「逆にさ、孝治さんが猫被ってた事とかってないの?」
「これがまた全くないもんだから余計に自分が恥ずかしかったんだよね。一緒に暮らし始めてもさ、いいとこも悪いとこもぜーんぶそのまんまなんだよ?」
「それはつまりさ、椛の前なら自然体でいられるって事なんじゃないの? 何も隠さないから全部見てくれー! みたいな」
「そうだと思うと嬉しいんだけどさ、姉貴が言うと変質者みたいに聞こえるから不思議だよね。むしろ隠して隠して! みたいな」
「あぁ、ひっどぉ。……でさでさ、孝治さんのいいとこ悪いとこってどんなの?」
「言うわけないよじゃんもー。姉貴はえっちぃなあ」
「え? いいとこ悪いとこって、そういう話?」
「違うっての! そういう事聞きたがる時点でやらしいんだよ姉貴は。今の展開のさせ方もモロだしさ」
「ごめんごめん、怒んないでよ」
「はぁ。そんな姉貴が遠恋となると、やっぱあれだね」
「遠恋って、なんか違う気もするけど……なにさ?」
「遠くにいる貴方の事を想う度、体が疼いて火照っちゃうのぉ」
「……………」
「……………」
「人の事言えないよ、椛」
「あ、姉貴に合わせただけだってば。今自分でも滅茶苦茶引いてるんだからさぁ」
「やんなきゃいいじゃん……」
「そだね……」


「大吾さん、憶えていらっしゃいますか? ここに住む事になった直後のわたくし達――いえ、わたくしの事」
「ん。ああ、まあな」
「ワンッ!」
「……御心配には及びませんわ、ジョンさん。ありがとうございます。――そうです。ここに来た頃のわたくしは、それはもう酷い性格でしたわ。お爺様お婆様が亡くなったショックで、と言えばまだ聞こえはいいのかもしれませんわね。でも、結局は………前の立派なお屋敷とここを比べて、このあまくに荘とここに住むみなさんを纏めて見下していたのですわ。もちろん、ジョンさんも含めて」
「ワウ」
「ブラシかけようとしたらいきなり噛まれた事もあったっけな、そう言えば」
「そうでしたわね。その事で他のみんな……特にチューズデーから随分怒られましたわ。姿は違えど同じ猫である成美さんと仲が良かった大吾さんを、一等気に入っていましたから」
「アイツがか? へえ、全然気付かなかったな。仕事の量、アイツが一番少ねーのに」
「ふふ、猫はひねくれ者が多いのかもしれませんわね。今もわたくしの中でチューズデーが機嫌を悪くしてしまいましたわ」
「ワウ?」
「『昔の話を今更持ち出すのは少々酷くないかね?』ですって。今でも気持ちは変わってないでしょうに」
「うーん、じゃあたまには一緒に散歩でもしてやるかな」
「そうしてあげてくださいませ。きっと喜びますわ。ですよね? チューズデー。……黙り込んでしまいましたわ。うふふ」
「こりゃ明日は頑張らねーとな」


「わ、これ美味しいですね」
「ありがとうございます。ちょっと潰れちゃってたのは残念ですけど」
 リュックの奥から引っ張り出されたクリームパンを一口頬張ると、とろとろとしたクリームの味が口いっぱいに広がった。意識して深く咥え込んだわけでもないのに一口目であっさりクリームに辿り着くのも、流れてパンからこぼれてしまいそうなくらいクリームが滑らかなのも、コンビニやそこらで売ってるようなパンじゃああまりないだろう。もうそれだけでも感心してしまいそうだが、そこはやはり食べ物。一番の感心事がその味なのである事は言うまでもない。ので、私見ながら語らせていただく。甘過ぎず、そしてしつこ過ぎずなそのクリームは、どちらかと言えばあっさり系。もちろんそこに個人の味の好みは関わってくるのだろうが、それだけでも充分に美味しいこのパンと組み合わせるのなら濃い味のクリームでパンを消してしまうのは勿体無い。そう、これは「クリームパン」なのであり「クリーム」ではないのだから、パンとクリームの味がいがみ合ってはいけない筈なのだ。とするならば、甘さ控えめでパンの風味を阻害しないこのあっさりクリームこそがクリームパンのクリームとしては正解なのでないだろうかと僕は思うのであり、
「あ、日向くん。クリーム垂れちゃってますよ」
「え? あ! もも、もったいない!」
 恐るべき滑らかさ。
「何か考え事ですか? 暫らくぼーっとしてましたけど」
「いえいえ、なんでもないですよ」
 クリームパンの事を考えててクリームをこぼしてしまうとは、なんたる不覚!
 せっかく頂いたのにもったいない事して申し訳ないやら恥ずかしいやら思いながらも、テーブルにできた薄黄色い丸を見下ろすと「一人だったら指ですくって舐めてただろうなー」とか考えちゃって余計に恥ずかしいですね。自分のことながら意地汚いと言いますか。


