僕と、恥ずかしさのあまりシートの隅でいじけてしまった栞さんと、空気読めない読む気も無い大吾と、その彼の上ですやすや夢心地真っ最中の成美さんの四人は余ったジュースを飲んだりしながら残りの方々の帰りを待っていました。一応栞さんが飲み物に手を出す前に酒が混じってないか確認しましたが、残りは全部ただのジュースだったようで一安心。酔うのが分かってても飲みたくなるって大変ですね、栞さん。
「ただいまー。あれからどうだった? なんかあった?」
 帰ってきた途端にそんな事を訊いてくるのはもちろん、我等のリーダー家守さん。多分リーダーという事で異論はないと思う。
「何もないですよ。あったって言う筈ないでしょう?」
 こう言っておけば本当に何も無かったように聞こえるのではないか、と個人的には思う。まあ栞さんがこの様子じゃあ嘘ってバレバレだけど。
「だぁよねー。あははは」
 そして帰ってきたのは家守さんだけではなく、他のみんなも引き連れてのご帰還で。
「すいません、遅くなりました。写真のほうについ夢中になっちゃいまして、歩き回ってたら家守さん達に止められてしまいましたよ。んっふっふっふ」
「ほっといたらいつまで経っても帰れねえからな。偶然出くわしてよかったゼ」
「ワン!」
 全員集合の締め括りにジョンが一吼えすると、成美さんがむっくりと顔を上げた。
「んむ……む? 寝てる間に戻ってきていたのか。ふあぁ……あ」
「あらあら、お姫様は二人ともお疲れみたいだね。じゃあそろそろ帰ろっか?」
 異論なし、と座っていた全員が立ち上がると、「お疲れ」と評されたお姫様の片割れにもう片方が目を向ける。
「む? 喜坂……どうしたのだ?」
 もし成美さんがお疲れでなければ。そしてもし成美さんが起きていれば、あのタイミングでの大吾の登場を阻止してもらえたかもしれない。そう思うと、成美さんの純粋な気遣いが酷く皮肉めいた言い回しに聞こえるのだった。
「ん? 大丈夫、どうもしないよ」
 言われて初めてどうもしなさそうな顔になると、ついでと言わんばかりににこっと笑顔を作ってみせる栞さん。
 大丈夫でない事は、どうかした事は知っているのにどうにもできないのは、なんだか申し訳無かった。全員集合のこの状態で「どうか」したらもっと大変な事になるのは目に見えてるし、そんな事をする度胸も僕にはありはしない。そしてそんな度胸を欲しいとも全く思わなかったけど、それでもやっぱり申し訳無かった。


 丸めたビニールシートを栞さんが持ち、空の弁当箱を家守さんが持ち、ほぼ空のクーラーボックスを僕が持ち、清さんの荷物を清さんが持ち。準備が整った僕達一行は、いざ帰らんと車に向かって直進していた。
 その際、ふと横目にお堂を写し、目についたのは賽銭箱。
「そうだ、お賽銭……」
 ふとやってみようと思い立ち、口から小さく言葉が漏れた。
「ん? やってくの? こーちゃん」
「ええ。ちょっと行ってきます」
 掛けたい願の内容もあって、言葉少なく集団を離れ、賽銭箱へ向かおうとする。が、それはできなかった。
 賽銭箱へ向かうのは問題無かったんですが、集団を離れられなかったんです。つまるところ全員一緒について来ちゃったんですね。
「みんなお金持ってるー?」
 リーダーのその問いに「持ってない」と答えたのは、大吾とサタデー。他はみんな持ってるそうです。例外として「ワン!」という回答もありましたが、まあコメントするほどの事でもないでしょう。
「別にいいっての」としぶる大吾に半ば無理矢理硬貨を貸し付けた成美さんは、自分も彼の背中の上から硬貨を投げ込む。その硬貨が見事音を立てて賽銭箱に収まったのを確認すると、静かに手を合わせて願い事。
