火曜日。
「む、来たか。お初にお目にかかるね。言わずもがなだがわたしがチューズデーだ」
「初めまして」
「うむ」
 今日もまた昼過ぎに部屋を訪ねてきた大吾に連れられ清さんの部屋へ向かう。そして清さんに迎え入れられて居間に入ると、テーブルの傍らに黒猫がちょこんと座っていた。
 そうです彼女がチュ―ズデーさんです。あ、彼女っていうのは声から判断してですがね。口調はなんか会社の上司っぽいですが。
「どうだね大吾。そろそろ礼を言われるのにも飽きてきたのではないかね?」
「あーあーとっくの昔に飽き飽きだ。で、止めろっつったらオマエは止めてくれんのかよ?」
「ふ、愚問だな。そのような事、ある筈が無いではないか」
 既視感のあるそんなやり取りを眺めていると、二人が言い合っている事をよそに清さんが話し掛けてきた。
「チューズデーさんの姿を見て、誰か思い出す人はいませんか?」
 考えるまでもない事だけど、一応念の為もう一度彼女の姿を目に納める。それからちょっと考える。でも考えるまでもない事は考えるまでもない事なのでやっぱり考えるまでもなく答えは変わらず。
「成美さんですか?」
「ご名答です。やはり猫の事はもう聞いてましたか。んっふっふっふ」
 清さんはその事を遠回しに確認したかっただけらしく、それ以上は何も訊いてこなかった。成美さんはこっちが驚く暇もないくらいあっさり教えてくれたけど、やっぱり他人が軽々しく言いふらすような話じゃないって事なんだろうな。
 そのまま暫らく清さんと一緒に目の前で言い合う二人を眺めていたけど、チューズデーさんがうやうやしく大吾に礼を言ったり言われた大吾が理不尽に不機嫌になったりして見ていて飽きない。
 そしてそんな会話が一段落すると、チューズデーさんがこっちを向いた。
「さて、では行くとしようか。孝一君、肩を借りてもよろしいかね?」
 僕のですか? 大吾じゃなくて?
「あ、はい。いいですけど」
 しゃがみ込んでチューズデーさんに手を伸ばすと、器用にも腕の上をとことこ登ってきて肩へと到着。そのまま肩の上に腰を落ち着ける。すると大吾が訝しげに、
「ん? そいつも連れてくのか?」
「わざわざ会いに来てもらっておいて、これだけと言うのも味気なかろう。なんなら大吾も来るか? たまには」
「だぁれが」
「素直じゃないのは変わらんな。いつまで経っても」
 素直って、ああ。成美さんに会いに行くんだろうな。多分。
 あれ? じゃあ大吾の今日のお仕事ってもう終わり? ここでちょっと喋っただけで?
「ふん。休日返上で来てやってんだ。これ以上仕事増やされるのはゴメンだぜ」
 素直じゃないところには今更突っ込まずにおいといて、
「あ、火曜日は休日扱いなんだ」
「隔週でな。二週間に一回シャンプーしてやってんだけど、先週やったから今日は休み」
 するとチューズデーさんは前足の代わりに尻尾で大吾を指しながら、
「孝一君だけここに来させれば良かったのではないかね? わざわざ自分がここに来なくても良いだろうに」
 言われた大吾はテーブルに頬杖をつき、もう一方の手の平に天井を仰がせて帰宅直後のサラリーマンライクな疲れた顔。父さんお元気ですか。
「よく言うぜ。テメエらで毎日来るように仕向けといてよ」
 と言うのは毎日お礼される事を指してるんだろうな。
「仕向けられたからと言って大人しく従わなくても良いのではないのかね」
「そうしたらそうしたでまた……あー、もういいもういい。さっさと行っちまえ」
 話を続けても自分の首を絞める事になるだけだと今更気付いたのか途中で話を強引に終わらせ、しっしっと手を振る。外国では「こっちに来い」って意味に取られたりするかもしれないから気を付けてね。
「大吾はまだここにいるの?」
「オマエらが出てったらすぐに出てくよ」
 そこまで避けなくても。突っ張るのも大変だね。突っ張る相手に気に入られてるから余計に。
「では行ってらっしゃい、日向君、チューズデーさん。んっふっふっふ」


「いつもは窓から勝手に中へ上がるのだがね」