「……おや、喜坂」
「あ、成美ちゃん」
「どうした? そっちも出かけるところか?」
「あ、うん。椛さんが来てるからちゃんと挨拶しておこうと思って。一回外で会ったんだけど、その……いろいろあって、ちゃんと話とかできなくて」
「そうか。わたしも椛に会いに行くところだ。日向そっくりの旦那さんが挨拶に来てな。あれは驚いたよ」
「あ、栞のところにも来たよ。そっくりだよね、孝一くんと孝治さん」
「本当に珍しい事もあるものだな。外見だけじゃなく雰囲気まで似ていたし」
「うーん……」
「ん? どうした?」
「椛さん、孝治さんのどういうところが好きになったのかなあ」
「それは行ってから本人に聞いたらいいだろう。答えようにも、わたしはまだ月見の事を何も知らん。実家がパン屋という事ぐらいしかな」
「でも、孝一くんと似てるんでしょ?」
「そういう事じゃないだろう。でなければ椛は日向にも惚れる事になるぞ?」
「うーん、それはそうだけど……」
「それにもしそうなのならば、逆の組み合わせもまた然りという事になるしな」
「逆の? って、どういう事?」
「自覚がないなら大丈夫だな。お前の説は外れだよ」
「むむ?」


「少しお話が逸れましたわね。では、この辺りでわたくしの話に戻させてもらいますわ」
「おう」
「ワンッ!」
「さっき申しました通り、その当時のわたくしはここでの生活を拒んでいましたわ。ここのみなさんにも辛く当たり、その事を嗜められては中のみんなにも辛く当たり……でもジョンさんは、そんなわたくしを責めようとはしませんでした。毎週毎週、機会があれば気さくに話し掛けてくださったんです。そんなジョンさんにさえ、わたくしは汚い言葉を返してしまっていたといいますのに……」
「へー。あれって喧嘩じゃなかったのか」
「そうですわ。わたくしからの一方的な……でも話し掛けられるうち、少しずつではありますけどだんだんまともなお返事ができるようになっていったんです。それで……」
「それであれか、清サンの部屋に全員集めて謝ってきたやつ」
「はい。それまでの自分がどれだけ醜かったか、自分のこの体でジョンさんに会えるのを楽しみにしている事に気付くと同時に思い知らされたのですわ。『ジョンさんに会いたいと思っているのなら、今ここのみなさんを軽蔑しているわたくしは一体なんなのでしょう? わたくしは、一体何を根拠にして自分が上だと思っていたのでしょう?』と。それに気付いたのが火曜日でしたわ。チューズデーに彼女自身の口で『それ見た事か』と言われたのを、はっきりと憶えていますわ。それから自分の口で謝る事ができる月曜日までの一週間はもう、それまでの自分の振舞いを後悔するだけの日々でしたわね。まさか他の方に代わりに言ってもらうわけにも参りませんでしたから」
「ワウ……」
「そうだったのか。いや、オレにはお前とジョンのあれが喧嘩にしか見えてなかったから、随分急な心変わりだなーと思ってたんだよ」
「急に変われるほどわたくしは強くはありませんでしたから……みなさんに謝るのだって、なかなか言い出せないのを隣でジョンさんに励ましてもらった程ですし」
「大活躍だなおい、ジョンよ」
「ワフッ」
「そんな、謙遜なさらないでくださいジョンさん。させてしまったわたくしが言うのも失礼な話ですが、ジョンさんがしてくださった事はとても大きな事なんですから。『大した事ない』と言われると、してもらった側としては少し寂しいですわ」
「そうそう。褒められてる時は素直に褒めてもらえって」
「クゥ」
「うふふ。……それで、ですね。こういう事があったものですから、ジョンさんに憧れの気持ちを抱くようになったのも必然と言いましょうか。今でもたまに自分の至らなさに気付かせられる事があるくらいなのですから」
「図体だけじゃなくて中身もちゃんと大人なんだよな。もう何度も聞かされた」
「ワフッ」


