第三章
束の間の逃避



 おはようございます、204号室住人日向孝一です。
 あれから二日経ちました。あれからというのはもちろん、あの花見の日からです。その次の朝に「できるだけ急ごう」と決意して、そして――やはりと言うかなんと言うか、未だ何もできていません。昨日は日曜日だったのに。ずっと家にいたのに。ちょっと外に出れば栞さんが庭掃除をしていただろうに、顔を会わせる事すらなく。……不甲斐ない。
 顔を会わせていないのですからもちろん何も進展はしていなくて、何も進展していないのですからもちろん夜の恒例行事に栞さんは顔を出しませんでした。花見の日、そして次の日曜と二日連続で。

「だぁからゆっくりでいいんだってー。二日くらいどって事ないよ。しぃちゃんだって落ち着いたら元通りになるだろうしさ」
 慣れた手つきで酢の物用の野菜を切りながら家守さんはそう言ってくれた。けど僕はグリルの魚が焼きあがるまでの間、壁にもたれた上に殆ど溜息で返事をしていた。まあ、後から考えればうざったい事この上ない態度だったと思う。
 しかし家守さんは包丁をまな板に置き、ちょっと動けばキスしてしまいそうなくらいこちらにギリギリまで顔を近付けると、僕の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫で始めた。乱暴過ぎて、正直痛い。
「いしししし。そーいうアンニュイなのも今だけは歓迎してあげるよ。でもしぃちゃんと上手くいったら、慰める役目もしぃちゃんに譲るからね」
 いろいろな意味で顔を背けたくなるくらいアップになった家守さんの嫌な笑顔だったけど、自らへの戒めのためにもまっすぐに睨み合った。笑顔と睨み合うってのも変な話だけど。
「だからそれまでこーちゃんの格好悪いところはアタシが引き受けるからさ、精々しぃちゃんには格好いいところだけ見せてあげなよ? ――あ、でもあんまりそれが長くなるとそのうちアタシが恋人みたいになっちゃうかもね。そうならないように頑張ってねー。結婚もまだなのに不倫なんて嫌だよアタシ」

