「ふう。この辺にしておきましょうかね」
 栞さんの頬に乗っかった桜の花びらを摘み上げるかそのままにしておくかといういたってどっちでもいい事を思案していると、清さんはすっかり色がついているであろう水の中に筆を静かに沈ませた。
 ここからでは絵の進み具合がいかほどなのかを窺い知る事はできない。が、ちょいと早すぎやしませんか? と言っても僕、絵の事は全く知らないんですけどね。でもそれにしたってパレットにあんまり手をつけてないような。
「もういいんですか?」
「絵について言うのならまだまだですが、日向君の足について言うのなら『もういい』どころじゃなくなっているでしょう?」
「そうですね」
 単に痺れていのるを通り越してもう麻痺してるみたいになってますしね。靴下脱いだら皮膚が青紫色とかになってたりして。
「でも、いいんですか? 中途半端に終わらせちゃって」
 モデルとしてここまでいろいろと耐えてきた以上、構図的に恥ずかしいのはもちろんだけど、ちょっとは完成品を見てみたいという気持ちもある事はある。でも、もう一方のモデルさんは自分がモデルになってる事自体知らないんですよね。少し、いやかなり気の毒かな。ただ寝てるだけでも恥ずかしがりそうなところをこれじゃあ。
「あとは家でやりますよ。実はこんな物も持って来てまして」
 中身を失ってぺしゃんこになったリュックに手を突っ込む清さん。
 まだ何か入っていたんですか。今外に出てる物で全部だとばかり思ってましたけど。
 いくら中身を取り出されたからとはいえそのあまりのぺしゃんこっぷりに年季の漂うリュックから取り出されたるは、アンティーク感の漂う黒と銀のフレームで構成されたカメラ。
 今時はカメラでさえもやけに小型化されてたり薄型化されてたり、そのくせどこにしまってたのかと内部は四次元なのかと疑いたくなるくらいレンズ部分が伸びちゃったりするのに、清さんが取り出したそのカメラにはタイマーもズーム機能もなさそうだった。よく分からないけど、そういうのって高値で取引されたりする部類に入ってるんじゃないですか? たまにテレビで言われてるおもちゃの超合金なんちゃらとかみたいな。
 カメラを構えた清さんは、しゃがんだ姿勢のままでちょこちょこと距離の微調整。水入れ蹴らないでくださいよ、と多少はらはらしたが、そんな事態も起こらず清さんの動きが止まる。
「では撮りますよ」
「はい」
 そしてはい、チーズ。
 ……かと思いきや、予告もなしに突然のシャッター音。絵の続きに使うのだから、カメラを意識するなという事なんだろうか。
 一枚目の撮影が終了し、カメラが一旦下ろされる。そしてその裏から現れたにこやかな顔は、にこやかな口調でこう言い放つ。
「お疲れ様でした」
 あ、一枚だけでよかったんですか。それはそれは。
 言い放たれると同時に、僕は役目から解き放たれる。そして清さんが道具を洗いに手水舎へ向かった後、依然すうすう寝息を立て続けている栞さんを見下ろして考える。
 もう無理矢理起こしても文句は言われませんよね? 体を一周してる二本の腕からも解放されたいんですけど。
「栞さん、栞さん起きてください」
 肩をゆすってみる。するとそれに合わせて体全体が揺れるわけですが、
「んぅ〜、んぅ〜、んぅ〜」
 その揺れに合わせてうめくばかり。どうやらこれは、なかなかしぶといようで。
 さてどうしましょうか? こういう時の対処法は口と鼻を摘む、目を無理矢理こじ開ける、耳の穴に指を突っ込む、鼻フック等々やれる事は意外と思いつく。ただ、「こちらにためらいがなければ」と言うような条件付きの方法ばかりだ。大吾ならこういう時にためらいも遠慮もしないんだろうけどなぁ。
「起きてくださ〜い」
 結局肩を揺すり続ける自分に、思い切りのなさを痛感するのだった。
 揺すった回数が十回を達成しようとした頃だろうか。栞さんの口がそれまでのうめく時とは違う動き方を見せた。更に口だけならまだしも、顔全体をニマニマさせる。
「うぅ〜ん……孝一くん………好き……」
 なんですと!?
「……とーふの肉乗せ……」
 なんとベタな。――よもや、漫画でなしに現実世界でこのネタを体感する事になるとは。
「栞は………とーきの置物……なんちゃって…………」
 なんちゃってって、もしかして洒落のつもりで言ったんですか? 重ねてもしかして、豆腐の肉乗せと陶器の置物でですか? 語感は似てるかもしれませんが、「とー」と「の」しか合ってませんよ? しかも片方接続詞ですし。って言うか、寝言で駄洒落ってどんだけ器用なんですか? 洒落になってない辺り、むしろ余計に器用ですよ?