 成美さんの部屋の前に到着すると、肩の上からチューズデーさんがドアの横の半分ほど開けられた窓を顎で指した。
 間取り的に窓の向こうはキッチンだ。勢い余って醤油の小瓶とか蹴飛ばしたりしないのだろうか? とかって言うか醤油しかなさそうだけど。刺身用のね。
 呼び鈴のボタンを押すとドアの向こうからお馴染みの音が聞こえてきた。電池の入れ替えは忘れられてなかったようだ。まあもう電池を買ったのが三日前になるんだけどね。早いもんだ。
「ん、誰が来たかと思えば日向が一緒だったのか」
「ああ。大吾も呼んでみたのだが、残念ながら断られてしまったよ」
「断られると分かっていて訊いたのだろう? 残念とは妙な話だな」
 猫同士の会話という中々に珍しいものが目の前で繰り広げられる。しかし内容が普通過ぎて、特に新鮮な感じもしなかった。まあ猫同士どころか喋る植物がいたりする時点でもう何でも来いなんだけど。
「まあ、入れ」
「うむ」
「お邪魔します」
 そんなわけで、チューズデーさんを肩に乗せたままドアを潜る。何だかんだでここももう三度目だ。
 広いなあ、相変わらず。
 つい先日刺身パーティーが執り行われた哀沢家の食卓を囲む僕と成美さん。チューズデーさんはどこなのかと言うと、膝の上です。僕の。この状態でも食卓を囲むって言うのかな。一応僕とほぼ同じ位置にいるわけだし。
「で、どうなのだ哀沢よ」
「何がだ?」
「大吾だよ。まだ背中を借りているだけなのか?」
「『まだ』とは何だ。別に発展性のある事柄でもないだろうに」
「これだよ。孝一君も何とか言ってやってくれんかね?」
 開始早々僕にとっては場違いな話。何とかといわれてもその、実際のところどうなのか把握してるわけじゃなくてですね。成美さんも「大吾が動物に好かれる体質だから」とかどうとか言ってましたし。だから僕はコメント致しかねます。下手したら首吊る羽目になるかもしれませんしね。
 そう考えてる間「あー」とか「いえ」とか「その」とかぐだぐだ言ってる僕に呆れたのか、チューズデーさんは溜息をつく。諦めてもらえたようなのでこちらも溜息。チューズデーさんのそれとは意味は違うけどね。ふぅ。
 そして哀沢さんとチューズデーさんの猫論議が始まる。議題に猫はあんまり関係無いけどね。
「あのな、哀沢。もうそうやって恥ずかしがるような年でもないのではないかね? 人間で言う中高生ではないのだからな」
「何の事やらさっぱりだな」
「玄関で大吾も誘ったが来なかった、と伝えた時、少なからずがっがりしなかったかね?」
「普段来てるわけでもないのだから、ごく当たり前の事だな。何とも思わんさ」
「じゃあ来て欲しいか来て欲しくないかと言われたらどうだね? あいつを拒むかね?」
「むぅ。……そりゃあ、さすがに来て欲しくないなんて事はないがな、別に怒橋に限った話ではないぞ。他の誰でも来ると言うなら来て欲しいさ」
「強情だな。何故認めようとしない? せっかく人の姿にしてもらったと言うのに」
「そんな事のためにこの姿にしてもらったわけじゃない。わたしは」
「分かっているさ。そうだな、順番が逆か。人の姿になったからこうなったと」
 口を挟む事もできずに「僕はここにいてもよろしいのでしょうか?」とオロオロしていると、ここで成美さんが一息つく。
「ふぅ。今日はやけに絡んでくるじゃないか。どうかしたのか?」
「なに、今回は第三者がいるのでね」
 くるっと僕を振り返る膝の上の黒猫さん。その鮮やかな緑色の目でこちらを一瞥すると、再び成美さんのほうを向き直して続ける。
「お前さんが何かボロを出した時にその証人になってもらえると思ったのさ。失敗だったようだがね」
 それに対して成美さんは腕を組みながら勝ち誇ったかのような微笑を浮かべ、
「ボロなど出んさ。元々が事実無根なのだからな」
 では反対にこちらは悔しがるのかと言うとそうでもなく、
「ふ。まあいいさ。わたしが手を出さなくとも、どうとでもなるであろうからな」
