「ただいま。いましたよ、ジョンもマンデーも」
「おぉっ! やあやあお二人さん久しぶりぃ!」
「ワンワンッ!」
「お久しぶりですわ椛さん。それと、御結婚おめでとうございます。七匹を代表して御祝い申し上げますわ」
「ありがとね。そっちはどう? 相変わらず仲好くやってる?」
「ワフッ」
「ええ、変わりありませんわ。他のみんなも相変わらず元気にしています」
「そりゃよかった。主人ともども、今後とも宜しくお願いします」
「ワウ」
「こちらこそですわ」
「ねえしぃちゃん。ジョンとマンデーがあっちにいたって事は、だいちゃんもいたんじゃないの?」
「あ、はい。大吾くんもいたんですけど、用事があるとかで上に戻っちゃいました」
「そっかー。なかなか全員揃わないもんだね、珍しく」
「……………」
「あ、なるみんが寂しそうな顔してる。だいごんが来なかったからかなぁ〜 うりうり」
「つ、突付くな鬱陶しい。そんな寂しそうなどと……」
「ワンッ!」
「うふふふ」
「な、なんだお前達。何が可笑しい? 椛もだな、本当いい加減に離してくれ。揉むぞ」
「ありゃ。うーん、残念だけどこれ以上大きくされると困っちゃうからねぇ」
「ふう。――ああ、肩から後頭部にかけてのうにょうにょした感触が抜けん……」
「じゃあなっちゃん、今度はアタシのほうに来る?」
「お断りだ! 何が『じゃあ』だ! 似たようなものだろうが!」
「あ、あの……今のってその、揉む? と大きくなるって事ですか?」
「ん? そだよしおりん。よく言うじゃん、揉まれると大きくなるって。知らない?」
「そ、そうなんですか? ……じゃ、じゃじゃじゃあさっき言ってた『旦那さん効果』って、もしかして――」
「やだもー。想像しないでよしおりん、恥ずかしいじゃんよぉ」
「ご、ごごごごごめんなさいっ!」
「椛ぃ、何もかも自分で言っといてそれじゃあ分かってて誘導したとしか思えないよ?」
「ありゃばれちった? でぇへへへへー」
「ワウ?」
「何やら人間の女性は大変そうですわねジョンさん。よく分かりませんけれど」


 いきなりの試練登場に驚いて声を失ってしまったのは、むしろ幸いだったのかもしれない。なんせ僕は今孝治さんで、幽霊が見えない筈なのだから。で、大吾に対する孝治さん流の呼びかけは………
「え、えーと、怒橋くんですか?」
 こんな感じだろうか?
 見えていないという事でわざと視線を逸らしつつ、正面にいる事だけは分かっているという演技をする。声を掛けられれば大体の方向は掴めるんだから、横や後ろまで気にするのはやり過ぎだろうし。
 そして演技は上手くいったらしく、大吾――いやいや、怒橋くんは特に不審がる様子もなく返事を返してきた。
「そうです。それであの、話っつうのが……」
 言い辛そうに言葉を詰まらせ、頭を掻く。しかしこっちはそれどころではない。詰まるどころか頭は常にフル回転。次にどうくるのか、全く読めないからだ。
「な、何ですかね?」
「その、オレ、成美――いや、哀沢の事が、好き……なんですよ。実は」
 はっ!? いや、何言っちゃってんのよ怒橋くん!? 僕は孝治ですよ!? 孝一くんじゃないですよ!? 今日会ったばっかりって設定の孝治ですよ!?
「で、その……今日ちょっと喧嘩しちまいまして、なんかそれからやり辛いって言うか」
 そんな事知ってるよ! トイレでガンガンやってたの引っ張り出したの僕なんだから!
「は、はぁ。それで僕に何を……?」
「……どうしたらいいんですかね? こういう時って」
「は?」
 待て待て待て落ち着け僕。「は?」じゃなくて。
 何で僕に言ってくるのかは置いといて、聞いた事だけを考えるならこれは恋の相談だ。あの大吾が「好き」とかいっちゃってうぷぷぷぷ。……いや、笑っちゃ駄目だな。で、成美さ……じゃなくて、哀沢さんになるのか。その哀沢さんが好きだと。で、ついでに喧嘩をしたと。最後に、どうしたらいいのかと。
「謝ればいいんじゃないですかね?」
 ……対応はこれで合ってるよね? 学校で謝り合ったのは知ってるけど、そこは「孝治さん」は知らない筈だし。問題無いよね?