 この際もう家守さんが恋人で……なんて洒落にならない冗談は身震いがするので中断した上その記憶も消去。で、確かにずっとイジイジウネウネしてるわけにもいかない。でもまずは、学校に行かないと。今日は平日だし。
 ……とは言うものの、まだ講義には入らないんだよね。今日は身体測定だとかでやっぱり午前だけ。
 今更身長も体重も変わってないだろうからあんまり面白みもないだろうなー、なんて考えながらドアを開け、外へ。
「あれ?」
 ドアをくぐって進むべき廊下の先に目をやると、一番階段に近いドア、つまり201号室のドアが開いていて、それより向こう側が見えない状態になっていた。
「成美さーん、早いですねー」
 ドアに鍵を掛けつつ、向こうのドアの陰から現れたそこの住人に声をかける。一つの部屋がそれほど広くないとは言え、そこは三部屋向こう分。少々声が大きくなるくらいの距離はある。
「あー。目が覚めて暇だったのでなー。朝の散歩だー」
 そしてポケットに鍵を突っ込みながら同じく鍵を掛ける成美さんにすたすたと近付き、改めてご挨拶。
「おはようございます」
「おはよう。これから大学か?」
「はい。と言っても身体測定だけですけどね」
 今日の予定に学業は全く含まれてないんだけど、大学に行くのは変わりない。カバンも一応持ってはいるが、多分使う機会はないんだろう。中身も筆箱と学生証くらいしか入ってないし。
「そうか。ふむ」
 小さな体の細くて短い腕を組み、何やら思案する成美さん。性格的には似合うんだけど、体格的には似合わないなあ。このポーズ。
「どうかしましたか?」
「む? いや、お前について行こうかと思ってな。どうせ散歩に目的地など無いのだし」
「来ても面白い事なんてないと思いますけど……」
 今日唯一の行事、身体測定を受ける僕にとってですら面白くなさそうなのに、それすらない人にとってはもう面白くないを通り越してつまらない場所だろう。
 しかし成美さんはそれを聞いて腕組みを解き、少しだけ笑う。
「ふ。そんなのはどこでも一緒さ。それが散歩というものだよ」
「はあ」
 そうなんだろうか? まあ確かに何かあったら散歩じゃなくて「それをしに出かけた」って事になるのかな。買い物とか。
 などとどうでもよさげな言葉遊びをたしなんでいると、背後から「おい」と誰かに呼びかけられた。振り返るとそこには、お隣の202号室の台所の窓から飛び出た大吾の顔が。
「あ、おはよう大吾」
「おはよう怒橋」
「おう」
 構造的に窓の向こう側はすぐキッチンだから、全部見えるところまで顔を出せるのは身長がある大吾くらいだろう。僕がやったら……眉毛の上までくらいかな、外に出せるの。
 で、そんな感じで長身を見せ付ける大吾くんが何を言い出したかと言うと、
「んでよ、オレも暇だし付いてっていいか?」
 成美さんと同じ事でした。
「別に構わないよ」
「乗り物としてなら歓迎してやるぞ」
「してもしなくてもどーせ乗るだろがクソガキ。んじゃ、ちょっと待っててくれな」
 前半を成美さんに向けて、後半を僕に向けて言った後、窓から顔を引っ込めてがらがらぴしゃりと戸締りを。
 そして大吾が出てくるまでの待ち時間。
「喜坂と喧嘩でもしたのか? 昨日はあいつ、珍しく塞ぎ込んでいたが」
 手擦りにその軽そうな体を預けると同時に話し掛けてくる成美さん。ああ、きっついなあ。
「喧嘩って言うか、僕にも何が何やらで……って、それだけでなんで僕が出てくるんですか?」
 まさか、上手い事乗せられちゃった? とも一瞬思ったけど、どうやらそうではない様子。してやったりと微笑むでもなく、ただ素の表情で話を続ける。
「いや、あいつが塞ぎ込むなんてのは本当に珍しくてな。誰に聞いても知らんと言うし、そんな日に限ってお前は部屋にこもって出てこんし。日向は普段、用事がなくても外で喜坂と話くらいはしているだろう? 何かあると思ったのだが」
 この猫娘さん、推理が達者でいらしゃる。
「あー……すいません」
 分からないとは言っても、やっぱり僕が原因なんだろうなぁ。今みたいになる直前にあんな事があったんだし。でも、あの時点ではどうしようもなかったしなぁ。
 もしあそこで大吾が現れなくて、栞さんが話を最後まで続けていたら。そしたらやっぱり、こうはならなかったんだろうか?
「ふふん。塞ぎ込ませられるほど喜坂に気に入られているようだな、お前は。いい事じゃないか」
 それはちょっと好意的に解釈しすぎじゃないでしょうか? 塞ぎこまれるほどの事をしちゃった、と言うほうが正しいような。
「喧嘩なんてのは案外すぐにケリがつくものさ。その程度の事なのだよ」
 しつこいようですが喧嘩ではないと思うんですよね。思うんですけど、
「成美さんが言うと説得力ありますね」
「……それはどういう意味だ? ん?」
 え。いや、だってしょっちゅう――自分で言ったのに怒りますか? 火の玉しまってください危ないですから。……あ、そう言えば結局火の玉三つってまだ見た事ないよなあ。まあ見たら無事では済まなそうだし、見てみたいとも思わないけど。
 何もない空中から突如出現するそれにももう慣れてきたのか、反射的に半歩ほど後ずさりするだけで頭の中は至って冷静。今となっては青い火の玉よりも、怒ってる成美さん自身のほうが怖いくらいなのでした。
 そんな事を考えてるうちに目の前の部屋からの足音が響いた後、ドアが開く。
「んじゃ行くか。ってなんだおい、またご機嫌斜めかよ? 迷惑すんだから勘弁しろよ」
 腰元。誇張表現一切抜きで腰元の高さに浮かぶ火の玉を確認し、それとほぼ同じ高さにある頭に上から話し掛ける大吾。この二人が一緒にいる場合は大概おんぶの状態だから、立って並んでるところって案外見ないんだよね。いやー、さすがの身長差。
 対する腰元さんはまだ機嫌が悪いようで、
「五月蝿い。いいからさっさと乗せろ馬鹿者」
 大吾は別に間違ってはいないのに、なぜか語尾に馬鹿者と付け加える。と、同時に火の玉も消滅。おんぶで機嫌が直るという事だろうか?
「馬鹿ってなんだよ馬鹿ってよ」
 ぶつぶつ文句は言いながらも、やっぱり律儀に腰を屈める。そして乗る側も、罵った割には背中で腕を組んでふんぞり返ったりするのではなく、両肩から腕を回して抱きつくようにする。そして乗られた側が立ち上がって出発準備完了、なんだけど。
「前から気になってたんですけど」
『なんだ?』
 返事か被って気まずそうに顔を背けるお二人。
 問い掛ける口調からも成美さんに話し掛けたつもり満々だったんだけど、いかんせん二人の顔が同じ高さかつ至近距離にあるものだから、どちらとも取れないような感じになってしまったらしい。
 でもまあそれは置いといて。
「背中に乗る時わざわざ大吾が屈まなくても、ジャンプして飛び乗ったりとかできないんですか? 猫的な運動能力とかで」
『……………』
 二人、ただでさえ近い顔で見詰め合う。そして成美さんがおもむろに大吾の背から後ろ向きに飛び降りると、そのままの姿勢で「ではいくぞ」と垂直に跳躍。そして着地。
 その結果は「ちょっといい記録かなー」くらいのもので、あくまで常識の範囲内。つまり、背中にはぜんぜん届きませんでした。そもそも垂直飛びで、更にその手がワンピースのスカート部分を押さえていた事から、最初から届かない事は知っていたんでしょう。
「分かったか? 今のこの体は人間なのさ。十一歳のな。それ以上の事はできやしないよ」
「よく分かりました」
 するとその跳躍の様子を背中越しに眺めていた大吾は、
「前押さえたところでオマエ、ハナっから見えるわけねーだろ。オレも孝一もオマエより遥かに身長高えんだしよ」
 ……いやまあ、仰る通りなんだろうけど。身長の問題もあるしスカートの裾も短くはないし、それこそ地に這うくらい姿勢低くしないと見えやしないんだろうけど。
「そういう問題じゃなかろうがこの阿呆!」
 ですよね。