 それを合図に、みんなも次々硬貨を投げ入れて手を合わせる。サタデーも清さんからお金を借りたらしい。
 その投げ入れられた硬貨がそれぞれ何円玉なのか、なんて事は気にするだけ自分がせこい人間であるとアピールしてるだけなので気にしない事にした。多少は気になるけど。
「それにしてもこの賽銭箱、中々大きいですねえ。人一人くらいは入れそうな感じですが。んっふっふっふ」
 脱出マジックでも企んでるんですか清さん。そりゃ確かに大きめではありますが。
 清さんが言うとそんな感じのツッコミを入れたくなるのは僕だけだろうか? 多分そうではないと思う。
 さて、簡単だけども用事も済んだので引き続き歩き出しましょう。
 という事で、再度車へ向かって歩き出す。その間の話題は成り行き上、
「怒橋は何を願ったのだ?」
「あぁ? んな事いちいち他人に言うかよ」
 こういった具合で。そしてそれはもちろん今の二人の間だけに限った話ではなく、僕にも降りかかってきた。
「こーちゃんはどんなのお願いした? やっぱ料理関係?」
 一瞬、「さすがにそれは」と答えそうになった。料理に関してなら今日は大成功だったので、正直願う事なんてもうなかったんですよ。今に満足しちゃってますから。
 でも。
「そんなところですかね」
 そう答えた。なぜなら、どうせ本当の願い事は他人に教えられる筈がないからだ。さっきの成美さんに対する大吾の返答と同じに。
 そしてその本当の願い事とは―――栞さんの話を、眠っている成美さんを引き連れて現れた大吾に中断させられた栞さんの話を、改めて、そしてその時こそは最後まで聞く事だった。
 あの展開で先を期待するなと言われたって、そりゃあ無理ってもんでしょう?
『さっきのその、寝言の話なんだけど……本当はね………』
 この栞さんの言葉を純粋に使用されている言葉の意味だけで捉えるなら、「寝言の話の続き」という至って普通のなんでもない笑い話なんだろう。
 けど、その寝言の内容、そしてその時の栞さんが醸し出していた柔らかい空気と、最後にその空気に飲まれて横顔に見惚れていた僕の若干の妄想もあって、それは単なる笑い話では有り得なくなってしまった。だから笑い話では有り得なくなったその話がどこへ行き着くのか。僕はその先を知りたい。
 ある程度の予想を立てておきながら自分では何もせずにあちらが来るのを待つ、というのはいささか卑怯な気もするけど。
 返事を終え、自分での再確認も済ませて家守さんから目を逸らす。するとその時、集団の後方から清さんの声がしたので振り返ってそちらを見る。
「喜坂さんはどうなんですか? 私はそりゃもう十円玉一枚には納まり切らないくらいにいろいろな事をお願いしましたがね。んっふっふっふ」
 清さんには悪いけど、その言葉から僕が気にかけたのは清さんの願い事やその量ではなくそれに対する栞さんの返事だった。
 栞さんもあの話の事を気にかけてたりするのだろうか。それならもしかして栞さんの願い事も―――でもそれなら、栞さんの返事は僕や大吾と同じになる筈で。……ああ、厳密に言うなら僕は違うか。考えた事は同じだけど、口では嘘をついたんだっけ。
「………言えないです。ごめんなさい」
 やっぱり。
 ……でも、何か想像してたのと違うかな? 僕の予想ではもっとこう慌てて、恥ずかしそうにして、必死に答えてるようなイメージだったんだけど。今の栞さんはただ落ち込んでるようにしか―――見えない。
「……そうですか? それは残念」
 問い掛けた清さんもそれを感じ取って面食らったのか、顎を触りながら返しの返しに若干のタイムラグを要する。そしてそれ以上追求するような事もなく、栞さんから手を引いた。
 どうしたんだろう? もしかして、大吾に話の腰を折られた事をまだ引きずってたり?