「それは……もう、謝ったんですけど」
 大丈夫だったか、ふう。
「なんかそれだけじゃ駄目なような気がして。本当は喧嘩ってしょっちゅうやってんですけど、いつもと違ってモヤモヤが残ってるって言うか」
 って事は、どういう事になるのかな? 謝ってもまだモヤモヤしている、と。それを今知った僕としては、
「謝っても許してもらえなかったって事ですか?」
「いえ、あっちも謝ってくれたんですけど」
 知ってるよ! 知ってるのに訊かなきゃならないんだよ! 大吾が先制攻撃で成美さんが好きとか言っちゃうから、引き返せなくなっちゃったんだよ!
「なんつーかその、もう今までみたいに喧嘩したくねえっつーか」
 ああもう好きだとか最初に言ったくせにはっきりしないなぁ! 好きなんだったら――はい、一旦深呼吸。ちゃんと言葉を変換させてね。
「告白しちゃえばいいんじゃないですか? 哀沢さんに『好きです』って」
 なかなか役者だね、僕も。
「え、あ、あの」
 怒橋くんは告白という単語におたおたしているものの、僕の口は止まらない。潤滑油の効き過ぎで枠からすっぽ抜けた歯車が、そのまま勢い良く地面をタイヤのように転がり続けるみたいに。……ああ、止まらな過ぎてものの例えも暴走気味だ。どこのコントだよその状況。
「告白したら喧嘩がなくなるってわけでもないでしょうけど、哀沢さんの事が好きだからもう喧嘩がしたくないと言うのなら、はっきり好きだと哀沢さんに伝えるべきだと思いますよ? 理由抜きで『喧嘩はもうよそう』と言っても、『お前が言うな』って返されるのがオチでしょうし」
 と自分で言っておいて、思い浮かべるのは隣室にお住まいのあの人の顔。凄い嫌な感じだけど、他人の話だとするする口が回るなあ。告白しちゃえって、自分だってそんな事できやしないくせに。
「や、やっぱそうなるんですかね」
 言った本人が言った自分を責めてたりするけど、それを聞いた怒橋くんは納得した様子。正直な話僕なんかのアドバイスが正解だとは思えないわけですけど、逃げられないから仕方ないんです。だからごめんね、怒橋くん。目も合わせないで適当に答えちゃって。
「……ありがとうございました孝治サン。こんな無茶苦茶な相談に答えてもらって」
 これまでほぼ直立不動だった怒橋くんが、深々と頭を下げる。そうしてお礼を言われると、心にグサリときた。だから僕は孝治さんじゃないんだって。
「いえいえ。頑張ってくださいね」
「はい。それで孝治サン、これからヤモリの部屋に戻るんですよね?」
 ん? ……おっと危ない。釣られてつい目を合わせるところだった。
「ええ、そのつもりですけど」
「えーっと、今部屋ん中に成美――哀沢がいるんで、」
 いやもう呼び方別にそのままでいいから。ナルミ・アイザーワみたいになってるから。なんでヤモリはそのままでそっちだけ意識するのさ。逆でしょ普通。一応、家守さんの身内にあたるんだよ? 今の僕は。
「その、外に呼び出してもらえませんかね? オレ……やってみますから」
 え? 今から? マジで?
 ……マジで?