「でよ、喜坂は呼ばなくてよかったのか? どうせアイツだって暇だぞ?」
 訊きたくなるのはまあ分かるけど、それなら出発する前に訊こうよ大吾。
 と言うわけで、大学までの五分の道のりを三人で進む。と言っても一人は背中に乗ってるだけなので、「進んでる」のは二人だけとも言えなくはないけど。そしてその進んでないお方が、さも呆れたような口調でこう返す。
「いくらお前でも喜坂の機嫌が悪い事ぐらい気付いているだろう? だからだよ」
 しかし、彼女の意見にこの男が賛成する場面など殆ど見た事がない。そしてそれは今回も例外ではなく。
「そういうもんか? オレなら一人だ退けられてるみてーで余計腹立つけどな」
 それもそうかもしれないんだけどね。……とは思うものの、既に声を掛けずに置いてきてしまった以上頷いてしまうのも気が引けた。なので、
「なんだ、意外と寂しがり屋なんだなお前は。ならお前の時はちゃんと呼んでやるよ」
「誰かさんのせいでイラつくのには慣れちまったけどな」
「ほう? なら平常心を鍛えてやったという事で礼の一つでも言ってもらおうか?」
「毎日毎日ものの見事にイラつかせてくださって有難う御座いますクソガキ様」
「それが礼になるとでも思ってるのか貴様は!」
「本気で礼なんぞ言うわけねーだろボケ!」
 黙して二人の喧嘩を眺めている事にした。
 ああ、こういう分かりやすい喧嘩だったらどれだけマシだったか……でも、大学に着くまでには収まってね二人とも。


 てなわけで、さっさと大学到着。その頃にはさっきの喧嘩がまるでなかった事のように、付き添いの二人は揃って落ち着いた顔。是非見習いたいものです。
「で、もうそろそろ講義とか始まんのか?」
「ううん、今日は身体測定だけ。講義は明日からやっとだよ」
 殆ど休みに近かった午前だけの大学生活も、今日の四日目でようやく終了。明日からは生活パターンががらりと変わるだろうから、ちょっと気合入れとかないと。
「そんならすぐ終わりそうだな」
 でもまだいいや。
「だろうね」
 そんなやり取りの後ふと見てみれば、門をくぐってすぐの場所に小さな人だまりがあり、その向こうには身体測定の案内の看板が。それによると、まずは講堂前で受付から測定カードなる物を受け取るらしい。では早速。