 そして帰りの車の中。
「高台なだけあって景色も結構良かったし、天気も良かったし、お花見大成功だね!」
「弁当も美味しかったですしね」
「しかし日向君、あまり景色は堪能できませんでしたねえ」
「楽が絵のモデルになんぞした事だって原因の一つだろうに」
「ぐー」
 等と相変わらずの賑やかさの中でも、栞さんだけは話に加わってこなかった。話の展開に合わせて後部座席を覗いてみると、家守さんの真後ろ、つまり右の窓際の席に着いていた栞さんは、外の様子を眺めながら何をするでもなくただ静かに座っていた。もしかしたら寝てしまっているだけなのかもしれないが。


「着いたよー」
「んぉ。もうか」
 家守さんの宣言に、がやがやと騒がしかった中で眠ってしまった大吾が僕の真後ろで目を覚ます。車に乗ると寝てしまうのはもう毎度の事だ。
 一方その反対側の席の栞さんは、明らかに沈んだ声で「あの、お先に」とだけ言い残して駐車場からそそくさとあまくに荘へ。もちろんそのまま部屋に戻るのだろう。誰よりも早く車を降りて、振り返りもせずに早足で。
「こーちゃん、しぃちゃんなんかあったの?」
 取り残された全員が一番手から数秒遅れでぞろぞろと車を降りた後、短い間にドアの閉められる音が四回。それが鳴り止むと、家守さんが狐にでも摘まれたような顔で尋ねてきた。
「いや……無かったっちゃあ無かったんですけど………」
 あったなんて口が裂けても言えやしない。けど、栞さんのあの様子を見ると何もないと言い捨てるのもどうかと思う。結果、どちらも満たそうとして前者の意味丸出しの答えに。
 セルフ誘導尋問か。僕も器用な事をするもんだ。あぁう。
「ふーん。まあいいや、そんじゃこーちゃんはしぃちゃんの分まで荷物を持つ事」
「はい………」
「まあいいや」と言った割に荷物係を仰せ付けるのは、多分責められているんだろう。中途半端に隠そうとするから自分も関わってるんだとバレちゃうんだよもう。無難なところで「分かりません」とでも答えておけば……………ああ、そりゃ最悪だ。
 いきさつは分からないけど自分が関わってる事柄で栞さんが落ち込んでる。それを「分からない」と切り捨てるのは、酷い具合に最悪だ。僕としては。
 誰と誰がケンカを始めたとか、誰それが泣き出したとか、そういう具体的な確定的な出来事があったわけじゃなかった。だけど、匂わせる程度にいつもと違う空気にみんなは揃って口を噤む。
「口を開けられない」と言うよりは「開けないほうがいいのだろう」くらいのレベルではあるのだろう。前を歩く大吾の背の上から成美さんが、クーラーボックスとビニールシートをまとめて抱える僕に何か声を掛けようとして―――止めた事から推測するには。


「しぃちゃん、来ないね」
「……ですね」
「ねえこーちゃん、良かったらでいいんだけどさ、何があったか話してくれないかな?」
「…………………分かりました」
「うん。ありがとう」
「あの膝枕の後、二人っきりに……なったんですね。それで………なんて言うか、いい感じになりま」
「オッケー分かったそこまで」
「はい?」
「ストップストップ。それ以上は言ってくれなくてもいいよ。情報としてはそれだけで充分だし、何より悪いからね」
「はあ。……普段煽ってた割にはそういう気遣いもするんですね、家守さん」
「ありゃ。なんだろうもしかしてアタシってイメージ悪い?」
「こういう事に関しては、それなりに」
「ショックだなー」
「それはどうでもいいんですけど」
「どうでもいいんだ」
「今の話だけで、本当に何か分かったんですか? 充分って言いましたけど」
「それより先に散らし寿司作っちゃわない? あと具だけなんだし」
「はぁ……まあ、弁当の余り物ですからね」


 さっさと作って、作ったからにはもう食べちゃおうという事でさっさと食べ始め、「ごちそうさま」も二人ほぼ同時。三人で食べて丁度いいくらいかなー、と踏んでいた昼の弁当作りで余った酢飯。その酢飯を全部使い、全部平らげ、正直ちょっとお腹が苦しい。
 でも今はそんな事を気にしている場合じゃなくて、どうして三人で食べる予定だった散らし寿司を二人で食べる事になったのかのかを考えなければならない。
