第二章
六つのファーストコンタクト



 やっぱりできるだけ急ごう。
 この言葉を反復する度、焦燥感が増すばかりです。
 おはようございます。204号室住人、日向孝一です。
 あれから一晩過ぎました。あれからというのはもちろん、あの花見の日からです。そして本日、目を覚まし、ついさっき「できるだけ急ごう」と決意して、そして……何もしてません。何をすればいいのか分かりません。
「クォクェクォックォーーーーーーーーー!」
 すると聞こえてくるわけです。日曜限定、あまくに荘住人の目覚ましボイスが。
 この声を聞くのももう三度目になるかぁ……あ、そうだ。
 というわけで今回は、あの七色生命体と初遭遇した一週間の奮闘をお送りしたいと思います。いや、追いかけたって言うよりはただ会いに行ってただけなんですけどね。世話係りくんに連れられて。別に奮闘もしてないし。
 ――言われるまでもなく現実逃避ですよええ。
 さて! それでは参りましょう二週間前の日曜日へ!


「クォクェクォックォーーーーーーーーー!」
 本日は日曜日。今のけたたましい鳴き声から推察するに、日曜担当はニワトリって事でまあまず間違いはないでしょう。
 先日、移動式植物のサタデーに言われて、曜日毎に顔を出す事になってるんだけど……大吾、また昨日みたいに昼過ぎくらいになるのかな?
 まだ見ぬサンデーさんは一鳴きしたら落ち着いたのか、初めの一発以降鳴き声は発しなかったそこそこ平和な朝を迎えることができた。
 ああ、鳴いてくれたのが起きてからで良かった。自分で起きるのと誰かに起こされるんじゃ目覚めの気持ちよさが段違いだもんね。さあ、顔洗って朝ご飯朝ご飯。


 する事のない休日の時間はさっさと過ぎ去り、正午。
「あ、大吾だ。ねえねえ大吾大吾、サタデーが言ってたよ。お礼言っとけって」
 部屋を訪ねてきた大吾に連れられ、清さんの部屋へ向かってみれば、現れたのは当たり前のように日本語を喋るニワトリさん。でもそれは想定内だったので、特に驚かずに聞き流す。
 ここは102号室なのでもちろん清さんがいるんだけど、いつもの笑みを浮かべたままで静観中。そしてこの後お礼を言われるであろう大吾は、
「そんなんいいってのに」
 と、照れ隠し。しかしニワトリさんは構わずサタデーが言ったらしい言葉通りに……と思ったんだけど、なぜかそのまんまるおめめは僕のほうに向けられた。
「キミが孝一くんかな? うん、孝一くんだね。そっかそっか、キミが孝一くんか。ボクはサンデーだよ。サタデーが寝ぼすけで月曜まで寝てたりしてなければね」
 え。僕は確かに孝一だけど、大吾にお礼言うって流れじゃなかったの?
 しかし大吾は特に気にも留めない様子で、
「寝過ごしてたらオマエが出てくるわけねーだろ。んな事になったらマンデーどうすんだよ」
「そっかそっかそうだよね。大吾頭いいねー。何言ってんの? それでさ、ありがとういっつも来てくれて。サタデーが言っとけって」
 大吾の話が理解できたのかできてないのか不明な上に、後半の話は最初にしたよね? 自分で話し振っといてほったらかしかと思ったら何だろうこの時間差話法。
「だからいいってのに」
 と言いつつ、まんざらでもなく嬉しそうな大吾。そう思うのも分からないでもないけど、多分僕が大吾だったら嬉しく思う以前に話の展開についていけないよ。さすが世話係、慣れてるね。
「それでは挨拶も済んだところで、中にお上がりください。んっふっふっふ」
「あ、そうだね。入るといいよ。立ってたら疲れるもんね。って事で、初めまして孝一くん。ボクが日曜担当のサンデーだよ。オスだから卵は産まないよ。残念でした」
「は、はあ……」
 思わず返事にためらいが生じるが中に入れと勧めてくれている事には変わりないので、ここはありがたく誘いをうける事にしよう。悪い人……もとい、ニワトリではなさそうだし。
『お邪魔します』
 僕よりちょっと大きい清さんと、僕の膝くらいの大きさしかないサンデーの背中を追って昨日と同じく部屋の中へ。まあ、サンデーの場合は背中と言うより尻を追うって言ったほうが正解かもしれないけど。体形的に。ふりふり。
「孝一くんって料理できるんだよね。大吾と違って偉いね。今日もいい天気だけどお散歩行かない? 大吾」
「オマエさっき疲れるから中に入れって言ったばっかだろ」
 返事しようとしたらそれよりも早く、鳥特有の緩いロボットダンスみたいな動きで大吾へと目を移し次の話題へ。中途半端に開きかけた口を気まずい思いとともに閉じると清さんにそれを察知された。思いの他恥ずかしい。
「んっふっふっふ。まあ気を悪くしないでくださいね。慣れてくれば可愛いものですよ」
「清一郎さん、それ僕の事? 僕の事? 可愛いの? オスだよ僕。どうしたの孝一くん疲れたの? お茶飲む?」
 可愛いと言われて嬉しかったのか気味悪く思ったのか、羽をバサバサさせるニワトリさん。そして当然の如く話題は変更される。
 きみのほうこそよく疲れないね。そんなにせわしなく話題と首の向きを入れ替えて。さっきから話と関係ない方向にもあっちこっち向いてるし。
「そんなことないよ。お茶は……清さん、一杯貰ってもいいですか?」
 つぶらと言うか無表情と言うか、そんなサンデーの目に見詰められると精神的に追い詰められていくような気がするのは僕が変なんだろうか。
 僕が苦し紛れにお茶を頼むと清さんはゆっくりと立ち上がりつつ、
「ええ、持ってきましょう。怒橋君もいかがです?」
「あ、頂きます」
 大吾って清さんにだけ言葉使いが丁寧だよなあ、と今更な事を考えてなおもサンデーの眼差しから逃れようと試みる。しかしその目は、てこてこ歩いて逸らした視線の先へと入ってきた。
「孝一くんも一緒に行かない? お散歩。他のみんなも誘おうよ」
 首を斜め四十五度くらいに傾けながら、今回は話題が転換される事もなく。普通に会話できれば可愛い――かもしれない。ま、そこは慣れかな。
「オマエそんなに散歩したいのか? 分かった分かった、茶ぁ貰ったら行ってやるよ。全員来れるかどうかは知らねーけどな」
 こんなふうに。
「わーい」


