第四章
あちらとこちらとそっくりさん



 こんにちは。204号室住人であり、現在お隣さんからどうしてだか避けられている、日向孝一です。
 喧嘩をしたらしい大吾と成美さんを大学で見送ってからの、我が家を目指す五分間。相変わらず快適に短い道のりを経て、さっと到着してみれば。
「あ……」
 いつも通りに綺麗な庭先に足を踏み入れた途端、正面から戸惑いの声。
「……お帰り、孝一くん」
「……ただいま、栞さん」
 いつもの人と、いつもと同じ状況で、いつもと同じ言葉で挨拶をする。でも、全てが同じなわけじゃない。いつもならこの後栞さんは箒を動かす手を止めて、こちらを向いたまま僕が近付くのをその場で待って、それから暫らく何てことない雑談をしながら時々笑ったりしていたのに。
 ――それなのに今日は、その最初から違っていた。箒を動かす手が止まらなかった。最初に僕に気付いてからすぐ、ふいと顔を背けてしまった。それ故、挨拶も顔を背けたまま。動き続ける箒の先を見下ろしたまま。もちろん、話もしない。笑いもしない。そして僕も、栞さんの前で立ち止まらない。
 部屋に戻ると、カバンを無造作に床へと落下させてその場に倒れるように寝転がり、カバンを顔面に押し付けながら「ぐおお」と唸りつつ転げ回るという奇行を誰が見てるでもないけど披露する。いや、誰も見てないからこそ、かな。
 さて、そんな精神的アクロバットも収まって部屋が静まり返った頃。
「なんで声掛けられないかなぁ」
 後悔の独り言。そしてそれは先に立たず。
 ……いや。

「あ、あの、栞さん?」
 庭に戻ってかなり勇気を振り絞ってみたものの、返事は無し。箒は動き続ける。
「そ、そのあの、できたら……できたらでいいんですけど、なんでそんなに不機嫌なのか、教えてもらえませんかね?」
 用件はなんとか言えた。でもやっぱり返事無し。箒も相変わらず。
「栞さん……」
「…………………ごめんね」
 箒がはたと動きを止め、やっとの一言。しかし声が聞けた喜びも束の間。まさに束の間。喜びが持続したのは、言葉の意味を理解するまでの一瞬の間だけ。そして拒絶された事を理解して、僕の顔は、勝手に沈んだ。
 箒が地面を這う音だけが空しく響く中、僕と栞さんは立ち尽くす。
 駄目だったなら僕はさっさと引き上げたほうがいいのかもしれないけど、それはできなかった。体裁が悪いからとかそういう理由ではなくて、足が上げられなかった。まるで靴の底が、地面の土ごと瞬間接着剤で固められているかのように。
 多分あれと同じだ。親とか学校の先生とかに怒られてる最中に身動き一つとる事すら怖くなってしまうような、あの感覚。そうなる危険を察知するような能力に欠けていた僕は、結構な回数これを体験したように思う。
 だからと言って、このままってわけにも――と、その時。
「おっはぁ! いぃやぁ久しぶりに来たよあまくに荘……って、のうわああぁぁぁぁ! こっこここ孝治が! 孝治がぁ!」
 正門側から聞こえてきた騒音に、二人揃ってそちらの様子を窺う。と、
「椛さん?」
 栞さんが呟いた。
 椛さん? って確か、家守さんの妹だったっけ? 花見の時にちらっと聞いた……あの頭から一本触覚みたいなのが飛び出た髪形の人がそうなんですか? じゃあその隣の男の人は――
『うわあああああっ!』
 椛さんの隣に僕を見つけた僕は僕とともにそう叫び、僕と僕は停止した。僕も、そして僕も、叫んだままの形で口を固まらせたまま。
 ――世界には自分と同じ姿形を持つ者が三人いて、鉢合わせたら死んでしまうとか死期が近いとか言われてますよね。三人ってのに自分が含まれてるのかどうか甚だ疑問だったんですが、実際どうなんでしょうね? 僕と僕と僕なのかそれとも僕と僕と僕と僕なのかというのは結構重要な問題だと思いますよ? 君もそう思うでしょう? ねえ僕。
「し、ししししおりん。こっちの孝治は誰なの? もしかして、新種の幽霊さん?」
「え、あの、この間からここに住む事になった日向孝一くんですけど……それに、幽霊じゃないですし……」
「日向? じゃあ、姉貴が言ってた面白い男の子ってこの子の事か。あーびっくりした」
 父さん母さん、実は僕には双子の兄弟がいたんでしょうか?