「分かりましたから起きてくださいってば」
「んん………ん?」
 ネタを披露して満足したのか、再々度肩を揺するとようやく目を覚ましてくれた。
「あれ、いつの間にか寝てた………のかな?」
 ゆっくりむっくりと体を起こすと、膝枕だった事には特に触れず半開きの気だるそうな目でこちらを見詰め、問い掛けてくる。
 ふう、やっと足が解放されたよ。
「寝てましぃっ! ………たよぐっすりと」
 姿勢を崩して楽な体制を取ろうとした途端、足に猛烈な電撃が走る。覚悟はしていたとは言えあまりのビリビリ感に声が裏返ってしまうが、「膝枕に気付いてないならその件はそっとしておこう」と思考できるくらいの余裕はなんとかあったようだ。だだだだだ。
「そっかぁ。………他のみんなは?」
「て、適当にその辺歩き回ってるんじゃないですかね。ほら、向こうに清さん見えてますよあいたたた」
「んー……目がぼやけてよく見えない……」
 ともすれば再びその場にぱたりと倒れて眠ってしまいそうなくらいに朦朧とした栞さんは、なんとも力の入らない様子で目をこする。ただ眠気が醒めきっていないだけなのか、それとも醒めていないのは酔いのほうなのか、不安を感じずにはいられなかった。
 その不安を漂わせる栞さんは何やらビニールシートの上をきょろきょろと見回すと、「あれぇ?」と首を傾げる。
「どうしました?」
 尋ねてみると、半開きの目が再びこちらを見詰めた。
「えっと、なんとなくだけど枕みたいな物があったような………でも枕がこんな所にあるわけないから、何か荷物とか枕代わりにしちゃってたのかなって思ったんだけど」
 しかしビニールシートの上にある物と言えば、枕にするには高過ぎる上に硬過ぎる重箱とクーラーボックスだけ。清さんのリュックはビニールシートから外れた地面の上でスケッチブックの上に重石として乗せられてるし。
「見ての通り何もないですよ。自分の腕とかじゃないんですか?」
「そうなのかなぁ」
 納得しきれない様子だったけど、枕としてふさわしい物が付近に無い以上栞さんは認めざるを得ない。依然眠気を脱しきれない声で「ん〜」とかなんとか考え込むが、それ以上は尋ねてこなかった。
 いやぁさすがに何のヒントもなしに正解に辿り着く事はないようで、良かった良かった。ばらしたところでお互いメリットなんかないんだから、このまま隠し通す方向でいこう。今の栞さんの状態から考えればさほど難しい事でもないだろうし。
「それで、みんなどこか行っちゃったのに孝一くんはどうして一人でここに残ってるの? 一緒に行けばよかったのに」
「あぁ、それは」
 どうしようかな。栞さんに抱きつかれてたからとか言える筈もないし、足が痺れて動けなかったとかも間接的にヒントになりそうで怖いし。荷物番………も駄目かな。清さんの絵描き道具がまだ出しっぱなしだし、それに気がつかれたら清さんもここにいた事はすぐに分かる。
「清さんに絵のモデルを頼まれたんですよ。桜を背景に描きたいとかで」
 完全な嘘をついて後々話がこじれる事を恐れた僕は、半分本当で半分嘘な理由に落ち着く事にした。そしてそれが功を奏し、
「あ、そう言えば清さんそんな事言ってたっけ。出発前に」
 偶然ではあるものの、実際に起こった事と話が繋がった。これなら疑われる事はないだろう。ふう。
 で。栞さんに対する状況説明はこれでいいとして、あとしておかなければならない事はなんだろうか?