 無駄に熱くならないと言うか余裕があると言うか。成美さんと同じく内面は大人なんだなあ、と少し感心。それと同時にほっと胸を撫で下ろし、
「いやあ、びっくりしました。あのままヒートアップして喧嘩になっちゃうんじゃないかとハラハラしましたよ」
 思わず気が抜けて背中もちょっと丸くなる。すると背中が丸くなった分だけ近付いた黒い後ろ姿がこちらを振り返り、またも緑色の目が僕を見詰めた。
「いやいやそれは済まなかった孝一君。まあしかし、いい年してこのような事で喧嘩にはならぬよ。ただの戯れさ」
「いい年してあんな話を持ちかけること自体どうかと思うぞ」
「ならそうされる前に自分でケリをつけるのだな」
「ふん、まだ言うか。懲りない奴だな」
 話が元に戻るのを嫌ってか、成美さんが席を外して台所へ向かう。何かあっちに用があるかどうかは定かでないが、とにかくチューズデーさんと二人っきりに。
「ま、分からんでもないがね。ただでさえ年に似合わぬ幼い体なのだ。いろいろ不安になる事もあるのだろう」
 僕に言ってるのか独り言なのかは分からないけど、聞いた以上それについて思うところがあるわけで。
「いろいろって、例えば何ですかね?」
 するとチューズデーさんは膝の上から僕を見上げ、突然に未知の言語で話し掛けられたとでも言うような素っ頓狂な顔をした。そして尻尾を一くねりさせると、今度は大声で笑い出す。
「ぷはっははははは! いやはや、訊くかねそんな事! これはこれは、ははははは!」
「あのー……」
 膝の上で大爆笑され、どう反応していいのやら模索中。助けて成美さん。
「――ところで成美さん、何してるんでしょうね」
 成美さんが向かった台所のほうを見る。そこから微かに物音は聞こえてくるが、ここからでは姿までは見えず、そこにいるという事しか窺い知る事はできない。
 するとチューズデーさんもそちらに視線を移し、それと同時に尻尾をくねり。
「ん? ああ、魚を捌いているのだろうさ。いつも二人で刺身を摘んでいるのだよ」
 最もこの手で「摘む」というのは可笑しな表現ではあるがね、と可愛らしい肉球を見せつけながら苦笑い。
 刺身かぁ。やっぱりチューズデーさんも好きなんだろうな。猫故に。
「今日は三人だからな。残念だが分け前は減ってしまいそうだ」
「ああいえ、お構いなく」
「はは、冗談だよ。たらふく食うのが目的ではないのだからな。それにそういう事は哀沢に言ってくれ。わたしはお出しする側ではなく、お出しされる側なのだからね」
「それもそうですね」


 膝の上のチューズデーさんと話をしながら、撫でてみたい衝動に駆られたりしながら。そんなこんなで――どれくらい経っただろうか? 片手に大きめの皿、もう片手に小皿を二つ重ね、その小皿の上に醤油の小瓶を乗せて成美さんが現れました。器用ですね。
「お待ちどう。さ、食べるか」
 するとチューズデーさん、誘われるように僕の膝からテーブルに乗り移って大皿の傍へ。って事はこの小皿は僕のか。醤油は付けない派なんですね、チューズデーさん。
『いただきます』
 三人揃って手を合わせる。チューズデーさんもちゃんと合わせる。可愛らしい。
 と思ったらその合わせた手から爪がニョッキリと現れて刺身をグサリ。そのまま手前に引きずると、大皿の隅のほうでかぶり付いた。
 それは皿に刺身を盛り付ける段階から想定されていたらしく、大皿には一隅だけ何も置かれていないスペースが広く取ってあった。つまりそこがチューズデーさんのお食事場。
「何分わたしは猫なものでな。人間のような食い方はできんがご承知頂きたい」
 一切れ食べ終わると、僕から何か言ったわけでもないのにチューズデーさんは手をぺろりと舐めながらそう言った。
 ちなみに僕は、つい彼女のお食事シーンに目を奪われてまだ刺身に箸を伸ばしていない。そんな様子がチューズデーさんにこの台詞を言わせたのかも、とちょっと反省。
「いえ、全く構いませんよ」
 コップの水を一気飲みした植物に比べれば、今のは猫の普通な食事風景ですし。むしろ普通に食事した事に驚いたと言いますか。変な先入観は持つもんじゃないですね。