「ここまでみなさんに配って回ってたんですけど、まだ結構余っちゃってますね。パン」
 リュックの口を覗き込んでパンの残量を確認すると、孝治さんがほんのちょっとの「苦」を含んだ笑みをこちらに向けた。どうやら全部配ってしまいたかったようで。
「こんなに美味しいのに余るなんて、みんな遠慮しちゃったんでしょうね」
 味の事を考えたらそれこそたくさん貰いたいところだけど、余ってるって事はやっぱりそういう事なんだろうなあ。
 しかし孝治さんはパタパタと左右に手を振ると、
「いえいえ、哀沢さんと喜坂さんとはパンを渡してそのまま玄関先で別れましたから。少なくとも味の方は判断基準に含まれてないと思いますよ?」
 そんな遠回しに御謙遜を。
「あ、そうなんですか。あはは」
 もし貰ってから食べるまでに別れちゃって味が分からないままだったとしても、見た目からして美味しそうなのは玄関口での僕の様子が証明しちゃってるんですけどね。まあ、本当にパン見ただけで硬直しちゃうような変態は僕だけだと思いますけど。
 ああ、余ってるなら欲しいところだけどあんまりがっつくのもやっぱりなあ……とか言ってもう三つ貰っちゃってるんですけどもね。最初に食べたクリームパンと、最初にリュックを覗いた時に見かけたクロワッサンと、同じく最初にリュックを覗いた時、他と生地からして違ったので印象に残っていた蒸しパンを。まあ、あとの二つはまだ食べてませんけど。
 で、蒸しパンを注文した際の孝治さんによると、なんとこの蒸しパン、椛さんが家守さんを驚かせるために自分一人で作り上げた物なんだそうで。それでも他と同じようにきちんと包装されているので、孝治さんの家のパン作り法に則った正規品って事なんだろう。という事はつまり、椛さんは頑張ったって事なんだろうなあ。旦那さんのために料理を始めた家守さんと同じで。
 服装は大胆、性格は豪快でありながら、いじらしいところもある。そんなあの人の顔を思い浮かべてみたところ、孝治さんがそれとは関係の無いところで声を掛けてきた。
「ところで日向くん、少し提案があるんですけど」


「おお! なっちゃんしぃちゃん! 来てくれるとは嬉しいねえ!」
「なんだなんだ? 大袈裟だな。椛が来ているのなら顔くらい出すさ」
「栞もさっき会ったんですけど、ちゃんとした挨拶できなかったんですよね」
「そっかそっかうんうん。上がって上がって。椛が奥でお待ちか」
「なるみーん!」
「ぐおっ! は、離せ暑苦しい! 押し付けるな!」
「あれ、奥で待ってなかったね。失敗失敗」
「しおりんも! 会いたかったよおさっき会ったけど!」
「さ、さっきはすいませんでした。失礼でしたよね」
「気にしない気にしない。さぁさぁ遠慮なく上がっちゃって女の子同士腹割って話し合うとしますか!」
「分かったから離せと……ん? も、椛、気のせいかとは思うが、また大きくなってないか?」
「あ、分かっちゃう? 多分旦那さん効果だよ。もう姉貴より大きかったりしてねー」
「旦那さん効果? って、なんですか椛さん?」
「椛……やっぱりあんたはアタシの妹だよ……」
「あ、それは嫌だなぁ。って事でしおりん、ごめんだけど聞かなかったことにしといてよ」
「えー? でも気になりますし……孝治さんが戻ってきたら訊いてみていいですか?」
「しおりんがもし孝治にえっちぃ子だと思われてもいいなら、訊いてもいいよ」
「え? え、そういう感じの話なんですか?」
「感じって言うか『それ』そのものだよしぃちゃん。だから今回は諦めよう。うん。……でさ、やっぱしぃちゃんも大きさとか興味あるって事かなぁ?」
「う……そ、それはやっぱり、ちょっとはありますよ? 楓さんも椛さんもスタイルいいですし、羨ましいなって思う事も時々……」
「スタイルって言うならしおりんだって悪くないじゃん。大きさだって大き過ぎず小さ過ぎずで丁度いいくらいだし、それに顔可愛いしさあ」
「ひぇっ!? い、いえそんな」
「いやでもしおりん実際さ、こんなのでかけりゃいいってもんでもないよ? 走ったら大袈裟に揺れちゃってみっともないしさぁ。まあ普段走る事なんかないから別にいいっちゃいいんだけど」
「……いいからお前達、早く中に入れ。そして椛、早く離してくれ」