「しっかし、孝治のやつ遅いなあ。こんだけ女の子勢ぞろいでうはうはだってのに勿体無い」
「いやあんた、自分の旦那に浮気勧めてどーすんのよ」
「それはいいとしても、本当になかなか帰ってこないな。まだ日向の部屋にいるのだろうか?」
「うぅ……」
「ワウ?」
「どうしました? 栞さん。何かお困りですか?」
「あ、あのね、孝一くんにその……謝ろうと思って。ずっと感じの悪い態度だったし、せっかく話し掛けてくれても殆ど無視みたいにしちゃってたし……でも他に人がいると、ちょっと……」
「あらあら、こちらでもですの?」
「ん? マンデー、それはどういう意味だ?」
「あ、いえいえなんでもありませんわ」
「ワフッ」
「ほー、仲直りって事かぁ。それは邪魔しちゃあ悪いねぇ。よし、じゃああたしがこーいっちゃんの部屋からお邪魔虫さんを引っ張り出してくるよ」
「え、あの、そんな無理してもらわなくても」
「下手しなさんなよ椛。しぃちゃんがどうのこうのとか、あっちで口滑らせちゃ駄目だよ?」
「姉貴じゃないんだから、そんな要らないおせっかいはしないよ」


 大吾――じゃなくて怒橋くんは、壁の向こう側で待機中。さぞ心臓が爆発寸前なのでしょうね。で、僕は今家守さん――じゃなくて、お義姉さんの部屋の前。
 呼ぶほうだってそりゃ緊張するよ。哀沢さんを呼び出した後は部屋の中に突入するわけだし、なぜか栞さんまで来てるらしいし……ああ、そんな状況でばれたらどうなる? ただでさえ話もできない状況なのに、もう修復すら不可能になっちゃわない? だからって今更逃げるわけにもいかないし――
「おろ、孝治じゃん」
 ドアが勝手に開きました。椛さんが立っていました。僕を孝治と呼びました。
「なんだ帰ってきてたんだ。いやさ、今から呼びに行こうと思ってたとこなのよ」
「あ、お、遅くなっちゃったね。ごめんごめん」
 これでいいんですかね? 本物の孝治さん。
「今なるみんとしおりんに加えて、ジョンとマンデーが来てるよ。犬と言えどここの仲間なんだし、ちゃんと挨拶しなよ?」
 こういう対応で正解だったらしく、何事もないかのように会話は続行。ふぅ。
「う、うん。でもその前に哀沢さん呼んでくれる? ちょっと用事があるんだけど」
「なるみん? いいけど……」
 僕が哀沢さんに用がある事に意外そうな顔を見せつつ、「おーいなるみーん! 孝治がなんか用だってさー!」と家の内側へ振り返って哀沢さんを呼ぶ椛さん。そしてそれから数秒の間を置き、ぺたぺたという軽い足音とともに哀沢さん登場。もちろん今の僕には哀沢さんが見えない設定なので、来てるのが分かっても目は合わせない。ああ疲れる。
「なんだ?」
「孝治さん」に対しても下から見上げながら上から目線なのはまあいいとして、なんだと言われても困るんですよね。椛さんがこの場にいる事を考えたら、できれば理由は教えないままで連れ出したいんだけど……そうだ、これ使おう。
「椛さん、これ中に持っていってくれない?」
 パンの入ったリュックを差し出す。話をしている間に荷物を持っていってもらうというのはそんなに不自然な行動でもないと思うけど、さあどうよ。
「あ、うん。分かったー」
 いよっし!
「お、まだ残ってる。あたしもなんか食ーべよっと」
 リュックを受け取ると、そう言いながら奥へと入っていく椛さん。これで僕と哀沢さんの二人っきりというわけだ。あとは哀沢さんに行き先を告げるだけで、僕のここでの役目は終わりという事になる。
 はやる気持ちと哀沢さんの顔を見てしまいそうな勢いを抑え込みつつ、行き先のほうへと顔を向けながら一応小声で指示を出す。
「哀沢さん、あっちの壁の向こうで怒橋くんが待ってます。行ってあげてください」
「怒橋が? 何の用だ?」
 と訊き返されるものの、ここでばらすよりは。
「そこまでは聞いてないですけど、とにかく行ってあげてください」
「あ、ああ。分かった」
 そう言って視界の隅の哀沢さんが移動を始めたのを確認し、僕は部屋の中へ。そして哀沢さんは――頑張ってね、大吾。


「おお、いたいた。月見に言われて出て来たのだが、何の用だ? 怒橋」