「もちろんついて行くよ!」
「む? 買い物は昨日行ったばかりだし、そうだな。わたしも行かせてもらおうか」
 そんなわけで、四人と一匹と一羽で出発。残念ながら家守さんは今日もお仕事でいませんでした。日曜だと言うのに大変ですね。そして清さんはと言うと、
「いやあ二日連続で遊びに出かけるのは年寄りには辛いですねえ。主に腰が。んっふっふっふ。なのでおじさんは今日はダウンです。若者同士、楽しんできてください」
 との事。まあ本音は最後の一言なんだろうけどね。しかし成美さんは若者にカウントしてもいいのだろうか? 清さんの部屋を出る前に訊いたから成美さんの耳には入ってないけどね。
 今、大吾の背中の上には成美さんが。そして頭の上にはサンデーが。更に右手にはジョンのリードが。
「えーっと、大吾、大丈夫なの?」
 いろんな意味で可哀想な重装備さに、思わず助け舟を出してあげたくなる。動物三匹……いやいや、二匹と成美さんを一人で面倒見るとは。
 すると大吾は不機嫌そうに、
「うるせえな。いつもこうなんだよ」
 照れちゃってまあ。
「大吾怒った? 怒った?」
「別に怒ってなんか」
「哀沢さん、ぼく邪魔じゃない? ジョンに乗ったほうがいい?」
「ぬぐっ」
 大吾でもこれに引っかかる事あるんだね。
 僕も清さんの部屋で同じようになったけど、その道のプロが同じ失敗をしたところに出くわして何故かほっとした。そして他の方々も気まずそうに口を閉ざす大吾の様子に、おかしみの意味を込めてくすっと息を漏らす。すると大吾は笑うなと言わんばかりに閉ざした口を更に歪ませるが、誰もそんな事はお構いなし。
 すると栞さんが人差し指を立てて、
「じゃあさ、栞がジョン、孝一くんがサンデー連れて歩こうよ。そうすればみんなそれぞれ一対一でしょ?」
「ワン!」
「うん、それいいね」
 アニマル陣は賛成を表明。では人間陣は?
「別に大丈夫だっつってんのによ……」
「妙なところで意地を張るな。良いではないか減るもんでなし」
「僕は別に構わないよ?」
 二:一で賛成多数。よってこの法案は可決されました。なのでいそいそと新法案の施行に取り掛かりましょう。いそいそ。ごそごそ。ワンワン。コケコケ。
「もさもさしてる大吾より座りやすいや。ジョンは今日も大きいね。哀沢さん乗れちゃうんじゃないかな」
 話の前半は僕と大吾の髪のボリュームについての話。
「悪かったなもさもさでよ」
 後半は聞いての通りで結構失礼な話。自由だねえ人の頭の上で。ああ、あったかい。ニワトリって人より平均体温高いんだっけ? 鳥類全般かな? 卵暖めるしね。関係無いかな。どうだろ。それより今僕ってかなり間抜けな見た目なんだろうな。頭にニワトリ乗せて。
 まあそれらの事は非常にどうでもいいとして。サンデーの後半の話に対し成美さんは、
「試してみた事はあるがな、五歩でジョンがへばってしまったのだ。あの時は悪かったな、ジョン」
「ワフッ」
 お散歩中で機嫌が良いジョンはあっさりと謝罪受け入れ。