「さて、わたくしの話はこれで終わりですわ。どうですか大吾さん? 参考にはなりましたか?」
「……参考? 何言ってんだオマエ」
「ワウ?」
「うふふ。動物的カンと女のカンの合わせ技ですわよ。ジョンさんが気付いておられないところを見ると、『大吾さんは何か訊きたい事がある』と気付いたのが動物的カンのほうで『その理由』に気付いたのが女のカン、というところでしょうか?」
「ぬぅ……」
「……ワウ?」
「大吾さんもようやく本気になってきたという事ですわね。でも、こういう事で他者の経験というのはあまり当てにならないのではないでしょうか? ジョンさんと大吾さんは違うのですし」
「そういうもんか? いや、オレこういう話って正直苦手でよ……」
「それでもその気になったのならきっとなんとかなりますわ。それとも、既に何かしらの進展がおありで?」
「進展っつーか……今日久々に成美のアレがあってよ。オレのせいで。しかも場所は孝一の行ってる大学で」
「ほ、本当ですの? それでは、他の関係のない方にまで被害があったのでは」
「いや、ギリギリでトイレに駆け込んでそれはなんとか。オレもたまたま通りかかった孝一に止められて大した事なかったし。デコが軽く切れちまった程度だな」
「それは良かったですわ。生きてる方が巻き込まれでもしたら、取り返しがつかない事にもなりかねませんのでしたし」
「ワウ」
「あ、そうでしたわね。すると大吾さん、今成美さんは落ち込みモードに入っているのではないですか?」
「んん……もう結構時間も経ってるし、大丈夫だとは思うんだが……」
「だが?」
「ワウ?」
「言い合いなんてしょっちゅうやってるってのに、アレの影響でそうなった時だけ気にかけるってのもなんか変だと思ったんだよ。落ち込む度合いはそりゃ酷くなるけどよ、結局オレが落ち込ませたって事は変わらねえんだし」
「大吾さん……」
「ワウ……」


「そ、それ本気ですか?」
 孝治さんとテーブルで向かい合っていた僕は、衝撃のあまりにやや前傾姿勢になりながらも聞き返した。しかし、対する孝治さんはにこにこと微笑んだまま頭を縦に振る。
「ええ。だって面白そうじゃありませんか」
 ちなみに何の話をしているのかと言うと、なんと孝治さん、ここで入れ替わろうと仰るのです。つまり僕が孝治さんになって家守さんの部屋に戻り、孝治さんが僕になってこの部屋に残る、と。
「でもそんな、ばれたりしたらどんな目に合うか」
 初めて孝治さんと意見が対立。と言ってもまあ長い付き合いとかじゃなくて今日初めて会ったんだから、それほど大袈裟な事でもないけど。
「大丈夫ですよ。遊びだったんですって言えばむしろ喜んでもらえるんじゃないですか? 椛さんとお義姉さんなら」
 喜ばれた後に、その喜んだノリのままで虐められそうなんですけど……椛さんはともかく、乗り込む先があの家守さんの部屋なんですから。
 そんな感じでどちらかと言うと乗り気ではなかったんだけど、目の前で腕を組んで唸っている僕を見て、孝治さんが情報を追加してきた。
「あ、もちろん無理にとは言いませんよ? 僕の勝手な思い付きですから」
 でもそう言われると逆に断り辛いような。ただ相手に遠慮して断れないって事だけじゃなくて、断るように勧められるとやってみたくなってしまうような。「見ないほうがいいよ」と張り紙のされた覗き穴とか、「聞かないほうがいいよ」と注意書きのある壁からぶら下がったヘッドホンとか、そういうのと一緒で。まあ実際にそんなものはありはしないだろうけど。
 さて孝治さんがやめてもいいよと言ってくれたおかげで余計に悩む事になった僕ですが、どうしましょうか?
 腕を組んだまま、更に顔を沈み込ませて考える事十数秒。
「……………分かりました。やりましょう」
「本当ですか? これは楽しみだなあ」
 ま、いくらなんでもすぐにばれるでしょうけどね。孝治さんの言う通り、遊び遊び。


