮草は帰った後だったしなあ。実は帰ってなくてコソコソ俺をどっかから見てたとか? なわけねえよなあ、コイツが。
「鬼が手合わせするところを見逃した、んですよね?」
「ん? ああ、それか」
「他にも何かあったんですか?」
「いやいや?」
 ――おお怖え怖え。やっぱ本読んでる奴は違うな。
 荒田が享楽亭の関係者だということは知られていない筈だが、だとしても「何かあった」とはあまり思われたくはなかった。隠すことに意味があるかどうかは分からなかったが、後になって「隠しておいた方が良かった」なんてことになるよりはマシだろう、という判断だった。
「あ、そういえば」
 浮草だった。
「何だよ?」
「あの人とはどうなったんですか? ほらあの、顔が半分焼けちゃってる美人さん」
 まずい。
 とは思ったのだが、しかし。
「お前なあ。本人がここにいねえっつっても遠慮しとけよ、顔のことは」
「…………」
 しばし難しい顔をしてみせた浮草は、ぐりんと今神を向き直る。
「もしかして、やっちまいましたかね? よっしー先生」
「……そうだな。減点一」
「ぐぐっ、相手が田上さんだからって油断しちゃったかあ。よっしーに話した時は、美人ってだけにしとたのに」
「で、俺が手合わせしたがってるからって話は?」
 油断がどうとかいう問題か。とは言わないでおき、これ幸いと話を逸らしに掛かる田上だった。いや、指摘自体は真面目なものではあったのだが。
 今神への説明の際は、美人という点だけにしておけた。ということだそうなので、ならば今神は、荒田の顔の話は今初めて耳にしたということになるのだが……それが普通の反応ということになるのだろうか。眉を顰めこそすれ、言及は避けたようだった。
 いや、一言も触れないままというのも、それはそれでということになるかもしれないが――。
「俺達とやりませんか。久しぶりに」
 ――おっ。
「いいねえ! よっしゃ掛かってこい!」
 話題ついでに気分も切り替えてしまおう、ということで二つ返事の田上だった。
 が、とはいえもちろん、自室で暴れるわけにもいかないので、いつもの道場に移動することになるのだが……その最中。
 ――女から見ても美人なのか、アイツ。
 …………。
 ――「も」じゃねえだろ俺。


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