 まずはスケッチブックだ。あれに描かれたものを栞さんが見たら、簡単にばれてしまう。しかも清さんが絵を描いた事はたった今僕から聞いたのだから、今すぐそれに興味を示してもおかしくない。まずはその可能性を潰すために「絵ができかけだから覗かないようにって言ってましたよ」とでも釘を刺しておこう。
 そして次に、今この場にいないみんなだ。特に家守さん。帰ってきたら確実に速やかに滞りなくこの話をするだろう。ええもういつものノリで。という事は帰ってきてからでは遅いんだから、どうにかしてこちらから出向いて何とかするしかない。あぁ、なんでここまでしなきゃならないんだろう? まあもし誰かに「じゃあするなよ」と言われてもしますけどね。なぜなら恥ずかしいから。
「ねえ孝一くん」
「あ、はい?」
 目の前の桜を見上げながら今後の行動予定を確認し、いざ行動開始と思ったとほぼ同時に声をかけられ、僅かに動揺しつつもそちらへと視線を移す。
 …………子どもが迷子になった時に迷子センターに来た親がよく言う「ちょっと目を離した隙に」とはこういう事を言うのだろう。
「これ、栞と孝一くんだよね?」
 いつの間にやらシートから歩み出していた栞さんの手には、こちらに向けて開けられたスケッチブック。そこに描かれている風景は、まだ色が殆ど塗られてないとはいえどう見ても先程の僕と栞さんの状況だった。なまじ清さんの絵が上手過ぎるので、「いやあ違うんじゃないですか?」と弁解する事すらままならない。しかもご丁寧に、背を向けて寝ていた筈の栞さんが絵の中ではこっち向いて寝てるし。
 なんで見えてない部分までこんなに正確に描けるんですか清さん。
「そう……みたいですね」
 否定はできない。ので、断定を避けるという消極的な逃げ道を選択するしかなかった僕に、スケッチブックを元の位置に戻して再び隣に座り込んだ栞さんは笑っているような恥ずかしがっているような中途半端な表情を向けた。
「やっぱり孝一くんだったんだね。……ごめんね、寝てる間に迷惑かけちゃったみたいで」
「い、いえ……」
 実害なんて足が痺れた程度ですから迷惑と言うほどでもないんですけどね。今のこのどうにもしがたい雰囲気を害でないとするならば、ですが。
「でもおかげで気持ちよく眠れたし、ありがとう孝一くん」
「そうなんですか? 最初寝言で『枕が硬い』って言ってましたけど」
「え? あれ、本当に? あー、いやその………栞は枕、硬いほうが好き―――ってこれ、物凄く嘘臭いよね。ふふ」
 こちらが指摘する前に自分で結論を出し、さもそれが楽しい事であるかのような表情をする栞さん。彼女のそんな笑顔ももう随分と見慣れたけど、それでも毎回釣られて笑ってしまうのはどうしても避けられなかった。もちろん避ける必要が無いから、抵抗も初めからしてないんだけど。
 しかし今回、栞さんのその笑顔は急に青ざめる。
「あっ。え、えっと、孝一くん。もしかして他にも何か寝言で言ってなかった? 覚えがあるような無いようななんだけど」
「他に、ですか?」
「うん」
 と言うと、あの言われるまで洒落かどうかも分からない理解に難しい冗談ですかね?
「僕が好き」
「えぇっ!?」
「……なのは豆腐の肉乗せで、栞さんが好きなのは陶器の置物なんだそうです」
「も、も〜。普通に言ってよビックリしたぁ〜」
「ビックリしたのはこっちですよ。栞さん、今みたいな感じで言ったんですから」
 あぁ、言った本人でもやっぱりこれが洒落なんだとは気付かないか。一体夢の中で誰を相手にこんな理不尽なギャグを披露してたんでしょうね? そしてその相手は大爆笑だったんですかね? 言ってる間の栞さん、終始にやにやしてたし。あ、でも覚えがあって顔色を悪くしたって事は自分でも意味不明だって分かってるって事なのかな。
 まあたまにありますよね。起きてから夢の事を思い出したら無茶苦茶な展開だったって事が。よくあるパターンなら、誰かに追いかけられてるとか。大抵いきなり追いかけられてるところから始まるんですよね。理由とか経緯とか一切無しで。それなのに、なんで追われてるのが自分だと分かるんですかね? 普通なら逃げる間もなく捕まると思うんですが。
 とまあ恥ずかし紛れの脳内夢議論はこの辺で締め括って、現実と向き合いましょうか。
「桜、綺麗だよね」
 どうやら逃避中なのはあちらも同じらしく、繋がりの無い話題をさも当たり前のように切り出した。が、その割には口調に淀みがないと言うか、栞さんって結構演技派だったりするのかな? 桜を見上げる表情からも話題を逸らそうとする焦りは微塵も感じられず、ただ本当に桜が綺麗だと言わんばかりだった。
「今更ですけど、そうですね」
 もうここに来てから随分時間が経ったけど、薄桃色の花が咲き乱れた長く細い枝を風にそよそよと揺らすそれは、本当に綺麗だった。
 栞さんと並んで暫らく桜を見上げていると、
「なんだか、いろいろごちゃごちゃ考えてるのがどうでもよくなってくるなあ」
 不意に隣からそう聞こえた。独り言のようで、でもこちらにもはっきりと聞こえる、そんな声。
「何か考えてるんですか?」
 聞こえたので一応返事をしてみると、隣の顔が苦笑を浮かべてこちらを向き直る。
「酷いなあ。栞だって普段何も考えてないわけじゃないよ? そりゃあそう見えるかもしれないけどさぁ」
「いえいえ、普段とかそういう意味じゃないですよ」
 ただぽーっと桜に見惚れてるような感じだったので、ついつい。たった今何か考えてたのかな、と。
「………あのね、孝一くん」
 僕の無粋な返しから気を取り直し、もう一度桜を見上げて、そのまま話を続ける栞さん。
「はい?」
 一方の僕は、そんな栞さんの顔を見続けたまま。威勢のいい日差しに当てられて透き通るようなその茶色の髪をも、桜の枝を揺らす風ははらはらとなびかせている。そんな髪に見とれていたのか、それとも穏やかな栞さんの横顔に見とれていたのかは自分でも分からない。でもとにかく、目が離せなかった。
 綺麗だった。
 たった今、二人で見上げた桜よりも。
「さっきその、寝ながら変な事言っちゃったみたいだけど――本当は、ね……」
 寝言の話。つまりあの引っ掛けじみた言い回しの寝言の話。それが、本当は?