 ……成美さん、試したんだ。
「ジョンはいい子だねー。偉い偉い」
 ジョンが交代したリードの持ち手に頭を撫でられ、更に気分をよくした事が素人の僕でもよく分かる。尻尾振ってるし。
 するとその時僕の頭の上から、
「ぼくは体の大きさ的に乗せてもらう側だもんね。誰か乗せてみたいなあ。ねえねえ大吾、哀沢さん乗せてると楽しい? 今日はこのままどこに行くのかなー」
 どちらの質問も大吾宛てのものだったので、隣を歩く大吾の側へ頭を向ける。すると同じく大吾のほうを見ていたであろうサンデーの向きがずれ、頭の上でちょこちょこと方向修正。くすぐったい。
「こんなの乗せてるだけで楽しいわけねーだろ。それと、適当にこの辺回ったらすぐ家に帰るぞ」
 面倒臭そうに答えるも、即座に頭を平手で叩かれて僅かに前のめりになりつつ小さくうめく大吾。そりゃそうなって当たり前さ。そんな答えじゃね。
「こんなのとは何だこんなのとは。お世辞でもいいから楽しいと答えておけ。気が利かない奴だな」
「んなこと言ったってしゃーねーだろ!? 楽しくないもんは楽しくねーんだからよ!」
 叩かれた事へのささやかながらの仕返しか、大吾の声が大きくなる。でもこの場の誰も慌てやしない。引越しから四日目な新入りの僕でさえも慌てない。
「だからお世辞で構わんと言っているだろうが。楽しくない事くらいわたしも……まあいい。それでは逆に訊こう。背中に乗せるものが何だったら楽しいのだ?」
「何乗せたら楽しいとかそんなわけあるかよ! オレは乗り物前提か!?」
「ああそうだお前は乗り物前提だ。話の主題がそこなのだから仕方ないだろうが」
「だから他のヤツならともかく、実際乗ってるオマエがその話をするなっての!」
「先にわたしをこんなの扱いしたのはお前ではないか」
 周りに一切緊張感を与えない口喧嘩にむしろ場の雰囲気は和み、歩く速度も変わることなくのんびりとしたお散歩ペースのまま。これぞまさに平和。いいねえ。
「やっぱり楽しそうだね。どこに向かってるんだろう?」
 頭の上からものんびりコメント。
「喧嘩するほど仲がいいって、本当だよねー。あの二人見てるといっつも思うよ」
「ですねえ。お互い嫌い合ってるわけでもないのに、本当にああなるんだから不思議なもんです」
 サンデーに釣られて栞さんとそんな話をしつつ、後ろから彼らの仲のよさをじっくり観賞。するとまたしても頭の上からお言葉が。
「仲がいいと喧嘩するの? じゃあ孝一くんと喜坂さんも喧嘩したことあるの?」
『ないない!』
「お散歩楽しいな。ね、ジョン」
「ワンワン!」
 してやられた、と顔を見合わせて苦笑い。
 それから、「この辺周ったらすぐに帰る」筈だった散歩は結構長続きしました。二人が口喧嘩してる間、明らかに「この辺」を逸脱した範囲まで歩いて行っちゃったからね。僕と栞さんはそれについて行っただけです。
 まあ、サンデーと同じく、僕も楽しいからいいけどね。もっと喧嘩しなさい、前のお二人。