「ほら孝治、いつまでも固まってないで! 姉貴んとこ行くよ!」
「えぁ? あ、ああうん」
 呼ばれて気付けられたほうの僕が、椛さんについて行く。でも呼ばれなかったほうの僕は叫んだ体制からの硬直は解けたものの、手を引いて連れ去る触角さんと手を引かれて連れ去られる僕の背中を見送りながら、まだ呆然と立ち尽くしていた。
 あれは、何だったんだ? さっき言った通りに世界に三人のうんたらかんたらさん? それとも、やっぱりさっき考えた通り、実は生き別れの双子の兄弟がいたとか? 父さん母さん何やってるんですか全く。
 久方ぶりに両親の顔を空に浮かべたところで、椛さんの触覚がぴよんとこちらを振り向く。
「ねーしおりーん。面白そうだからその孝一くんも引っ張ってきてよー」
「え……」
 椛さんに続いて、今度は栞さんが気まずそうにこちらを向く。そう、こっちのほうだって大問題なのだ。
 今日は厄日だろうか?
「……呼んでるよ、孝一くん」
 椛さんから承ったのは「引っ張ってきて」との注文なのに、そう呼びかけられるだけで手は差し伸べられない。そしてその手は、再び箒を左右に動かし始める。
 既にこちらを向いていないその顔は、まるで嫌々掃除をやらされているかのように酷く落ち込んだものだった。それを見てしまうと、さっきの身が固まるほどの驚愕もそれこそ驚くべき速さで退いてしまう。
「分かりました」
 やっぱり厄日かな。


 椛さんが101号室の呼び鈴を鳴らすと、ドアの向こうから「はいはーい」という返事と足音が。どうやら今日は家守さん、家にいるようで。
「いらっしゃーい。久しぶりだね椛」
「とか言ってぇ。目的はこっちだったんでしょ」
 開いたドア越しに一言交わし合い、椛さんが一歩身を引く。それに合わせて家守さんが「にしししし」と笑いながら外に顔を覗かせると、そこにいるのは僕と僕。そして、隣の僕がぺこりと頭を下げた。
「お久しぶりです。お義姉さん」
 その挨拶を聞いてか聞かずか、家守さん大喜び。
「うっわー! 二人並ぶとすごいねえ! そっくりそっくり!」
 そしてなぜか親指を立てる。すると今度は、椛さんが腰に手を当てて疲れた溜息。
「それならそうと先に言ってよ姉貴。肋骨突き破って心臓飛び出るかと思ったんだからさ」
 家守さんの髪型は背中に回るほどの真っ直ぐストレート。かたや椛さんの髪型はややウェーブ掛かったセミロングと、飛び出した触覚のような髪の毛。身長は椛さんのほうがほんの少しだけ低いだろうか? それでも顔とか……その、ちょっと平均以上そうな胸の出っ張り具合とか、似てますよね。さすが姉妹。まあ、肋骨突き破って心臓が飛び出る程じゃあないですけど。
 そんなわけで家守さん宅の居間に通された椛さんと僕と僕は、
「初めまして。日向孝一です」
「初めまして。月見つきみ孝治こうじです」
「初めまして。月見もみじです。旧姓は家守だけど、この度めでたく結婚しちゃいまして」
 ちゃぶ台を囲んで御挨拶。
 そうですかそっちの僕は旦那さんだったんですか。
「おめでとうございます」
「いえいえー」
 初対面の挨拶に結婚祝いがくっつくというのもなかなか珍しい事だと思うけど、まあ目の前にこれだけそっくり瓜二つな人がいる事に比べればさして驚くような事でもない。と思う。
「そっか。それでお義姉さん、僕も連れてくるようにって椛さんに言ったんですね」
「びっくりしたでしょ? アタシも初めてこーちゃん見た時は驚いちゃったもん」
「そりゃあもちろん。僕なんてさっき外で叫んじゃいましたよ」
「あー聞こえた聞こえた。でもこーちゃんも一緒に叫んでたでしょ? 声までそっくりだからどっちがどっちだか分からなかったけどねー」
 孝治さん、声どころか口調まで僕と同じじゃないですか? 僕、今喋ってないですよね?