「それでその……」
 僕が切り出すと、「言わなくても分かってるよ」とでも言うように家守さんが言葉を重ねてくる。
「いい感じになったって事はさ、どっちか一方じゃなくてお互いに『その気』だったって事だよね?」
「ええ、まあ………あ、いえ、少なくとも僕は、でしょうか」
 今の今まで家守さんが言うように「お互い」そうだったと思っていた筈なのに、思っていたから「いい感じになった」なんて言葉を使ったのに、いざ確認されるとそんな臆病な訂正をしてしまうのだった。
 自分で自分を臆病とは、これまた臆病な話だ。そうだと分かってるなら修正すればいいのに、それすら怖がって結局「臆病」で落ち着いてるんだから。そんなだからこれまで浮いた話の一つも無かったんじゃない? どーよ、僕。
 そしてそんな僕の自嘲に同調するが如く、家守さんはテーブルに肘を突きながら同時に溜息もついた。そのまま、溜息をつくに値する僕の話へ。
「結構意地悪いんだね、こーちゃん」
 その口調は呆れている事になんのフィルターも掛けられていなかった。言葉が無かったとしても、その目だけ見れば分かってしまう。
 僕は今、呆れられている。
「…………」
 あまりにも情けなくて、返事どころか頷く事すらできなかった。ただ目を合わせるのが辛くなって首を垂らしただけの事は、頷くとは言わないだろうから。
「―――なんてね。ごめんごめんちょっと虐めてみたくなっただけだよ。悪いって字は入っちゃってるけどさ、意地が悪いのは別に悪い事じゃないからね。だってアタシ、ナンパ野郎なこーちゃんなんて嫌だもん」
「意地が悪い」の反対が「ナンパ野郎」というのはいささか強引な発展のさせ方だと思うけど、確かにそれは自分でも気持ち悪い。もちろんそういう人も実際にいるわけで、その人達がみんな気持ち悪いって意味じゃないんだけど……そういう行為に似合ってないんだよね。外見も内面も。では試しに一発。
 ヘーイそこの彼うぉえっ。
 やっぱり駄目でした。「ナンパ野郎」から真っ先に出てきたのがこの古臭いフレーズだけな辺りで、僕には向いてない。それはよーく分かりました。
「そそ。その見事な苦笑いが見たくてアタシはこーちゃんを虐めてるんだからさ、本気で落ち込むのはお互いのためになんないって」
 あっさり引っかかって垂らした顔を上げた先ではさっきの表情はどこへやら、いつもと同じ冗談半分のいやーな笑みが待っていました。禁煙補助剤を口から覗いた白い歯の間に生やし、キシシシシと音を立てるあの笑みが。まあ、禁煙補助剤は有ったり無かったりしますけどね。今も首を垂らす前までは咥えてなかったし。
 向かい合う、笑いと苦笑い。そしてそれが収まる頃には、その余韻も含めてお互い穏やかな顔に。
「でね、こーちゃん。提案なんだけど」
「なんですか?」
「何も教えないっていうのはどうかな」
 そして家守さんが引き続き穏やかな顔のままそう言い放つと、
「え?」
 僕だけが穏やかな顔から困惑した顔になる。それを見てようやく、家守さんの穏やかな表情も変化した。口から白い棒を離しながら、慌てて訂正するかのような。
「あー、これは別にね? 虐めてるわけじゃなくて―――こーちゃん、しぃちゃんの事好きなんでしょ?」
「………はい」
 また少し躊躇ってしまったけれど、それでも今度は、最後にははっきりと頷いて見せる。家守さんが「意地悪くてもいい」と言ってくれた、結局その事で僕の意地悪さは少しだけ和らいだらしい。多分、それも見越して「呆れてくれた」んだろうなぁ。
 ……この人には敵わないな。本当に。
「それならね、こーちゃんがしぃちゃんを好きだと思ってるんだったら、アタシから聞かなくてもそのうち分かる時がくると思うんだよ。しぃちゃんがどうして今あんな感じなのか」
「家守さんは知ってるんですか? その理由」
「まぁ、ね」
 はっきりとした肯定。だけど、肯定しながらもその口調は弱々しかった。
 しかしそれも一瞬の事。次に口を開く頃には既に、口調も表情も元通り。