「えーと、それじゃあ今日は肉じゃがです。家守さんはじゃがいも、栞さんは人参を切ってください。他は僕がやっときますんで」
『おー』
「皮剥き機無いけど大丈夫ですかね?」
「まあさすがにこれくらいなら……ってちょっと、しぃちゃん?」
「よいしょっ、よいしょっ」
「あ、あの栞さん。さっそく頑張ってくれてるところ悪いんですけど皮剥かないと。しかもそんな両手で包丁押さえつけなくても」
「え? あ、人参も皮剥くの? あ、あはは、そーだよねそーだよね。何か食べる時よりごわごわしてて変だなーとは思ってたんだよ」
「が、頑張ってねこーちゃん」
「一層気を引き締めたいと思います」
「目を逸らさないでぇー!」
『……………』
「だ、だからって二人してじっと見ないでよぉ!」


 月曜日。
「おっす」
「あ、おはよう。すぐ出るから待ってて」
 本日は朝一のけたたましい鳴き声も無く、ぶっちゃけさっき起きたばっかりかつさっき朝ご飯を兼ねた昼ご飯を食べたところですおはよう大吾。
 あーよく寝過ぎた。ちょっと頭痛いかな。
 マンデーさんは一体何の姿なのやら? さあさあ今日もそれを確かめに清さんの部屋へ行きましょう。植物、ニワトリと来て次は――
「多分裏庭にいるからよ、先にそっち行くぞ」
「あ、うん」
 あれ、清さんの部屋じゃないんだ。裏庭って事は、ジョンと一緒にいるのかな?
 階段を降りて言葉通りにそのまま裏へと直行。そこにはいつものようにまだ犬小屋に繋がれたままのジョンと、
「あら、今日は孝一さん。わたくしがマンデーでございます。サタデーとサンデーがお世話になりました」
 その横に寄り添うように犬。言葉遣いと声質から察するにメスらしい。
「あ、いえこちらこそ」
 礼儀正しくぺこりと頭を下げるマンデーさんに、こちらも釣られて頭を下げる。三日目にして初めてまともな出会いの挨拶ができた。いやはや。
 そのまともなサンデーさんはジョンと並んで座っているが、彼と比べると一回り小さく、その白と茶の体毛は触ったらふかふかしていそうなくらい長い。それ故ついつい撫でてみたいという衝動に駆られてしまうが、しかし人の、それも女性の声で女性の言葉使いをされると安易に触るのはためらわれた。
 不思議なもんだなあ。喋ってるだけで他は普通の犬と何も違わない筈なのに。
「大吾さんも、今日は。いつもありがとうございます」
 僕にしたのと同じように大吾にも頭を下げる。
「おう」
 対して大吾は口だけで返事。まあ、普通はそんな感じだよね。僕だって誰かに会うたびペコペコしてるわけじゃないし。それでマンデーさんが変って言うつもりもないけどさ。
「もうこのまま散歩に行くの?」
 大吾が彼等に会いに来たという事はお仕事に時間なのであって、と言う事はつまりその可能性が高い。だから何だと言われれば、別に何もないです。僕は今日も暇だし。
「いんや。まずはこれだな」
 どこから取り出したのか、いや最初から持っていたのか、持ち上げられたその手には二種類のブラシが握られていた。
「昨日はサンデーがゴネたから先に散歩に出かけたんだが、いつもはこっちが先なんだよ」
「それで結局帰ったのはどれだけ経ってからでしたっけ? 本当に仲のよろしい事ですわね」
「ワン!」
 即座に突っ込まれ、砂糖入りだと思って飲んだコーヒーがブラックだったかのような顔になる大吾。その心情を反映してブラシを持ち上げていた腕もだらんと情けなく垂れ下がる。
 ちなみにマンデーさんが言った仲がいいという言葉が誰と誰を指してるのかは、言わずもがな。
「今になって文句言うんだったらサンデーにゴネさせなきゃよかっただろうがよ……」
 語尾に今一つ締りがない。これで相手が成美さんだったら逆に張り切るんだろうな。分かりやすいと言うか可愛らしいと言うか。
「あら。別に文句はありませんわよ? それにあの子は人の話なんか聞いてくれませんもの。まあ、あの子の体なんですからあの子の自由に使うのが一番なんですけどね」
 そっか、週に一日しか自由に動けないんだもんね。いい人、もとい、いい犬だなあ。
「その代わりオマエもオマエのやりたいようにやるってか?」
「もちろんですわよ? なのでほら、早く済ませちゃってくださいます?」
 散歩がマンデーさんの趣味ってことかな? みんな散歩が好きなんだなあ。サタデーもサンデーも散歩の時ご機嫌だったし。サタデーは飲み物のせいだったのかもしれないけどね。
「オレの仕事はおまけってか。んじゃほれ孝一、オマエはジョンのほうやってくれ」
「あ、うん。って言っても僕、やり方知らないよ?」
 ブラシの片方を受け取るも、期待の目でこちらを見上げるジョンを前にして困惑する。やっぱり手順があったりするんじゃないのかな。毛を梳くだけとは言え。
「要はジョンのご機嫌を取ればいいんだよ。あんまり力入れずにササッと全身ブラシかけたら、あとは気持ち良さそうにしてるとこやってりゃいいから」
 何気に難しいこと言われてる気もするけどお手柔らかにね、ジョン。
「ワンワン!」
 そうと決まれば早速、ではなくまずは場所替え。大吾によると抜けた毛がゴミになるからだそうです。