 そんなふうに思って義姉と義弟の会話についつい口を意識して塞いでいると、ここで椛さんがこちらを見ながら唸りだす。
「こーちゃん。孝一くん。……むむむ」
 ……何なんでしょうか?
「よし! じゃあ孝一くんはこーいっちゃんだ!」
「はいっ?」
 思いついたと同時にぴよよんと弾む触覚に乗せられてか、僕の語尾まで弾んでしまうのでした。
「呼び方だよ呼び方。姉貴と同じじゃつまんないから、違うの考えるようにしてるんだよ」
「はぁ」
 そんな、別に同じでも面白いもつまらないもないと言うか、そもそも普通に名前で呼んでくれてもいいと思うんですけど。幸い旦那さんとは名前まで被ってるわけじゃないんですから。
 ところで、それなら他のみんなはどうなんだろう? 確かみんなは椛さんに会ったことあるって言ってたし。
「えーと、栞さんはしおりん、でしたっけ」
「そ。んで成美ちゃんはなるみんだし、大吾くんはだいごんだし、清一郎さんはせーいっさん」
 だいごんって――ああ、可哀想に。それにせーいっさんも、なんて言うか慕われてる先輩みたいなイメージが……いや、年齢的には実際そうなんだけど。
 文章的には合ってるのにどこかが違う気がして、清さんのにやけ顔を思い浮かべながらどう表現したものかと考え始めたところ、椛さんが何かを思いついたような表情で家守さんへと首を向けた。その際、慣性の法則によって触覚がぴょこりと揺れる。
「そーいやさっき外にしおりんがいたんだけどさ、なーんとなく元気なさそうだったなあ。なんかあったの? 姉貴」
「あ、うん。ちょっとねー」
 でっかい「ちょっと」もあったものですね。
 そして家守さんはこちらを向く。
「こーちゃん、しぃちゃんと話の途中だったんじゃない? こんな井戸端会議は抜けちゃっていいからさ、行ってきなよ」
「あ、は、はい」
 行ってどうしたらいいのかも分からないけど、その場所へ向かう足だけは早かった。学校から帰る時には栞さんとの接触を避けたいとさえ考えてたのに、なんでだろう? 一度自分から栞さんに向かって行けたから、自信がついたって事だろうか? もしそうなのだとしたら、なんとも単純だ。


「――って事はさ、あたし達がしおりんとこーいっちゃんのお喋りを邪魔しちゃったからしおりんが不機嫌になっちゃったって事? 悪い事しちゃったかなあ」
「でもあれは仕方ないよ椛さん。あれじゃあ驚かないほうが変だって」
「うーん……いや、そうじゃないんだけどね」
「あ、そうなんですか? それは良かった」
「でも姉貴、だとしたらなんなのさ? 体調でも悪くしちゃってるの?」
「ひ・み・つ。どーせアタシ達の出る幕じゃないからね。椛、教えたら首突っ込みそうだもん」
「そりゃー姉貴の妹だし。秘密なの? つまんないなあ」
「椛さん、あんまり面白がっちゃ駄目な話のような気がするんだけど……」
「こういう気が利く人が旦那さんだと姉としても安心だわ。妹の事よろしくね、孝治さん」
「はっ、はい!」
「ちょっとは自分の妹の事、信用しなよ」
「あはは、そりゃ無理だって。なぁんせアタシの妹だもん」


 家守さんに促されるまま、部屋を出た。だけど、もうそこに目的の人物はいなかった。だから、
「掃除、終わっちゃったのかな……?」
 と自分を誤魔化そうとしてみる。
 誤魔化してみる。そう、自分が家守さんの部屋にいた時間を考慮すれば、そんな筈がない。さっと挨拶をしてさっさと部屋を出て行った事を考えれば、僕が家守さんの部屋にいたのは長くても精々五分程度。そのたった五分だけでこの庭の掃除が終わるわけがない。さっき会った時も仕上げという感じではなかったし、いつもの時間通りならまだまだ掃除は続いている筈だ。空き部屋の掃除をしているのなら、締め切っているとは言え掃除機の音が聞こえてくるだろうし。
 なら裏庭だろうか? と思って裏へ回ってみても、栞さんの姿はない。そこでは、ジョンとマンデーさんが仲睦まじげに寄り添っていた。目的の人物がいるわけでもないのにお二人の邪魔をする理由もないので、気付かれる前にそそくさと退散した。半ば羨ましく思ったのは、我ながら情けない。