「ねえしおりんなるみん。うちの旦那はもうお邪魔させてもらったかな? 挨拶と一緒にパン配りに行ったんだけどさ、まだ戻ってこないんだよねぇ」
「ああ、来たぞ。しかしこの間ここに越してきたやつとそっくりだったので驚いたよ」
「こーいっちゃんでしょ? 会った会った。あたしもびっくりしたよぉ」
「栞の所にももう来てくれましたから、もしかしたら孝一くんの部屋にいるんじゃないですか?」
「あ、そーかもねー。こーちゃんと孝治さんって似てるから気が合いそうだし、部屋の中で話し込んでるのかも」
「戻ってくる頃には二人が入れ替わってたりしてな」
「あはは、そうなったらあたし大変だぁ。新婚ホヤホヤなのに愛する旦那を見間違えでもしたら、それってかなりのショックだよ?」
「栞は見分けられるかなぁ。――あ、べ、別に深い意味はないんですよ? 孝一くんとはよく会ってるし話もしてるから、何か目印になるようなくせとかあるのかなーって」
「しぃちゃん、そんなに慌てなくても誰も何も言ってないよ?」
「……あっ! やっ、だ、だからそうじゃなくて」
「しおりんは相変わらず可愛らしいなぁ。そっかぁ、恋しちゃってるんだねぇ」
「あぅ……」
「あまり虐めてやるな椛。それと早く離せ。いつまでわたしを抱きかかえているつもりだ」
「だってなるみん抱っこしてると気持ちいいんだもん。つるつるぷにぷにのお肌とか、髪の毛のフカフカ加減とかさぁ」
「わたしのほうはむにょむにょしてあまり気持ちよくはないがな」


「ありがとうございました大吾さん。とても気持ちよかったですわ」
「じゃあ次、ジョンな。ほれこっち来い」
「ワンッ!」
「うふふ。ごゆっくり、ジョンさん。ところで大吾さん、楓さんのお部屋が少し賑やかになったようですわね?」
「ん、そうか? オレにゃあ分からねーけど。孝治サンが帰ってきたのかもな」
「いえ、どうやら栞さんと成美さんのようですわ。逆に孝治さんの声はしませんわね。孝治さん、どこかお出かけしているのですか?」
「ああ、じゃあ孝一の部屋だと思うぞ。ずっと廊下で立ち話って事もねーだろうしな。……そっか、成美のやつ出てきたのか」
「……声色から察するに、成美さんの機嫌は直っているようですわ。よかったですわね、大吾さん」
「ワンワン!」
「まあ、開き直っただけかもしれねえんだけどな……」
「どういうことですか?」
「ワウ?」
「今日のアレの引き金になったの、アイツの体の事なんだよ。オレが――えー、そこらにいた大学生のねーちゃんの話したら急に怒っちまってよ。そんでアレが収まってから、アイツ『もう子ども扱いでも構わない』とか言い出してな」
「大吾さんはそれでは駄目なのですか? 成美さん自身がそう仰っているのなら喧嘩の原因が減るって事になるんですし。それにもしかしたら落ち込みモードが解けて、無かった事にされているかもしれませんわ」
「そっちならいいんだけどよ、その前の――子ども扱い云々のほうだと、なんか嫌なんだよな。アイツらしくねえっつうかなんつーか」
「ワンワン!」
「ああ、そうですわねジョンさん。きっとそうですわ」
「なんだよ?」
「大吾さんはきっと、成美さんの強気なところがお好きなのですわ」
「なっ!?」
「だから御自分が成美さんに弱音を吐かせたという事を、不快に思ってしまうのですわね。自分が好きな成美さんはこうではないのに、そうさせてしまったのもまた自分。というふうに考えてしまうというところでしょうか」
「な、なんでそんなの分かんだよ。オマエ等エスパーか?」
「ワン!」
「うふふ、外れているなら外れているでも結構ですわ。こんなものはただのカンですもの。もし万が一大吾さんが成美さんをお好きな理由が成美さんの外見だったとしても、わたくし達には関わりのない事ですし」
「ぐぬ……確かにそりゃそうだろうけどよ……」