 では気を取り直して僕も一口、と箸を伸ばし、摘み上げたそれを醤油に浸ける。そして口へ……の前にちょっと思う事有り。
「成美さん、この魚って買ってきたものなんですよね?」
「ああ、昨日近くの魚屋でな」
「最初から刺身を買えばよかったんじゃないですか?」
 どっちみち刺身にするんだし。
 すると成美さんは刺身を口へと運び、
「そうすると値段の割に少ないのだ。しかし……んぐっ、魚を丸ごと買ってきて自分で捌けば、安い上に結構な量が食える。ならそうしたほうがいいだろう?」
 途中で飲み込みながら箸をこちらに向ける。
「確かにそれはそうですね」
 捌く手間さえ惜しまなければ、ですが。
 すると早くも三枚目に取り掛かっていたチューズデーさんが口を止めて、
「わたしは丸ごと一匹をそのまま食べてもいいのだがね。人間は食に見た目まで求めるからそんな可笑しな事になるのだ。どうせ生で食うのなら丸かじりも刺身も変わらんとは思わないかね? っと。思わないからこの話になっているのだったな。失敬失敬」
 爪を出していないほうの手でぺんっと額を叩く。
 そりゃまあ分からないでもないですが、人間には辛いんですよ。鱗とか生の内臓とか。ね、成美さ……ってあれ、同意を求めていいのでしょうか。
「思わないと言うかな、生で丸かじりした時の食感はどうも人間の体には合わんらしいのだ。汚い話だが、知らずにそれをやった時は思わず流しに吐き出したぞ」
 よかったようで。んー、つくづく人間ってのはヤワな生き物ですなあ。
「そうなのか? 孝一君」
「ええ。でもまあ、見た目まで求めてるってのも間違ってはいませんよ。それが無いなら結局、鱗と皮剥いで内臓取っちゃえばあとは丸かじりでいいって事になりますし」
 身を降ろさずに皮だけ剥ぐってのが楽かどうかは分からないですけどね。やったことないですし想像するにグロテスクな気がしますし。
 ……んー、でも完全に解体するほうがどう考えても残酷だよね。魚側からしたら。
 ま、いいや。結局食べちゃうし。美味しいからね刺身。
「ところで孝一君、そろそろ刺身が漬け物になってしまうのではないかな」
「へあっ!」
 「へ」の後ろにクエスチョンマークが付くよりも早く事態を理解してしまった結果、なんかこう三分しか戦えない彼らみたいな声に……ゲフンゲフン。
 とにかく、醤油に浸けっぱなしで話し込んだ結果漬け物とまではいかないにしてもちょっと辛めな一枚目。
 そうですまだこれが一枚目なんです。二枚目からはもっと素材の味を味わいたいものですね。
 心の中で再度「いただきます」をした後、二枚目を摘む。やっぱり美味しい。
 口いっぱいに広がる味を堪能していると次の刺身を引っ張りながらチューズデーさんが、
「孝一君、ウェンズデーの事は誰かから聞いたりしているかね?」
「いえ、全く聞いてないです」
「そうか。ならよかった」
「もちろん教えてもらえないんですよね?」
「もちろんだとも」
 ですよねー。もぐもぐ。


「今日は鯵のフライです。というわけで魚を捌いてみましょー」
「おー。あれ、しぃちゃんどうしたの? 乗り気じゃない?」
「あ、そういうわけじゃなくてその……触るの怖いなって」
「大丈夫ですよ。普段手どころか口の中に放り込んでるんですから」
「うー、まあそうなんだけどさ」
「では頑張りましょう! と言ってもやれと言われてホイホイできるものでもないんで、僕の真似してください。まな板が二枚しかないので少々狭いですが」
「まあ、仕方ないよね」
「あうう」
「ではまず鱗とぜいごを落としまーす」
「ふんふん」
「ひいぃ」
「終わりました? では次、頭落としまーす」
「これはあっという間だね」
「こ、こっち見ないでぇ……」
「はい、腹開いて内臓取り出しまーす」
「だ、大丈夫? しぃちゃん」
「大……丈……夫……………」


 水曜日。
「あ、孝一くん大吾くん。おはよー」
「おう」
 開いたドアからは栞さん。
 今は昼です。そしてここは清さんの部屋です。何故栞さんが?