 講堂前に到着してみれば、受付は長蛇の列の大混雑。受付と言っても学校の運動会でよく見る屋根だけのテントが二つ並んでいるだけなので、窓口の数が不足しているのは明らかだった。一つのテントに窓口二つで、計四つ。対する生徒は……並んでいる人達だけでも数えるのが面倒なほどの数。でも並ぶしかないですよね。
 あーあ、こんな事なら予定時刻よりちょっと早めに来ればよかったなあ。
「じゃ、オレら適当に歩き回ってるわ」
「しっかりな日向」
 探さなければそれがどこにあるかすら分からない列の最後尾につくと、人ごみを気にしなくていいお連れ様二人は人を掻き分けもせずにズブズブめり込みながらさっさとどこかへ行ってしまいました。大層、大っ層羨ましい。どれだけ待つのこれ?


「なあ」
「なんだ?」
「あん時の孝一じゃねえけどよ、オマエ元は猫だろ? 下着なんか見られて恥ずかしいもんなのか? 猫なんて言ってみりゃ全裸じゃねーか」
「お前な……どうして真面目にそういう事が言えるのだ? 少しは自分で考えようとは思わんのか?」
「分かんねーから――いや、どーせまた変な事言ってんだなオレ。もういい、答えなくて」
「馬鹿者が」
「悪かったよ」
「……馬鹿者が」
「二回も言うんじゃねえよ謝ってるだろが」
「何回だって言ってやるさ。それがわたしの役目だからな。ふふ」
「そこで笑うなよ気色わりいな」
「お前が馬鹿だから笑うんだよ」
「へいへいそーですか」
「馬鹿といると楽しいな」
「いいかげん振り落とすぞ」


 見た目には長かった行列も、先頭の一人が行う事といえば学生である事の証明――つまりは学生証の提示をして測定カードを受け取るだけなので、自分の番が来るまで案外時間は掛からなかった。それでも五分くらいは待ったけど、まあ長い間待たされたって程の事でもないだろう。
「学生証を」
「はい」
「……はい、ではこのマルが付いている所をお回りください」
「はい」
 受付の白衣の女性と、そんな短いやり取り。受付だけやるのに白衣である必要はあるんだろうか? なんて考えながら受け取った測定カード……と言うよりA4サイズの測定結果記入表と言ったほうがしっくりくるだろうか? とにかくそれを見てみると、
「胸部X線? こんなのまであるんだ」
 身長・体重・視力等のよくある検査の名前にマルがついている中、一際目立つ漢字とアルファベット交じりのその名称。なんか面倒臭そうだなあこれ。
 まずは受付のすぐ横に並べられた長テーブルで表に名前を記入、とカバンを開いて筆入れを取り出そうとしたところ、
「あの、すまんが鉛筆を貸してもらえんじゃろか?」
 すぐ隣から年寄り臭い口調が、その割には若々しい声に乗って耳に届いてきた。
 すぐ隣であるが故にその声は僕に向けられたものなんだろうなと判断し、声がしたほうを向いてみる。するとそこにいたのは、やや小柄なスポーツ刈りの男性。運動系のサークルにでも入っているのか、その服装は上下ともジャージだった。
「あ、はい。どうぞ」
「ありがとう」
 鉛筆ではなくシャープペンシルを渡すと、その男の人はにこりと微笑み、そして僕と同じ記入表へ視線を落とした。


「この部屋は……身長・体重だってよ」
「嫌な予感がするな」
「入ってみねえか?」
「やっぱりか。……で、何故そうなる。こっそり混じって測ったところで、わたし達はもう成長なんぞしていないだろうが」
「いーじゃねえか暇なんだしよ。廊下でぼけーっとしててもなんにもならねえだろ。それにどーせ、幽霊であろうとなかろうと、こんなとこに来るような年じゃあ誰も成長なんぞしてねーよ」
「分かった分かった好きにしろ。あ、ドアは開けるなよ。驚かれるからな」
「わーってるよ」
「全く……ん!?」
「あれ」
「な、ななな何をしてる! 早く出ろ馬鹿者!」


 検査表に名前やら学生番号やら書き入れた場所から一番手近にあったのが胸部X線検査だったので、まずはそこへ向かう事に。当然、わざわざ近いところを避ける必要もなく、先程シャープペンシルを貸したジャージさんも同じ所へ。
 それでまあ、検査はさっさと終わってくれたんですけど――検査の際、上着を脱ぐわけですよ。それでシャツ一枚になるんですけど、一つ後ろに並んでたジャージさんがやけにいい体格だったんですよ。腕がやけに筋肉質で。
 さすがにジャージを着ているだけの事は……って、それはあんまり関係無いか。