「じゃあ打ち合わせと準備ですね。何事もまずは形から、という事で服を交換しましょうか日向くん」
 言うが早いか、孝治さんは立ち上がって上着を脱ぎだした。うーん、ノリノリですね孝治さん。僕まだ服のほうについては何も言ってないのに。
 こちらも上着を脱いでお互いにそれを交換し、お互いに着る。さすが孝治さん、サイズぴったりですよ。と思ったところで、
「やっぱりズボンもですか?」
 今更だけど、気になった。
「やっぱりズボンもですよね」
 そしてそれに対する返事はもちろん、肯定だった。
 銭湯とかの大衆浴場とかだと当たり前のように他人の目の前で服を脱いだりするけど、普段服を脱ぐ場所ではない所(この場合は居間)だと恥ずかしいのはなんなのだろう? 別に下着まで脱ぐわけではないし、外で服を脱ぎだすよりはまだ常識指数は落ちないと思うんだけど……やっぱり空間の持つ意味って、僕達の行動にかなりの影響を及ぼしてるんだなあ。
 はい。どうでもいい結論に達したところで変装完了。ああ、目の前に僕がいるよ。
 そしてその僕が、口を開く。
「次は言葉使いですね。相手が誰だとどんなふうに喋ってるのか」
「ですね」
 服を交換した僕と孝治さんは、再びテーブルで向かい合う。じゃあまずは僕から。さあさあノッてまいりましたよぉ。
「大吾以外の人とは、今の孝治さんと同じ口調で大丈夫だと思います。で、大吾にだけはなんて言うか、くだけた感じで。『ねえ』とか『どうしたの?』とか」
「あ、つまり僕が椛さんに話し掛ける時と同じですね」
「そうなんですか?」
 一度家守さんの部屋にはお邪魔したけど、その時孝治さんと椛さんの会話には出くわさなかったと思う。「さん」付けだったからちょっと意外かな?
「はい。なので、椛さんにもそんな感じでお願いします。他の方には今のような言葉使いですので」
「要するに大吾と椛さんが入れ替わるだけですね」
 言葉使いに関しては案外簡単そうだった。それが済んだら、次は呼び方の問題。誰を何と呼ぶのか、だ。
「孝治さんって、今誰をどういうふうに呼んでます?」
「あ、そうですねえ。それも大事なところですよね」


「む。もうこんな時間か。そろそろジョンとマンデーが散歩に出かける時間だな」
「あ、そういやまだあたしも孝治もあの二匹に顔合わせてないや。いやー、これはうっかり」
「しぃちゃん、ジョンとマンデーまだ裏にいる?」
「うーん……いないみたいです。やっぱり散歩に出かけちゃったんじゃないですか? 栞と成美ちゃんが部屋を出るちょっと前にジョンが吠えたのは聞こえたんですけど」
「もしかしたら、まだ楽の部屋で毛の手入れをしているのかもしれんがな。まあいつもの時間通りならもうとっくに済んでいる筈だが」
「あー、でも家に来てくれたり孝治さんに付き添ってくれたりしてたから、ブラシ掛けの時間なかったかもしれないねぇ。いやあだいちゃん大忙しだ」
「あ、じゃあ栞、清さんの部屋見てきますね。もしいたら呼んできます」
「お願いねしおりん。ありがとー」


「ところで今更ですけど、なぜアドバイザーにわたくしをご指名になったのですか? 光栄ではありますけど、やはり人と犬の違いもあるにはあるでしょうから、清一郎さんか楓さんのほうが適任だったのではないですか? 楓さんだって、真剣な相談ならお遊びもお控えになるでしょうし」
「いや一回行ったんだけどよ、椛サン孝治サンのいる前でその話は無理だってやっぱ。清サンはこの通り留守だし」
「ワフッ」
「『今日思い立ったからって今日じゃなくてもいいんじゃないか?』との事ですわ。お急ぎなのですか? 大吾さん」
「いや、思い立ったが吉日とか言うだろ。……まあこれは今思いついたんだけどよ。それになんか、じっとしてられなくてな」
「ならわたくしにいい案がありますわ」
「案? なんだ?」
「ワウ?」
「今、孝治さんは孝一さんのお部屋におられるんですわよね? その帰り、楓さんのお部屋にお着きになる前に捕まえてしまうのです。これなら途中で誰かに出くわさない限り二人っきりでお話できますわ。それに新婚さんですし、こういうお話にもお強いでしょう」
「ワンワン!」
「え、いや孝治サン? 今日会ったばっかでそれは」
「人間社会のルールなんてものはわたくし、存じ上げませんわ。またとないチャンスですのに勿体無い」
「ワウ」
「うぬぅ………おッ!? 喜坂!?」
「あら本当。ごきげんよう栞さん」
「ワンッ!」
「おはよー。って、もうお昼だけどね」