「清サンは出かけてるのか?」
 清さんの部屋の呼び鈴を鳴らして清さんが出ないと言う事はそういう事になるのだろうか。なるんだろうね大吾がそう言うのなら。
「うん」
 ほら。ところで、栞さんが出てきたことに触れないっていうのはよくある事だからなんだろうか。まあとにかく「入って入って」と栞さんにお招きされたので、一歩中へ。
「栞が来た時にはもうウェンズデーしかいなかったの。今日は山に行ったんだって。絵を描きに」
「へー、清さんって絵」
 描くんですねペンギン!?
「……………」
 玄関入ってすぐ、キッチンの辺りから居間のほうを覗くと、居間とキッチンの敷居の上でやけに目がキリッとした水中を飛ぶ鳥類が黙ってこちらを窺っていた。その様子もただ立っているというだけではなく、まるで気をつけしているかのようで、誰かが「敬礼!」とか「休め!」とか言おうものなら「ザッ!」という効果音とともに即座に実行してくれそうな印象を受ける。
 いや、あくまで印象であって本気でそんな事するとは思ってないけどね。
 訊くまでも無くウェンズデーさんなウェンズデーさんは僕と目が合って少し間を置くと、通れと言わんばかりに踵を返して居間へと入っていく。その方向転換の際にも片足を引き、きっちり百八十度向きを変え、引いた足を戻してから歩き出す、という肩に銃を担いでたりしたら似合いそうなカチカチした動きだった。
「紹介しまーす。この子がウェンズデーでーす」
「初めまして」
 テーブルにつくなり始まった栞さんからの紹介を受けて、僕のほうから一方的な初めまして。向こうは今までと同様、僕の事知ってるからね。
「……………」
 しかしそのウェンズデーさんはテーブルの向かい側からこちらを窺っているだけで、動きを見せない。
 僕、何か変ですか? 顔はちゃんと洗ったし、寝癖は無い筈だし。
 そんな心配が見当違いだったというのはすぐに分かったんだけどね。
「もー、恥ずかしがり屋さんなんだから。ほらウェンズデー、返事しなきゃ」
 ああ、つまり先程動きが固かったのも恥ずかしさの余りって事ですか。
 そんな予想も見当違いだったというのはすぐに分かったんだけどね。
「……じ、自分はウェンズデーであります。以後お見知りおきを」
 恥ずかしがり屋である事を抜きにしても元々そういう方だそうで。
 ちなみに名前は最初から知っていたので、得られた情報はウェンズデーさんが男性である、という事だけ。
「こちらこそよろしく。ウェンズデーさん」
「……………」
 また黙ってしまった――のか会話が終了したのかどっちだろう。何か言いたそうにしてる気はするんだけど。
 そんな予想も今度は当たっていたらしく、テーブルについてからくちばし以外不動だったウェンズデーさんは僅かに視線を上に逸らすと言葉に詰まりながらも早口で、
「けけ、敬称略でお願いするでありますっ!」
 相当さん付けが恥ずかしかったらしい。思わず大吾に「くんを付けるな」とすごまれた時の事を思い出してしまうが、必死さではこちらのほうが断然上だった。そしてその必死さに栞さんが笑みを漏らすが、それがまた恥ずかしくてウェンズデーさ……いやいやノンノン、ウェンズデーの視線がさらに角度を大きくする。そしてその首が痛そうな角度のまま、
「大吾殿!」
 殿!?