「…………」
 見惚れるあまり、返事もできない。ただ横から眺めて、その唇が再び開かれるのを待つばかり。自分でもなぜかは分からない。栞さんの顔は毎日見てるし、話だって毎日のようにしてるのに。なのに今、僕はどうして目を離せない? 返事ができない? 栞さんは普段通りに喋ってるだけじゃないのか? いつもと何が違う?
 好きな人なんだからそりゃあ、可愛いだとか綺麗だとかは思うよ? でもそれだって今に限った事ではないわけで――
「本当はね……」
「…………」
 言い辛い事なのか、僅かに顔をうつむかせ、間を置いて開かれた唇からは同じ台詞が繰り返される。しかしもう少しで核心に入るか。
 そう思った時だった。
「ん? なんだ清サンはいねーのか?」
『わぁっ!』
「な、んだよ二人揃って。話し掛けただけでそんなに驚くこたねーだろ」
 片方は驚きの声を上げた僕と栞さんに驚き返し、もう片方はその背中の上で肩に顔をうずめ、幸せそうに寝息をたてていた。ジョンと栞さんに続いてお昼寝三人目ですか。
 なんなら大吾も寝てればよかったのに。
 驚いた割には我ながら冷静に非難を浴びせるも、
「あ、あのね、後から急に声掛けられたからビックリしちゃってその」
 その隣では栞さんがビックリした、と言うよりはビックリし続けていた。そしてあたふたと弁解を試みるが、この男がそういう空気を読める筈などないわけで。
「はぁ? んなことでいちいちビビってたら身がもたねーだろ」
 やっぱり。
 そりゃあ後ろから話し掛けられたくらいでいちいち驚く人はそうそういないと思うよ? 通常は。うん、大吾の言う通り。
 でもね、じゃあどういう条件が加わったら驚くようになるかってのを考えてみようよ。かと言って正解を出されてもなんだ、困るんだけど、話を中断されるよりは多分マシだからさ、話し掛ける前に気付いてくれたらなーと思う次第ですよ僕は。
「あ、あぅ……そうだけどさ………」
 空気の読めない正論という厄介な相手を前に、今の今まで大いに慌てふためいていた栞さんでさえも沈黙。素晴らしい破壊力だよ大吾くん。褒められたもんじゃないけど。
「よっこいせっと」
 栞さんが黙ったのを合図にビニールシートの上へと侵入してきた大吾は、背中に成美さんを担いだままあぐらをかいた。それでも成美さんの足が地面につかないのは、さすがの身長差と言ったところか。
 さて、こうして第三者が居座ってしまった以上、さっきの続きを悶々と妄想してても仕方がない。この状況で続きが展開される筈がないし、されたら困るし。なら気持ちを切り替えよう。
 仕方が無い仕方が無い。うぅ。
「成美さん、降ろしてあげたら? 横になったほうが寝やすいと思うけど」
 枕はないけどね。
 いくら背中が広いとは言え、そしてそれが大吾の背中であるとは言え、膝の裏に腕を通されて全体的に丸くなったその姿勢は随分と寝辛そうに見えた。それなら横にしてあげたほうが楽だとは思うんだけど。
 ―――なんなら背中の代わりに膝を貸してあげるなりなんなりできるし。
「………いや。降ろす時に目ぇ覚まさせたら文句言われそうだし、このままでいい」
「あはは、そうだねー」
 栞さんは笑って納得してたけど、僕は少し引っかかった。大吾が成美さんの文句を言う時はいつもなんて言うかこう、あからさまなほど憎々しげに言い捨てていた。まあ文句なんだからそれでもおかしくはないんだけど。
 でも今のは憎々しいと言うよりも、成美さんの事を考えて本当にそうしたほうがいいと判断したような……そんな言い方だった。
 どうしたのかな? 随分丸いね大吾くん。
「あん? なんだ孝一?」
「なんでもないよ」
 返ってきたのは、小さな舌打ちだった。