 という事で裏からではありますが、
『お邪魔します』
「お仕事ご苦労様です。んっふっふっふ」
 部屋に上がると、すぐ隣には掃除機とゴミ箱、テーブルの上には麦茶が入ったコップが二つ、用意されていた。その準備の良さに、いつもここでやってるんだなと瞬時に把握。まあ家守さんは仕事だから、一階で開いてるのこの部屋だけだしね。
「では大吾さん、孝一さん。よろしくお願いします」
「あいよ」
「じっとしててね、ジョン」
「ワフッ」
 清さんにのんびりと眺められながら、動物の世話初体験。過去二日は喋ったり一緒に歩き回ったりしただけだからね。
 これから何をされるのかちゃんと理解しているらしく、ジョンは実に大人しくしてくれていた。なのでペットを飼った経験のない僕でも慌てるような事態は起こらず、むしろ楽しんで作業に取り組む事ができた。お利口さんだね、ジョン。


「ふう……やっぱり落ち着きますわねぇ。また一層お上手になりましたわよ? 大吾さん」
 作業開始からどれくらい経っただろうか? ブラシを掛けながらふかふかで温かいジョンの感触を楽しんでいると、隣ではマンデーさんがマッサージを受けている人の如くうっとりしていた。ただ毛を梳くだけの作業でも、やはり年季が入ると違うものらしい。侮り難し、ブラシ掛け。
「たりめーだろ全部オレ一人でやってんだからよ」
「それも嫌々ではなく好きでやってるんですからねえ。んっふっふっふ」
 せっかく憎まれ口で返したのに間髪入れず清さんのフォロー、と言うかこの場合はツッコミ? が入って格好がつかない大吾。ぐぅ、と低く呻くとそのまま黙ってしまった。
 それを間近で捉えたマンデーさんは、
「うふふ。大吾さんが何と言おうと、わたくし達を大事にしてくださってるのはみんな充分に分かってますわ。サタデーがみんなにお礼を言おうと呼びかけたのだって、冷やかしじゃあないんですもの」
「う、う、うるせえな。……ほれ、終わったからさっさと行っちまえ」
「これからもよろしくお願いしますわね。それじゃあジョンさん、行きましょうか」
 マンデーさんに呼ばれると、ジョンは尻尾をぱたぱたさせながら彼女のもとへ歩み寄った。ブラシがけの止めどころが掴めずにただただ撫で続けていた僕の仕事は、それでようやく終わりを迎える。
 で、行くってどこへ? 「行ってらっしゃい」と手を振る清さんにその事を尋ねてみると、
「散歩ですよ」
 との事。
 散歩ですか? ならそこであぐらをかいてぶすっとしてらっしゃる御仁は?
「大吾は行かないの?」
「ああ、こいつはな」
 何か理由があるらしく、直接尋ねてみても大吾は動こうとしない。そしてその事についての説明をしようとしたらしいが、その上から嗜めるような声が覆い被さる。
「嫌ですわ孝一さん。デートの時くらい二人っきりにしてほしいものですわね。ね、ジョンさん」
「ワンッ!」
 なるほどね。
 お二方は視線を交わすと、寄り添うようにして窓から外へ踊り出る。僕はその背中に向けて、
「行ってらっしゃい」
「行ってまいりますわ」
「ワンワン!」
 そのまま二つの尻尾が窓から窺える範囲を過ぎ去るまで見送ったあと部屋の内部を振り返ると、大吾は照れ隠しの不機嫌モードを解除して出されていた麦茶を一口。
「んじゃ後片付けだな」
 そう言われて改めて床を見てみると、結構な量の毛が散乱していた。ブラシに引っかかった分はちょくちょくむしり取ってゴミ箱に捨ててたけど、それ以外でもかなり抜けるものなんだな。禿げちゃわないのかな? ―――そんなわけないのは分かってるけど、なんとなくね。
「僕がやるよ」
「そうか? 悪いな」
 掃除機に手を伸ばそうと立ち上がりかけた大吾は再び着席。代わりに僕が掃除機のコンセントを伸ばす。戻す時に一発でしゅるるっと戻るように余分には出さないようにしてっと。
「いっつもマンデーさんとジョンだけで出かけてるんですか?」
 掃除機の音がうるさい中、清さんのほうを振り返る。すると清さんは部屋の隅に立てかけられていた釣竿を持ち出して、何やら弄っていた。
 糸車から糸を紡ぎ出すようにして、釣り糸をリールに巻きつけている。糸の補充、それか糸の交換って事でいいのかな? 魚釣りの経験はないから見たまんまの事しか言えないけど。
「ええ。どちらも賢いですから、心配しなくてもちゃんと帰ってきますよ」
「いえ心配だなんて、そんな事は」
 見事に見透かされていた。