 そうして裏庭を後にしながら――要するに、僕は栞さんに避けられたわけだ。家守さんの部屋から出てくればまた鉢合わせになるのは確実だから。部屋に戻ったのかそれともどこかに出かけたのかは分からないけど、それはまあどっちだとしても同じ事。しかもそれは今始めて思いついた事ではなく、家守さんの部屋を出た直後から分かってた。そう、最初から分かってたんだから、やっぱりさっきの呟きは誤魔化しだ。
 結局すぐに自分の部屋に戻る事に決め、二回の廊下を静かに進む。その際、203号室の前でついつい足が止まってしまった。
 ――部屋にいるとしたら、呼び鈴を鳴らせば出てきてくれるだろうか? うん、それはさすがに出てくるだろう。なんせ、呼び鈴を聞いただけではドアの向こうにいるのが誰かは分からないし。でも……
 ドアを開けて呼び鈴を鳴らしたのが僕だと分かった途端、またあの顔で、またあの声で、そう言われてしまうのだろうか? 「ごめんね」と。それとも、椛さんが現れる直前みたいにまたお互い無言で立ち尽くすんだろうか?
 自分が避けられてると分かってしまった以上、そのどちらももう、味わいたくなかった。だから僕はこの場で何をするでもなく、せっかく立ち止まった足を再び前へと進ませ始めた。「どうせ何をしたところでどうにもなりやしなかったさ」と、また自分を誤魔化しながら。
 いっそ後ろ髪を誰か引いてくれやしないかとすら思いながら部屋に戻ると、カバンが床に放置されたままだった。だけど最初にここに帰ってきた時とは違って、今度はそれを避けるようにして床に倒れ込む。もう奇行に走る余裕さえ残ってはいないらしい。ただそのままうつぶせに寝転がって、昼寝をするが如くにじっとしていた。
 ……昼寝。……昼。そうだ、昼ご飯食べないと。正直あんまり食欲ないけど。


「おりょ、誰か来た。ちょっと出てくるね」
「ん。……………あ。孝治、パン出しそびれてるじゃん」
「あ、本当だ。いやー日向くんのあまりのそっくりぶりに驚き過ぎて、記憶からすっぽ抜けてたよ」
「発表は姉貴が食べた後だからね。そこは忘れないでよ?」
「うん。分かってる分かってる」
「――おお、だいちゃん。どしたの? 表情的に何かお困りで?」
「いや、あのよ……ん? 客が来てるのか? 靴多いけど」
「あ、うん。椛とその旦那さんが遊びに来てくれてんの」
「だん……旦那!? 椛サン、結婚してたのか!?」
「うん。ついこの間だけどね。その事でいろいろ忙しかったから、最近あんまり来れなかったってわけ」
「そ、そうか……でも、客が来てるなら今はいいわ。邪魔したな」
「いやいやそう言わずに上がってごらんよ。旦那さん、声は聞こえる人だからさ」
「……じゃあ、ちょっと上がらせてもらうかな」
「どうぞどうぞいらっしゃーい。いひひひひ」


 三分経過とともに出来上がったカップラーメンを、一啜り。ずぞろろろ。
「味気しないなぁ」
 麺が悪いのかスープが悪いのか舌が悪いのか気分が悪いのか。


「ん、孝一か……孝一!? え!? オマエ、椛サンとそんな」
「やぁだいごん久しぶりー。残念ながらこの人はこーいっちゃんじゃないよ」
「えっと、どなたか来られたんですよね?」
「うん。今アタシの後ろで大声出したのが、だいちゃんこと怒橋大吾くんです」
「初めまして。月見孝治といいます」
「あ? え? っと、孝一……だよな? あれ、違うのか?」
「何から何までそっくりだけど、この人は月見孝治さんだよ」
「だからあたし、今はもう『月見』椛なんだよだいごん」
「そ、そうなんですか……失礼しました。オレ、怒橋大吾っていいます」
「だいちゃん、アタシがたった今紹介したのを無駄にしたね?」
「え? あ。……し、仕方ねえだろこんな! テメエ知ってて言わなかったな!」
「いっしっし。びっくりどっきり大成功」
「テメエ……。いやいや、えーと、お久しぶりです椛サン」
「うん。元気してた? 聞くところによると、なるみんもしおりんも元気ないらしいじゃん、今」
「あーっと、喜坂の事はよく分かんねえんですけど、成美のやつは――そうですね」
「ん、その反応、まぁたなるみんと喧嘩したんでしょ。すぐになかった事になるって言ってもさ、ほどほどにしときなよ? 女の子は大事にしてあげないと」