「ほら、その『理由』をアタシから聞いたのと自分で見つけたのだったらやっぱり自分で見つけたほうが格好いいでしょ? どっちも結果が同じなら格好いいほうがいいじゃんやっぱり」
「急がば回れって事ですか?」
「そうそうそれそれ」
 自分で言っといてなんですが、違うと思います。違うとは思いますけど、ここは―――提案に乗っておいたほうがいいんですかね? なんせこっちは何も知らなくて、家守さんは知っててそう言ってるんですし。
「………分かりました。じゃあこれ以上はもう訊きません」
「うん、それでオッケーだよ。アタシから聞くよりしぃちゃん本人から聞いたほうが―――重みとかそういうの、よく分かると思うから」
 なるほど、そういう………こっちが頷く前に言ってくださいよ。もしかしたらまた弄られてるだけじゃないかってちょっと不安になっちゃったじゃないですか。
 それでも一応話はまとまりこれ以上は聞かないという事になったので、締め括りに入る僕と家守さん。
「ありがとうございました」
「いえいえ大したお力にもなれませんで」
 そんな謙遜に「そんな事はないですよ」と返しそうになったけど、自分から力を借りるのを拒んでおいてそれも変かなと二の句は継げず、このまま解散という形にする事にした。
 そして見送りの玄関口にて。
「今日も晩ご飯、美味しかったよ」
「作ったの殆ど家守さんじゃないですか。自画自賛ですか?」
「ありゃ、そうなるのかな? お褒めに預かり光栄です」
「褒めてませ――いや、それでいいのかなこの場合」
「あははは。そんじゃこーちゃん、頑張ってね」
「………はい」


 しかしそれだけでは終わってもらえず、「時間はいくらかかってもいいんだからね。あんまり焦らない事」とか「いつも通りに応援してるからねー。しっしっし」とかのありがたい事もありがたくない事も言われ続けて、結局五分は話が続いただろうか。つまり結局のところ家守さんは、首を突っ込みたくて仕方が無いらしい。
「こーちゃんがここに来て半月ちょっとかぁ。うん、そんなもんかな。あーでももちょっと……」
「何の話ですか?」
「しょっちゅう顔を合わせてる二人が仲良しさんになって、恋に落ちちゃうまでの期間」
「…………」
 落ちちゃう以前からはやし立ててましたよね?
 そんな家守さんが自室に戻り、寂しいくらいに静まり返った部屋の中。いつも通りに風呂に入ったりテレビで時間を潰したり布団を敷いたりをしたりして、あっという間に寝る準備完成。
 と言ってさっさと寝ようとしたかと言われればそうではなく、眠気に負けて目が閉じるまで今自分が寝ている布団のすぐ傍の壁が気になって仕方ないだった。
 もしかしたら今朝のように栞さんが飛び出してきたりしやしないかとついつい不安になり、そして同時に期待もした。不安な部分は、今栞さんに会っても何を言えばいいのかさっぱりな事。期待した部分は、ただ栞さんに会えるという事。
 もちろん、会うだけなら簡単だ。ドアから外に出て隣の部屋のドアをノックすればいい。時間帯がどうだとか問題点はあるけど、とにかくそれで会う事はできる。でも僕はそうしないし、できない。だから事故的に、偶発的に会えるのならば、それが僕にとってはありがたい。「仕方がない事だから」と割り切れるからだ。言い訳できるからだ。
 ……でももちろんそんな事故が起こるわけもなく、身体的に言えばただ壁のほうを眺めてじっとしていただけの僕のまぶたは、自分でも気付かない間に閉じてしまうのだった。大事な人が家守さんの言う「重み」を抱えて薄壁一枚隔てた向こうにいるというのに、それはもうあっさりと。


 家守さんは「時間はいくらかかってもいい」と言ってくれたけど、やっぱりできるだけ急ごう。毎晩あんなに気にしてるんじゃ、客観的に見てよろしくなさそうだから。
 そう考えたのは、閉め忘れたカーテンから差し込む朝日に目を覚ましてからだった。
 ニワトリ――曜日毎に姿が変わる彼等の日曜担当のけたたましい鳴き声が響いたのは、その直後。

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