「あ、孝一くん大吾くん。ちょっと前にジョンとマンデーが仲良く出かけて行ったよ。お仕事ご苦労様」
 清さんの部屋で暫らくくつろがせてもらったのち、裏から出て表に回ると栞さんが庭掃除中でした。そちらこそご苦労様です。
「散歩がある土日に比べりゃそんなに苦労って程でもねーけどな。それに今日はこいつに手伝ってもらったしよ」
 と、背中を軽く叩かれる。
 ん? 散歩がある土日? って事は、
「土日以外は散歩しないの?」
 意外に思ったのでお世話担当に訊いてみた。しかし彼が答えるより早く、お掃除担当さんが僕と同じく意外そうな顔で尋ね返してくる。
「あれ? 孝一くん、他の子の話はまだ聞いてなかったんだ」
 ……実際に会った事はないにせよ、話ぐらいはもう聞いてると思われてたって事ですかね?
 三日連続で会ってれば、まあそういった話になってもおかしくはないだろうとは僕も思います。なりませんでしたけど。
 手をぱん、と合わせて「じゃあ教えてあげよっか」と勧めてくれる栞さんだったけど、大吾がそれを制する。
「サタデーがな、初めて会った時のお楽しみにしとくんだと。だから今んとこ秘密にしてるってわけだ」
「ああそっかー。じゃあつい口が滑らないように気をつけないとね。マンデーとかとお話ししてる時とか」
「オレはどうでもいいんだけどな」
 じゃあ教えてよ。って言っても駄目なんだろうけどね。ケチ。
 と思ってたらここで大吾は改めて栞さんのほうを向き、
「ところで喜坂よぉ。オマエこいつに料理教えてもらってるんだったよな?」
「あ、うん。そうだよ。楓さんも一緒にね」
 素直に認める栞さん。いいんですか? おお、昨晩の悲しい記憶が蘇る。
「やってみてどうだったんだ? 孝一。あ、まだ一回もやってなかったりすんのかな」
 僕の微妙な表情を読み取って、結果「まだ一度も料理教室を開いてないのではないか」との推論を導き出す大吾の頭。うん、そのほうが断然マシだね。
 ね? 栞さん?
「あ、あの大吾くん。あんまりその事訊いて欲しくないかなー……なんて」
 苦し紛れにえへへ、と笑うも、それは口だけで顔が完全には笑えていない。まるで悪戯がばれて、笑って誤魔化そうとする子どものように。
 大吾はその栞さんの表情と僕の表情を読み取って何を思うのか?
「孝一。もしかして酷かったのか?」
 小さな声でぼそりと結論を呟く。大正解です。小声になったのは栞さんに聞かれないための配慮ではなく単純に引いたからなのだろう。音量小とは言え、この近距離なら栞さんにも充分聞こえるくらいの大きさだし。
「いーもんいーもーん。できないから教えてもらってるんだし、だから最初が酷くたってそれは仕方ない事なんだもんねーだ」
 ほら聞こえてた。しかもいじけた。うつむいた栞さんは同じ所を何度も何度も竹箒で掃く。もちろんとっくにゴミなど無い。竹箒はただ薄い土埃を舞わせるだけ。
「ま、まあオレだって人の事言えそうにねえからあんまり突っ込みゃしねえけど」
 栞さんのそんな様子に話を振ったことへ後ろめたさを感じたのか、あるいは同情したのか、はたまた言葉通りに自分を省みてよそうと思ったのか、大吾は気まずそうに話題を終結させる。そしてそれにより、間が生じる。
「じゃ、オマエも仕事頑張れよ」
 その間に居心地を悪く思ったらしく、大吾はそう言って僕と栞さんに背を向けると逃げるように階段のほうへと歩き出した。
「あ、うん」
 栞さんもそれに返事をする。しかし既に聞こえる距離ではないのかそれともあえて無視しているのか、大吾はそのまま壁の向こうに姿を消してしまった。
 すると栞さん、今度は僕へと顔を向けて、にこやかに一言。
「って言っても、頑張るって言うよりは好きでやってるんだけどねー」
 それは何より。