「何だ?」
「ひっ、ひひひ、日頃丁寧にお世話をして頂き、感謝するであります!」
「ん。で、そのお世話だが今日は外にするか? 中にするか?」
「天気が良いので外がいいであります」
「よっし。じゃあ準備すっか」
 何をするかは分からないけど大吾は立ち上がり玄関から外へ―――と思ったら靴を持ってきて裏からいそいそと出て行った。
「あれ、何してるんですか?」
 大吾の姿が窓枠から外れて見えなくなったので栞さんに尋ねてみた。ウェンズデーに訊こうかとも思ったけど、困らせるだけのような気がしたので止めておく。
「裏庭にホースがあるよね? あれでタライに水を溜めて、プールにするの」
 なるほど。って事は室内の場合、風呂場でやるのかな。
「ほ、本来なら自分でやるべきなのでありますが大吾殿から許可を得られず……感謝する反面、申し訳無くも思うのであります」
「そんな事ないよー。大吾くん好きでやってるんだし」
 困らせるかと思って質問するのを諦めたけど、ウェンズデー自身から進んで話題に踏み込んできた。こんな彼にそうさせるほどとは、やっぱり好かれてるんだなあ、大吾って。
「本人の目の前でこれ言ったら怒られちゃうんだけどねー」
 そういうところが余計に好かれるのかも知れませんね。隠し方が下手と言いますかバレバレと言いますか。むしろわざとやってる? わけないか。
「ん? どうしたのウェンズデー?」
 栞さんの言葉に釣られ改めてウェンズデーのほうを見ると、先程と同じく何か言いたげにそわそわしていた。そして数秒そのままそわそわした後、
「……じ、自分もそろそろ行くであります。おお、お二方はどうされるでありますか?」
「栞も行くよ。孝一くんは?」
「あ、僕も行きます」
 大吾と同じように靴を持って裏へ。もちろん栞さんもね。
 外に出ると、まだ水を溜めている最中らしく水が流れ続けるホース片手に腰をかがめて膝に肘をつく大吾。流れる水の先には大きな水色のタライ。まさに水浴びに相応しい涼しげな色合いだ。寒っ。
 大吾の傍らではジョンがお座りの姿勢でホースから流れる水を大人しく眺めていた。自分も浴びたいなあとか思ってるんだろうか?
「ん、もう来たのか。まだあんまり溜まってねーけど……まあいいや。入れ入れ」
「それではお言葉に甘えるであります」
 短い足を目一杯前に出し、タライへ向かってざっしざっしと少しずつ前進。と言ってもその擬音はイメージで、実際は音なんか殆どしてないけどね。裏庭は一面草生えてるし。
 そしてタライに到達すると縁を跨いで……は無理なので、縁にお腹を引っ掛けて前のめりになり、体ごとタライ内部へ落下。当然ながら、まだ余り溜まっていないとは言え水が跳ねる。
「ワンッ!」
 それを見て興奮したのか、ジョンがタライに飛び込んだ!
「ぬぉ!? ジョジョ、ジョン殿! ちょ、あの、苦しいであります! みみ水が! 息がバ!」
 いくらタライが大きいとは言え、同じく大きいジョンが入ってしまえば容量はもういっぱいいっぱいだ。そのジョンの体の下敷きになってしまったウェンズデーの姿は全く見えないが、その体の下からくぐもった声の救難信号が。ペンギンと言えど水中で呼吸できるわけではないんですね。
「何やってんだジョン。水浴びなら好きなだけさせてやっから外出ろ外」
 慌てず騒がずホースをタライの外へと向けてウェンズデーが溺れないようにしつつ、ジョンを退去させる大吾。さすが、見事なお手前で。
「ワフゥ……」
 一方ジョンは渋々タライから外へ。ワンパクだなぁ。
「ゲホゲホッ! ……あー、ビックリしたであります」
 少し水を飲んでしまったらしく体を起こしながら苦しそうに咳をすると、詰まりもしなければ慌てもしない素の声でそう漏らすウェンズデー。でも、
「ウェンズデー、大丈夫?」
「あわ、だだ、大丈夫であります」
 急に話し掛けられればこの通り。口調自体は勇ましいのにね。
「ジョン殿。後で場所を交代するであります」
「ワンッ!」
 通じてるわけじゃないんだろうけどね。
 ……通じてないよね? なんとなく吼え返して、その後状況見てどうするか判断してるだけだよね? さっき大吾に言われるままタライから出たばっかりだけど。
 だんだんタライに水が溜まり、やがてタライいっぱいになると、ウェンズデーは地上での動きとは対照的なほど柔らかな動きで端から端まですいーっと泳ぐ。もちろん、端から端までと言ってもたいした広さじゃないんだけどね。
 ウェンズデーは何も言わなかったけど、それが気持ちいいのか何度も何度も縁から縁へ行ったり来たりしていた。
「気持ち良さそうだよねー。栞も泳ぎたいなあ」
「考えただけで鳥肌が立ちますよ」
 だからまだ結構肌寒いんですって。と思ったら排水溝の上でジョンが大吾に水かけてもらって喜んでるし。僕が寒がりなだけなのかな?