「は、はあ……」
「あれ? 怒橋くんって哀沢さんと仲好いんじゃないでしたっけ? さっきそんな話」
「仲好しだよ。だいちゃんとなっちゃんの場合、仲好しだから喧嘩してるって感じかな」
「会ったばっかの人に妙な事吹き込むんじゃねえよ。大体テメエだってしょっちゅうちょっかい出してきてんじゃねーか」
「あれは二人の仲を取り持ってあげてるんだって」
「あぁ、ここになるみん連れて来たいなあ。孝治、きっとびっくりするんだろうなあ。あ、でも声だけだから驚きも半減しちゃうかなぁ?」
「え、どうして? もしかして、また誰かにそっくりだとか?」
「勘弁してくださいよ椛サン……」
「そう? じゃあやめとこ。あたしは姉貴と違って鬼じゃないからね」
「じゃあ鬼としてはどうしよっかなぁ」
「どうもすんじゃねえよ鬼畜女」


 味気のないラーメン一カップで味気のない昼食終了。そしてふて寝開始。ごろごろ。……どうやら、僕は楽しいらしい。そのままごろごろ転がり続け、ついには壁にぶつかってようやくストップ。「このまま逆回転で引き返そうかなー」と思ったその時、チャイムが鳴った。まさか栞さんじゃないだろうし、誰だろう?
 部屋の出入口まで転がってから立ち上がり、そこからは歩きでほぼ台所と一体化してると言ってもいい玄関へ。ドアの向こうにいるのが栞さんだったりしないだろうかと淡い期待も抱きつつ、「はーい」とドアを開けてみる。
「あ、さっきはどうもー」
「おお、二人並ぶとまたスゲエな」
 そこにいたのは大吾と僕……ではなく、孝治さん。がっかり。
 心情赴くままに首を垂らしたその先、孝治さんの胸元には、何やら口を紐で絞るタイプのリュックが。随分な大きさですけど、これからお出かけですか? あ、もしかして家守さんがまた遊びに行きたいとか言い出したんですか?
 すると孝治さん、その場でリュックの口を開け出す。――すると、その開いた先から大層魅惑的な香りが! いや、ちゃんと一個ずつ包装されてるから実際は匂いなんてしないんだけど、見るからに香ってくると言うかそんな小麦色なパンの群れ。
「これ、僕の実家で作ったパンなんです。宜しければいくつかいかがですか?」
 実家で作ったパン。しかし、ただのお菓子作りのレベルでないのは一目瞭然。
 まずはその形。ただ単に焼いてプックリ膨らんでいるだけではなく、伸ばしたり捻ったりロールさせてみたりとついつい手を伸ばしたくなるような工夫が凝らされている。ただ作ろうと思っただけの素人が、捻り三日月のクロワッサンなど量産できるであろうか? いや、それは無理であろう。しかし、パンの群れからは確かにその捻り三日月が二つ、その手の込んだ造形をあらわにしているのだ。
 次にその焼き加減。先程リュックの口から覗いたパンを見た際に、包装されているにも関わらずまるで香ばしさが伝わってくるように感じたのは、パンの形よりもこの焼き加減によって生じた小麦色によるところが大きい。もちろん一言に小麦色と言ってもパンの種類によって、更には同じパンでも一部分毎にその濃さは様々だ。しかしそれは気をつけて細かいところまで見ての話。結局パンの集まり全体を見れば、その色は小麦色一色だ。しかしその一色があまりにも見事に食欲をそそるものだから、ついつい見とれて……
「あの、日向くん?」
「はっ! あ、すいませんあまりにも見事なパンだったのでつい」
「いくつかいかがですか?」とリュックの口を差し出されてからどのくらい眺めていただろうか? 少なくとも、会話が途切れてしまう程度にはこうしてトリップしていたらしい。
「ほー、さすがはウチ唯一の料理人だな。食う前からそういうの分かっちまうのか」
 珍しく大吾が感心した様子。
 いやぁ、そんな褒められるほどの事もないと思うけど。……実際、今のじゃただのパンマニアの変人だし。大吾だけならまだしも、孝治さんを前にしてなのでちょっと恥ずかしかった。いやまあ別に僕はパンマニアじゃないけどさ、さっきまでそんなに食欲なかった筈なのに今無性にパンが食べたい気分になってるほど美味しそうなんだもの。ところでクリームパンはありますか?