「よく読まんか阿呆! 身長・体重の上のこれは何だ!?」
「女子」
「……まさかお前、わざとじゃあるまいな?」
「んなわけねえだろアホ」
「はぁ。誰にも気付かれなかったとは言え、全くこの助平は……」
「なあ」
「なんだ助平」
「……………当たりめーだけどよ、大学生ってやっぱ大人なんだな」
「……なんだそれは」
「ん? いや、男としてはやっぱ仕方ねえだろこういう感想も」
「それは……それは、わたしへの当て付けか!?」
「は?」
「ああそうさ! わたしはお子様さ! 色気の欠片もありゃしないさ! いつまで経ってもこのままさ!」
「お、おい?」
「そりゃあお前だって男だからな! こんな貧相な体よりは出るとこ出てるほうがありがたいんだろうさ!」
「おい火ぃ出てんぞ! 落ち着けって!」
「どうせ! どうせお前はわたしなんかーーーーっ!」
「やっべええええええええ!」


 待ち時間がなければ意外とあっさり終わるもんだなあ。
 運が良かったのか人の波に飲まれず検査場を回れたおかげで、二十分もかからずに全検査終了。いくつかの「問題無し」と書かれた箇所に加えられたマルと、身長体重視力の数値を書き込まれた枠を眺めて空きが無い事を確認し、その記入用紙を受け取ったのと同じ屋根だけテントへ提出しに向かう。
 ちなみにあの筋肉質なジャージの人は最初の検査の後から見なくなりました。だから何だってわけじゃないですけど、やっぱり一人でうろうろしてるとちょっと寂しいなあ、と。大学内で知り合った人は一応いるんですが、時間を示し合わせたりしなかったから当然、出会わなかったですしね。
「――はい、お疲れ様でした」
 そんな一人検査も、始めと同じ白衣の女性が発するその一言でさっさとお仕舞い。あとは帰って家でゆっくり……って、あ。大吾と成美さんは今どこに?
 って事で、帰る前にあの二人を探す事に。検査が終わった後の集合場所を決めなかったのは迂闊だったと後悔しながら、ならどこに行けばいいもんかと辺りを見回して考えてみる。
 あっちだって同じように考えるんだから、何もない所で立ち呆けてるて事はないよね? なら一番あり得るのはやっぱり出口、つまりは校門の辺りなのかなーとか推理してみたのはいいけど、そうじゃなかった時の事を考えると戻ったり何だり面倒そうなので、やっぱり手近な所から攻めてみる事に。
「じゃああそこ……かな、まずは」
 白衣のお姉さんが無表情で来訪者の応対をしている検査受付のすぐ隣、わざわざそっちを見なくても圧倒的な存在感を放つ、恐らくこの学内で最大の大きさを誇る建造物。その名は、講堂。
 確か入ってちょっと行った所が待合室みたいになってたから、中で座ってくつろいでいるというのも充分に考えられるよね。
 行き先も決まったところででは早速、と入口への短い階段を上り、やや重めのドアを引く。