 それからぽつぽつ料理談義などしていたのですが、「そろそろ帰ってくるかな?」とあまくに荘正面玄関に目をやる栞さんに、ふと思う。
「家守さんって、幽霊相手なら動物の声も聞けるんですよね?」
「そうだよ。成美ちゃんはそのおかげで人の姿にしてもらえたんだし、マンデー達は喋れるようにしてもらえたんだよ。それに合わせてちょっと姿を変えてもらった子もいるし」
 僕が今知ってる範囲内ではサタデーですね。あ、そうだ。マリモに目と口がついてる―――だっけ? 木曜日さんは。それでも基礎はマリモなんだよね。サタデーも一見あんなだけどちゃんと植物してるし。
 対して成美さんは実体化した時のあの耳を除けば完全に人間だ。前にデパートへ出かけたときに人の姿でやりたい事があるって言ってたけど、それって何なんだろう?
「どんなふうに聞こえるんだろうね、動物の声って。栞も聞いてみたいなぁ」
「ですねぇ。――で、今更なんですけど」
「ん? 何?」
「庭掃除の途中だったんですよね」
「あっ。あー……すっかり忘れてたよ。えへへ」
 自分がその手に掴んでいる箒を改めて確認し、自身が作業中だった事を思い出す。随分結構な時間忘れてましたね。僕と大吾が清さんの部屋から出てきてずっとですし。
「では思い出したところで、頑張ってくださいね。何なら手伝いましょうか?」
「いいよいいよ栞のお仕事だし。それにどうせ、箒は一本しかないしね」
 箒が一本しかなかったというのは想定外だったが断られるのは想定内だったので、特に食い下がるでもなく「そうですか。じゃあ僕はこの辺で」とそのまま自分の部屋へと戻った。


「じゃあ今日は各自で卵焼きと野菜炒めを作ってくださーい」
『おー』
「楓さん、栞が先に卵焼きでいいですか?」
「ん? ああ、アタシはどっちでもいいよ」
「では早速」
「じゃあアタシは野菜を切ってと」
「何かあったら呼んでくださいねー」


「こーちゃーん。ちょっと来てー」
「どうしました?」
「しぃちゃんの卵焼きが完成したんだけど……」
「ほらほら、今回は上手くいったよ」
「これってさ、スクランブルしてるって言うよね?」
「えーっと、うん。ですね」
「あれ? 何だか不穏な空気?」
「いえ、多分大丈夫だとは思います。これだって確かに卵を焼いたものですから」
「しいちゃん、あの焼いた卵をくるくる巻いたやつはなんて言う?」
「卵焼き」
「これは?」
「……卵焼き?」
「日本語って難しいですね」

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