 誰をどう呼ぶのかの打ち合わせ終了。僕はこの部屋を出た瞬間から家守さんをお義姉さん、椛さんは椛さんのままで、他のみんなは名字にさん付けで呼びかける事になるそうだ。大吾以外のさん付けはいつもの事だし、これもそれほど難しくないかな?
 と安心したところで、最後に大問題が発覚。
「で、一番の問題なんですけど、僕は幽霊が見えないんですよ。声は聞こえるんですけど」
 なんですと!?
「そ、そうなんですか? 大吾と一緒に来たから、てっきり見える人なのかと思ってましたよ……」
 って事はつまり、僕は幽霊さん方と出くわした場合に見えない振りをしなければならないという事ですか。
 急に難易度が急上昇しましたねえ。とあまりの衝撃についつい二重表現。火が燃えてる、みたいな。
「日向くんは見えるんですよね?」
「あ、はい。そういう事で宜しくお願いします」
 幽霊が見える見えない以外では逆に不安になってしまいそうなほど簡単な打ち合わせだったけど、それでもこれで準備は整った。外面も内面も、今の僕は孝治さんなのだ! 
「それでは早速ですが、行って参ります」
「頑張ってくださいね。僕のほうも誰かが尋ねてきたら頑張りますよ。『見える振り』だけはちょっと厳しそうですけど」
 誰か……か。あの様子じゃあ栞さんは来てくれそうにないし、家守さんもお客がいるのならこっちに来てる場合じゃなさそうだし、これは今夜の料理教室は開催不可かなあ。となると孝治さんが頑張る機会は残念ながらないのかもしれない。
 が、来客予定はありませんよと伝えるのもかなり寂しいものがあるので、この事実は伏せておいた。最初から頑張る必要がないと分かっちゃってもつまらないだろうしね。
「あの、お腹が空いたり喉が渇いたりしたらカップラーメンとか冷蔵庫の麦茶とか、食べたり飲んだり自由にしてもらって構いませんので」
「ああいえ、食べ物はここに……あ」
 パンがまだ数個残っているリュックを持ち上げると、孝治さんがなんとも間の抜けた顔になった。そして僕も多分、孝治さんと全く同じ表情をしているのだろう。ああこの場に鏡があれば確認できるのに。
「あ、危ない危ない。これは『孝治さん』の持ち物なんでしたよね」
 と、「日向くん」。……うん、くん付けだったよね。大丈夫大丈夫。
「すいません、忘れてましたよ」
 そうだ。服装だけじゃなくてこのリュックもまた「孝治さん」である証の一つなんだから、今は僕が持っていないと駄目なんだった。
「日向くん」が持ち上げたリュックをこちらへと指し出したので、僕はそれを受け取る。
 そしてその受け取り際、「日向くん」が楽しげに口を開く。
「それにしても自信満々ですね。今のって、お腹が空くような時間までばれるつもりはないって事ですよね?」
 言ってくださる。
 僕は苦笑とともに立ち上がり、目の前の僕と同じような口調で返す。
「念の為ですよ。多分すぐ戻ってくる事になりますから、もし今お腹が空いてるんでしたら早めにお湯の準備してくださいね」
「あはは。じゃあ、気をつけて」
「はい。行ってきます……じゃなくて、お邪魔しました。『日向くん』」
「またいつでもどうぞ。『孝治さん』」
 玄関口へ向かい、靴の間違えのないように確認してから足を通す。――うん、服と同じく靴のサイズもぴったりだ。
 ドアをくぐって日向宅を後にし、「さてさて、結構長居させてもらっちゃったな」なんて呟いてみる。そうして気分も出たところで廊下のほうへと顔を向けてみると、
「あ、孝治サン。丁度よかった、ちょっと話があるんですけど……」
 ……なんてこったい。

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