 ……僕が目的地としていた「待合室みたいな所」は、入口のドアを抜けてからやや奥へ進んだ所だった。けど、
「ど、どうしたんですか成美さん?」
 いた。そこに辿り付くよりも早く、まさに講堂内へ入ったその場にあるトイレの前に、うずくまって動かない白髪白肌の女の子が。
「わたしは……わたしは、どうせ子どもさ。……ひくっ。こんな事で、ムキになって……」
 子ども、ですか。返事になってるようななってないような。
 それにしたって、今更泣くほどの事でもないのでは? 散々家守さん辺りに言われてきたんですから。……というのも、気の毒な理由ですが。
「大吾と喧嘩でもしたんですか? いないみたいですけど」
 この場に家守さんがいない以上、残る容疑者は大吾しかいない。それもいないとなれば、あんまり酷い事言われてこうなっちゃった、としか考えられなかった。
「あいつは……うくっ、あいつは、この中でぇ……」
 成美さんが男子トイレを指差すと同時に、意識がそちらへ向いたおかげか、耳がそこから発せられる異常音を察知した。「だんだん」だか「どんどん」だか、低くて鈍い音がドアの向こうから聞こえてくる。
 この向こうに大吾がいて、って事は、この音は大吾が出してる? 何をしたらこんな、聞くからに痛そうな音がするんだろうか?
 ――とにかく。黙って音を聞いてる場合じゃなさそうだ。ここに来た本来の目的も、中で何かをしてるらしい大吾の事も、トイレに入らなきゃ進展しない。
「成美さん、ここで待っててくださいよ」
 幸いにも身近には人がいなかったので、うずくまる成美さんに小さく念を押しておく。トイレに入ってる間にどこかへ行かれるのも、逆に中までついてこられるのも、どちらもやや面倒な事になりそうだったからだ。
 ドアを開けると、一番奥で閉まっている個室以外、中には誰もいない。そして僕が侵入した事にはなんの興味も無いかの如く、音は鳴り続ける。不気味なくらい一定のリズムで、ゴン・ゴン・ゴン・ゴンと。
「大吾……? な、何してるの?」
 閉められた個室のドアを挟んで、中の人物に問い掛ける。「もしこの向こうにいるのが大吾じゃなくて別人だったら」なんて考える余裕は、この時、全く無かった。
「うる……うるせえな。うるせえよ。孝一か? ほっといてくれよ。頼むよ」
 音が鳴り止んで代わりに聞こえてきたのは、大吾の声だった。
 が、まるで大きく年を取ったような、そんな弱々しい声。大吾の声を知らない人が聞いたら本当に中にいるのが年寄りなんじゃないかと思いかねないほど、震えた声だった。
「オオオレ、またアイツを怒らせちまったんだよ。もう、もう、そんな事したくねーのに……ああ、もうだめだ。今度こそアイツの前に顔出せねえよ。――もう駄目なんだよ、孝一。だからオレ、もう駄目になる事にしたんだよ」
 あまりの事態に、足がぐらついた。
 何? 駄目になるって何? さっきまでの音は何だったの? ……まさか、成美さんが?
「大吾! ストーーップぅうわっ!?」
 話に聞いていただけとは言え最悪の事態を想像してしまった僕は、慌ててドアに体全体で突っ込む。しかし最初から鍵は掛けられていなかったようで、何の抵抗もせずに開くドア。
 そうなれば当然、その勢いのまま突っ込んでしまう。中にいた大吾の背中に。
「い、痛えよ。痛えな。……ああ、もしかして手伝ってくれるってか? オマエだって、馬鹿ばっかやってるオレにはうんざりだろ? なあ、なあ、手伝ってくれよ。頼むよ」
 背中にぶつかった僕を見下ろす大吾の額からは、血が一筋流れていた。
「大吾! 血! 血が出てるよ!」
 そしてその血を抜きにしても、明らかに顔色が悪い。まるで本物……いや、「幽霊がいるとすればこんなものだと思い込んでいた頃の幽霊像」そのままに。
「だ、出すためにやってんだよ。手伝わねーならほっとけよ、入ってくんなよ頼むから」
 そう言われてはいそうですかと言える筈もなく、身長差に苦戦しつつも脇から腕を回して羽交い絞めに。大吾もそれに抵抗するが、どうやら声同様体にも力が入らないらしく、体格差の割にはあっさり個室から引きずり出す事に成功した。
 そしてその個室の壁には、いくつもの叩き伸ばされたような血の跡が。額の血もそうだし、もしかして壁にずっと頭突きしてた?
 ――ひえぇ。
「はなせよぉ、テメェおい。オレの事なんかさ、ほっとけばいいのによぉ」
「おお落ち着いたらずっと放しててあげるからじっとしててっててば」
 想像するだけで背筋が震えるような、しかも実際にあったであろう光景に、こっちまで声が震えてしかも若干日本語が変になる。
 が、それはともかく、大吾をどうしたらいいのか分からないので、「成美さんに訊けば何とかなるかも」との期待を胸に、大吾をずるずる引きずったままトイレを出る。成美さんに訊けばと言うか、成美さん以外に頼れる人がいないだけなんだけどね。

 ――幽霊が見えない人から見て、今の僕は壁際に立ってるだけのように見えてるだろうか? 幸いトイレ内での騒動中に他のトイレ利用者が来る事もなく、暴れるという言葉が果たして相応しいのかどか疑わしくなるくらいに弱々しく暴れる大吾を背中で壁に押し付けたまま、成美さんに話を聞く。
「これ、どうしたら治るんですか?」
 その質問に成美さんはまず、ぐすっと鼻を鳴らす。もう大分落ち着いたようで、その鼻すすりを最後に、泣いているらしい行動は見せなかった。
「もうじき勝手に治るさ。すまなかったな迷惑掛けて」