「夏まではガマンだよね。泳ごうと思えば泳げるところはあるんだけど」
「そうなんですか?」
「銭湯に忍び込むの。でもお風呂で泳ぐのはさすがに気が引けるしね。子どもじゃないんだし」
「ああ、なるほど」
 忍び込むって言っても堂々としたものなんでしょうね。普通に入口から入っても忍び込んだ事になるんですし。泳がないにしてもけっこう羨ましいような。
「季節問わずやってるプールとか、この辺にあったらいいのになぁ。あー泳ぎたい」
「栞さん、泳ぎは得意なんですか?」
「こう見えてもかなり得意だよ」
 えっへん、と胸を逸らす栞さん。
 うわぁ、真に失礼かとは存じますが全然そんなふうに見えないです。泳いでる所想像してもビート板持ってバタ足してるようなイメージしか沸かないですよ。
「孝一くんは? どのくらい泳げるの?」
「五十メートルが精一杯です。しかもターンの時、確実に鼻に水が入ります」
「まあ、普通はそれくらいだよね。充分充分」
 そのなんだかフォローしているような言い回しから確信を得る。この人、本気でかなり泳げるなと。しかもその事に自信があると。
 意外であるが故に、一度その泳ぐ姿を見てみたい。いや別に水着がどうだとかそんな妙な事は抜きにして、だ。……そりゃあ全く無いとは言わないけどさ。誰に何を言われたでもないのにこうして否定し出す辺りとか。
 そんな事やってるうちに水遊び組に動きがありまして。
「ジョン殿。自分は充分堪能したのでそろそろ交代するであります」
「ワフッ」
「別にいいんだぞ? どうせこいつが入ったら水溢れちまうんだし」
「……や、や、約束でありますのでっ!」
 恥ずかしさを隠すどころか前面に押し出しながらそう言うと、入る時と同様に前のめりになってタライの外へ落下。ぼてん。
「中で暴れるなよジョン。庭がベチョベチョになるからな」
 との仰せにジョンはゆっくりゆっくり、右前足、左前足、とタライの中に入っていく。そして四本の足が全部入ってしゃがみ込むと、ざばー。
 暴れるも何も関係無いね、これじゃあ。
「あはは、これもう中の水殆どなくなっちゃったね」
「ワフゥ」
「はぁ」
 ジョンはご満悦、大吾は溜息。そんな様子の大吾にそわそわするのは、やっぱりこの方。
「……………」
「大吾、お呼びだよ」
「おっと、悪いな」
 はっと気付いたらば早速放水開始。その水を浴びてこころなしか気をつけの姿勢が緩くなるウェンズデー。
「いえ。何ともないであります」
 やっぱり外で水浴びっていうのは気持ちいいんだろうな。気温の問題さえなければだけど。
「ん、なんだ全員ここに揃っていたのか」
 声がしたほうを全員一斉に振り返ると、ビニール袋片手に成美さんがこちらへやって来る。ちなみに買い物に行ったなら出ていたであろう猫耳は、既になくなっていた。
 お仕事ご苦労様です。今日も相変わらず上から下まで真っ白ですね。
「ほれウェンズデー、買ってきたぞ。包装は解いてあるからな」
「あ、ありがとうございますであります」
 二重に丁寧なお礼を言うと大吾の放水が止み、成美さんの手から羽ばたかない羽へとビニール袋が手渡された。中身は何だろう? と思ったらその中に頭を突っ込むウェンズデー。何やってんの?