 気持ちが体より随分先走りながらも好きなパンを注文しようとしたところ、それよりも前に孝治さんのほうから話し掛けてきた。大吾と同じく感心した様子で。
「日向くん、料理が得意なんですか? 凄いなあ、僕なんてパン以外はまるで駄目なんですよ。あ、僕の家、手作りのパン屋やってましてね」
 ああ、やっぱり。あのレベルのパンだったら一個一個の包装じゃなくてスーパーのビニール袋に詰められてたとしても、作った人がただ者じゃないのは分かりそうですよね。
「いえ、まだまだそんな人に感心されるほどじゃあないですよ。孝治さんのパンとは違って、趣味の範疇でやってる事ですし」
「そうか? たまに集まって食ってる時もみんなから評判いいじゃねーか。オレも好きだぞ? オマエの料理」
「あ、いや……」
 それはありがたい事にそうなんだけどさ大吾、時と場合によってはこういう言い回しも必要だったりするんだよ。僕の料理をストレートに好きだと言ってくれるのはもうこの場でお礼が言いたいくらい嬉しいんだけどさ、別にいるでしょその台詞を言う相手は。そっちにストレートになってあげようよ。
 すると孝治さん。
「頬が緩んでますよ日向くん。やっぱり嬉しいですよね、自分が作った物を美味しいと言ってもらえるのは」
 ああ、孝治さんもそうなんですか。さすがにこれだけ似てるだけあって意見も一致しそうですね。プロのパンでも一般人の料理でも、仕事でも趣味でも、食べ物作りの根本は同じなんですね。なんかもう、料理やっててよかったなあ。
「……孝一と孝治サンってなんつーか、似てるって言うより殆ど同じなんだな。マジでスゲーわ。服さえ同じだったら一日くらい入れ替わってても気付けねーかもしれねえな」
 む。それはそれで少し寂しいような気も。
「うーん、それでもし椛さんに気付かれなかったら新婚の身としてはショックだなあ」
 そしてここでも一致する意見。問題無く気付かれなさそうだった。
「ワンッ!」
 自分という個としての存在価値が揺るぎそうになったその時、裏庭のほうから犬の吠える声が響いてきた。その声の主はジョンだったけど、お世話係が気にかけたのはどうやらもう一方のほうなようで。
「あ、やっべえ。さっさと行かねえとマンデーにぐちゃぐちゃ言われちまう」
 月曜日の散歩はジョンとマンデーさんが二人きりで行くから、本日の大吾の仕事はお二人の毛繕いだけ。そしてどうやらそれを忘れていたようで。
「じゃあな孝一。失礼します、孝治サン」
「あ、お世話になりました怒橋くん。ありがとうございました」
「行ってらっしゃーい」
 さっき自分で「殆ど同じ」と言った二人に対して別々の態度で接しながら、我等が動物係は小走りで去っていく。そう言えば年まで同じって事は……ないよね? 孝治さんは仕事もしてるし、その上結婚までしてるんだし。
「えーと……」
「んーと……」
 残った僕と孝治さんは、お互いの顔を見ながら考えた。僕は次にどうするかを。じゃあ孝治さんは? もしかしてこれすらも……
「孝治さん、お互い今何考えてるか発表してみませんか?」
「あはは、僕も気になってたところです」
 それでは、まず言い出しっぺの僕から。
「もしよければ、家に上がっていきませんか?」
 こちらの発表が済むと、孝治さんは拳を口に当ててクスリと息を漏らす。
「もし都合がよければ、お邪魔させていただいてもかまいませんか?」
 その笑い方は、僕のそれとは違ってちょっと上品さを感じさせるのでした。


「ワンワン!」
「もう、遅いですわよ大吾さん」
「わりいわりい。つい、な。ほれ入った入った」
「無理に清一郎さんのお部屋でやらなくても、楓さんのお部屋でやらせていただけばいいのではありませんか?」
「客が来てんだ。邪魔すんのもあれだろ」
「ま、まあ……そうですわね」
「ワフッ」