「……んで、他は? ヤモリ達もまだ戻ってきてねえのか?」
「そうだね。清さんは道具を洗いにいってるだけからすぐに戻ってくると思うけど」
 でもそれにしちゃ遅い、と思うのは気のせいだろうか。という事で、栞さんが目覚めてすぐからぶりに手水舎のほうを見てみる。が、それらしき人影はなし。すると僕に合わせて視線を手水舎のほうに向けていた大吾が、
「あそこでか? いくらなんでもあそこに絵の具で色付いた水捨てるのは不味いだろ。実際いねーし」
 まあ、確かに。でも一回、あの辺りに清さんがいたんだけど……諦めて別の水場でも探してるのかな。
 それでもやっぱり遅過ぎるような、と思ったところで、今度は栞さんが証言開始。
「清さん確か絵の道具以外にカメラも持ってきたって言ってたし、もしかしたら洗い物済ませてそのまま写真撮ってるかもねー」
 そうだ。思い返してみれば清さん、僕と栞さんの写真を撮ってからカメラを首に掛けたままだった筈。ならば栞さんの言う通り、次の趣味に移項していてもおかしくない。
 洗ったままの絵描き道具をぶらさげて他の事をしだすと言うのも普通の人でなら想像しにくいが、こと清さんならばあり得る気がする。筆とパレットもあの取っ手付き水入れに収めてしまえば荷物にならないし。
「カメラも? だったら多分そうだろうな。よっ……こいせっと」
 大吾も栞さんの意見に納得すると、成美さんの重みに多少声を出しながらおもむろに立ち上がり、依然置きっ放しのスケッチブックのほうへ歩みだす。
「結局絵の方はどうなったんだ?」
「わーー! 見ちゃ駄目ぇ〜!」
 ビニールシートの前に置かれた靴に突っ込まれる最中の大吾の足に、栞さんが飛び掛って追いすがる。
「うおっ! 危ねえって離せ!」
 そしてバランスを崩しそうになり、ふらつきながら歩みを止める大吾。
 でも残念。みんなそこに描かれてる状況を知ったからそれぞれ散歩に出かけたんですよ。つまりは今更手遅れって事です栞さん。
「あっぶねー……こけたらどうすんだっつの」
「ご、ごめんね」
 絵を見るのを諦めた大吾が再びあぐらをかくと、必死だったとは言え自らの危険行為を謝る。そして本題へ。
「でもあれは見ちゃ駄目なの」
「ん? なんでだよ? あの絵って、あの時の絵だろ? 喜坂が孝一の膝で」
「知ってるの!?」
「知ってるも何もオメー、全員揃ってる時にぶっ倒れたんじゃねえか。知らねーわけねえだろ」
「そそ、そ、そんなぁ………それじゃあ、みんな?」
 その通り。知ってますよ。
 こちらに向けられた不安と驚愕に満ちた顔に僕が無言で頷くと、あまりのショックにがくりと地面に両手をついてうなだれてしまうその顔の持ち主。
「は………は、恥ずかし……」
「いや、僕なんか起きたままで晒し者だったんですから」
「つーか言ってみりゃ寝ながら頭を膝に乗っけてただけだろ? 気にするほどの事か? んな事言ったらコイツなんて今でも背中で寝てるんだぞ?」
 そう言って、背中を揺する。その揺れに成美さんは「うにゅ」と情けない声を漏らし、もそりと動いて体の位置を整えると、何事も無かったかのように規則的な呼吸音を発し始めた。
 普段はあんなだけど、こうして寝てしまえば普通の子どもとなんら変わり無いんだよなあ。大吾の背中ってそんなに寝心地いいんだろうか? 歩いたり何だりで揺れてる中でも寝付けてしまうほど。
「そうはいかないよぉ〜。大吾くん成美ちゃんと違っていつもそうしてるわけじゃないし……」
 ですよねー。
「そういうもんなのか? まあどーでもいいけどよ」
 そういうもんですよー。どーでもよくないですよー。

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