 頭を袋に突っ込んだまま暫らくごそごそすると今度は勢い良く頭を振り上げ、その嘴からは魚の尻尾が飛び出している。
 ああ、お食事だったのね。……丸飲みって苦しくないのかな。
 だんだん沈んでいく魚の尻尾を眺めていると、同じくそれを隣で見ていた成美さんが突然思いついたようにこちらを向き、
「そうか、日向はウェンズデー達に顔見せしているのだったな」
「まあ、そういう事です」
 それも残すところあと二日か。さあどんな方達なのやら。
「で、喜坂は相変わらずウェンズデーに襲い掛かっていたのか?」
「だって可愛いんだもん」
「グボォッ!」
「それに今日は掃除するの庭だけ……ウェンズデー!?」
 栞さんが清さんの部屋にやって来た理由がごくシンプルなものだと発覚したと同時に、ウェンズデーが激しくむせた。その口からは僅かに尾びれが覗いている。もう少しで飲み込み切れたのに、惜しかったね。
 周りのみんながそれぞれ驚きや励ましの声をかける中、目を見開き、かつ白黒させながら右羽を口の中へ突っ込む。なんかあれだね。剣飲みのパフォーマンスみたい。ってのももう古いのかな。
 とのん気な事を考えられるのも彼が無事だったからですよええ。事の最中にそんな事考えられるほど冷めた人間じゃないですから。
「はぁ、はぁ、はぁ……きょ、今日は事故が多い日であります……」
 無いのは分かってるけど肩で息をするウェンズデー。
 そうだね、ジョンに沈められたりしたし。
「ご、ごめんね。タイミングが悪かったみたいで」
 栞さんに謝られたウェンズデーは両羽をパタパタと交差させ、
「いいいえ、大丈夫であります」
 可愛いどころか可哀想ですよ栞さん。ただでさえ極度の恥ずかしがりなんですからから可愛いなんてそんな事言っちゃ駄目ですって。
「成美殿、ごちそうさまであります」
「あ、ああ。今度からもう少し小ぶりなやつを買ってくるようにするよ」
「お、お気遣いは無用であります」
 栞さんの時と同じくパタパタ。可愛い……とは思うけど口にしないようにね。漏れなく可哀想がついてきますから。多分。


「今日はカレーです。二人にたくさん作ってもらったのでみんなを呼んでみましたー」
『イエー!』
「もうできてるんだよな? 食えるモンなんだよな?」
「まあ料理できる奴がいるんだ。問題無いだろう」
「自分は残念ながら見るだけなのであります」
「代わりと言っては何ですが、また魚を買ってきてもらいましたよ。ちなみに喜坂さん、辛さはどのくらいなんですかね?」
「甘口と中辛を混ぜたの。だからみんな問題なく食べれると思いますよ」
「ちなみにしぃちゃんの担当は具材切りだよー。用心してねー」
「も、もう楓さん! 大丈夫だって! 人参の皮ちゃんと剥いたし! ……大きさはちょっと不揃いだけど」
「それではみなさん一蓮托生! 全員揃って」
『いただきますっ!』
「な、何でみんなそんなに気合入れるの?」
「……ん、でもこれ大丈夫じゃねえか? 普通に美味いぞ」
「そうだな。野菜も肉もちゃんと切れてるし」
「ングング」
「日向君はこれを作る時、手をつけてないんですか?」
「ええ。口は出しましたが手は出してないです」
「いやー、良かった良かった。カレーは一人でも何とかなりそうだわ」
「栞も一人でやってみようかなぁ」
「せーさん。火災保険は?」
「グッ!」
「入ってますよ。んっふっふっふ」
「ああっ、ひどい! 一緒に作ったのにぃ!」
「あの、ウェンズデーがびっくりしてまた魚詰まらせてますが」

<<前

次>>