「ええ、驚きましたわねえ。最初はてっきり椛さんと結婚なされたのは孝一さんなのかと思いましたわ。裏庭から中の様子を覗き見ただけなんですけどね」
「あ、オレも最初そう思った。やっぱそうなるよなあ」
「話し声が聞こえてこなかったら恐らく勘違いしたままでしたし、耳がよくて助かりましたわ」
「窓越しか……オレ等の耳じゃ厳しいだろーな。よし、んじゃあ先にマンデーからやるか」
「宜しくお願いしますわね、大吾さん」
「ワンワン!」
「お? なんだジョン、餌ならもうちょい待ってろ」
「違いますわよ。ジョンさんは『何か言いたそうな顔をしてる』と仰っていますわ」
「お、おお……まあ、ちっとな」
「ワウ?」
「では、どうぞわたくしには遠慮なさらず。通訳はバッチリですわよ」
「いや、どっちかっつーとオマエに訊きてーんだけどよ」
「あら、そうなのですか?」
「クウゥ……」
「……ああジョンさん、そんなに落ち込まないでくださいませ。大吾さんとお話がしたいのでしたら、後で取り持ってさしあげますから……で、では大吾さん、なんなりと」
「ちょっと……なんつーか、答え辛かったらいいんだけどよ……」
「そういう話なのですか? でも、聞いてみない事にはなんとも申し上げられませんわね」
「ワフッ」
「オマエよ、ジョンの――どういうところに惚れたんだ?」
「……あらあら、これはまた急に随分な質問ですわね」
「悪い。随分なのは分かってるし、嫌なら本当に答えなくてもいい。聞き流してくれ」
「……ふふ。長くなりますわよ? 覚悟してくださいませね」
「いいのか?」


 双方の意見が合致したので、僕と孝治さんは今、テーブルを挟んで向かい合っている。床をごろごろしていたのも今となっては恥ずかしい思い出だ。
「怒橋くんって、いい人ですね」
 僕だけにパンを渡したという事はないだろう。なら、さっき大吾が一緒にいたのは住人の案内というところだろうか。そしてこれは、それを受けての発言なんだろう。
「まあ……基本的にはいいやつなんでしょうけどね」
「基本的には、ですか?」
 意外にも意外な表情の孝治さん。もしかして、大吾が基本どころか全面的にいい人だと? あー、でも分かるような気もするかな。
「孝治さんとか清さんとか、目上の人にだとその『基本』の部分が出るんでしょうね。どういうわけか家守さんは目上の人にあたらないみたいですけど」
 仲間というか友達と言うか。そういう感じのいい意味での悪ふざけが混じらなければ、大吾は結構まともな人間なんだろうな。混じったらそれこそ殴ってきたりとか――ま、それもこっちの悪ふざけがあるからなんだろうけど。おあいこかな。
「僕が目上の人、かぁ。なんでそう思ったんだろうね? 見た目はそれこそ日向くんと同じ筈なのに。……あ、呼び方が悪かったのかな。『くん』じゃなくて『さん』のほうが……」
 腕を組む孝治さん。でも、分かりませんかね? 結婚とか仕事とかって単語はいかにも社会人を連想させると言いますか、要するに見た目はあまり関係してないんですよ。
 ……とでも思わないと、この目上の人と同じ容姿を持ちながら同じ目線に位置づいている自分がちょっと悲しかった。と言って別に、目上に見て欲しいわけでもないけど。
 じゃあどうしろと? と問われれば、こう答えましょう。「今のままでいいよ」と。
「『目上の人』で思ったんですけど、そう言えば孝治さんってお幾つなんですか?」
「二十三です。日向くんは?」
「十八です。すぐそこの大学に今年入学したばっかりなんですよ」
「そうなんですか!? へぇー……」
 年上だろうとは思ってたけど、全く同じ容姿で五歳差かぁ。僕、あと五年も老けないでいられるんだろうか?
 と、密かにちょっとだけ対抗心を燃やしてみる。

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