 そのまま大吾を壁に押さえつける事数分。「もういいぞ」という声とともに背中から感じる力無い抵抗が収まったので、後ろの様子を見てみる。すると大吾は額に手を触れさせ、その出血具合を確かめていた。まるで病人のようだった表情も、痛みに時折歪むものの元通り。
 流れた血をたまたま僕のカバンに入っていたポケットティッシュで処理すると、「怪我とかさせてねえよな? わりい。面目ねえ」と僕に向かって軽く頭を下げた。
 体に力が入らない状態で力技の自殺方法を取った事が良かったのか、それほど大事にも至らなかったようだ。
「いや、怪我も無いしなんとも思ってないよ。でも、できればもうこうならないように仲良くして欲しいもんだけど」
 言ってて自分に帰ってきそうな言葉だったけど、二人は取り敢えず素直に聞き入れてくれたようで、互いにおずおずと向かい合う。
「……悪かったよ」
「いや……こちらこそ、だな」
 そうして謝罪が完了すると、いつものおんぶ状態に移行。血と涙流れて地固まるってやつですか。
 はい、めでたしめでたし。いやー怖かった。
「もうなんか疲れたから帰るわオレ」
「わたしもそうするよ」
 めでたく事が収まったところで、二人はそう言ってさっさと帰ってしまいました。疲れたのはこっちだよ全く。散歩しに来て流血事件ってそんなさぁ。
 じゃなくて、僕ももう帰るんだって。
「待ってくださ――」
 ……いや、止めとこう。仲直り直後の危ういバランスの中に、第三者である僕が入るわけにはいかない。どう考えても気まずい雰囲気度が増すだけだ。
 得る物の無い虎穴になんか誰も入りたがらない、という事で、途中まで出した声をフェードアウトさせて縦に並んだ二人の背中を見送った。
 ――ここから家までは五分。二分ほど待てば、うっかり途中で追いついちゃうなんて事もないだろう。ふう、やれやれ。


「いやーヤバかったな。洋式だったら多分顔突っ込んでたぞアレ」
「……なあ」
「ん? なんだよ?」
「やっぱりその、怒ってるか? 怪我もさせてしまったし、今更あんな事で取り乱してしまうし……こ、これでは、これでは外見どころか、中身まで子どもみたいでぇっ……」
「な、んだよテメエ自分で言って泣き出すなっての。それこそ泣き虫のガキじゃねえか」
「もう……もうそれでいい。中と外に差があるのは、辛い……」
「あーもう。どうせそーやってヘコんでんのもすぐ元に戻るんだからよ、口閉じとけよ」
「最初から自分は子どもだと諦めておけば……少なくとも、今回のようにお前に怪我をさせる事は……」
「聞いてねえし。あーくそ、面倒臭えな。……ほれ、着いたぞ。落ち着くまで部屋で寝とけよ」
「ああ。今日は、済まなかったな」
「今日はってなんだよ。まだ昼にもなってねえのに」
「もう、ずっと寝ておくよ。今はそういう気分なんだ」
「……そうか。なら邪魔すんのもわりいな」
「そうしてもらえると有難いよ。……じゃあ、な」
「ああ。さっさと寝てさっさと機嫌直せよな。謝られてばっかじゃ気持ちわりーんだっつの」
「善処するよ。お休み」
「……………ああなって仕方ねえっつっても、やっぱ、らしくねえよな」


 前の二人が出発してからやや間を置いた、家路。そしてだんだん我が家、と言うかみんなの家に近付くにつれ、ある不安が僕を苛むのでした。しかもその不安はほぼ回避不能。今日もいつもと変わらず、庭の掃除をしている事だろう
 ああ、大吾と成美さんみたいに手早く仲直りができたらいいのに。……って言ってもなあ。喧嘩じゃないんだよね。栞さんが僕をどう思ってるのかは分からないけど、少なくとも僕は栞さんに怒ったりするような事って無いし。
 栞さん、なんでずっと不機嫌なんだろう?
 大学という逃避場所から戻りつつある僕は、逃避が終わった故に、そのことを考えざるを得なくなるのだった。
 あまくに荘は、もうすぐ目の前。

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