「あ、あのよ、なんつーか……今日、大学でアレ、あっただろ?」
「その事か。……あれは本当にすまなかった。謝り足りんと言うのなら何度でも謝る。悪かった」
「いやそういう事じゃなくてよ。オマエ、アレで随分落ち込んだだろ? それで」
「ああ、あんなものはもう収まったよ。一日部屋で寝るなどと言ってたのがこの通りだ。わたしのほうはもう心配いらんぞ」
「そういう事でもねえんだよ」
「ん? まだ違うのか? では何だ?」
「確かに心配もしたけど、オレ思ったんだよ。そん時だけ心配すんのも変だよなって。大きかれ小さかれ喧嘩してオマエの機嫌悪くするのなんて、いつもやってるのになって」
「いやそんな、そこまで心配してはもらわなくても……と言うか、いやに優しいじゃないか。どうしたのだ? 変な物でも食ったか?」
「………真面目な、真剣な話だぞ。絶対嘘じゃねえからな」
「だから、何なのだ? 何が言いたい?」
「オレよ、オマエの事が――」


「孝治さんお帰りー。こちらがジョンとマンデーだよー」
 哀沢さんを所定の場所に送り込んで満足感とともに家守さん宅にお邪魔すると、裏の窓から居間に入ってすぐの場所で犬のカップルが綺麗に並んでお座りをしていました。BGMは椛さんが開くパンの包装の音でお送りします。
「ワウ」
「初めまして孝治さん。と言ってもわたくし達、裏庭から覗かせていただいていたんですけどね」
 ああ、僕は今始めてジョンとマンデーさんに会うって事になってるのか。
「初めまして。もう知られてるみたいですが、僕は月見孝治です」
 と普通に挨拶を交わしてからはっとする。相手犬じゃん。初対面って事は驚いたほうが――でも見えてないんだし、これで合ってるのかな。周りの反応も……問題ないみたいだし。
 ふう、怖い怖い。挨拶一つでこんなに心拍数上げなくちゃならないなんて、先が思いやられるよ全く。
 先を思いやったところで、先へ進みましょう。
「……んぐっ。ちなみに孝治ぃ。マンデーはジョンと同じく犬さんだよー」
 口の中のパンを少々無理めに飲み込み、椛さんがそう言った。という事は、僕はそれを知らなかったという事か。それでは。
「そうなの!?」
 ……これで合ってるだろうか。
「あら、事前説明は無しでしたの? こちらは盗み聞きで、孝治さんが見えない方だという事は知ってましたが」
 マンデーさんがそう言うと、家守さ――いやいや、お義姉さんが、自分の頭をぺしりとはたいた。
「そーいや曜日毎に姿が変わる、くらいしか言ってなかったねぇ。ごめんごめん」
 それを受けて、椛さんがまたパンを飲み込む。
「……んぐぐっ。あれ、わざとじゃなかったんだ。孝治を驚かそうとしてるんだと思ってたよ。だからあたし、ここに来るまでみんなの情報は伏せてたのに」
「椛さん、酷いなあ」
 ここらで自発的に喋るのにもチャレンジしてみた。まあ、してみたところでプラスもマイナスもありゃしないんですけどね。
「あ、あの……」
 ささやかなチャレンジが無事終了すると同時に、ここまで大人しかった栞さんがすっと立ち上がった。もしかして、お帰りですかね?
「栞、そろそろ行きますね」
 当たり。
 正直、この状況で人が減るのはありがたい。それに栞さんを騙して一緒にいると言うのも、長引くと気が滅入りそうだったし。
『行ってらっしゃーい』
 お義姉さんと椛さんが揃ってそう言うと、栞さんはそのままさっさと出て行ってしまった。ちょっと寂しい気もするけど、まあこのほうがいいのは明確なのであまり気にしない事にする。ところで、「ばいばい」とか「またね」でなくて「行ってらっしゃい」なのはただの軽口という事でよろしいのでしょうか?
 なんて若干不安に思ったりもしたところ、ジョン――さん? が僕のほうへと近付いてきて鼻をすんすんとヒクつかせる。
「ワンワンッ!」
 僕の顔を見上げながらジョンが吼えると、その後ろのマンデーさんが驚嘆の声を上げる。
「本当ですの? ジョンさん。……これは驚きましたわ。匂いまで全く一緒だそうですわよ、孝一さんと」
 ええそりゃそうでしょうよ。……じゃなくて。
「言葉が分かるんですか?」
 それが実は分かるんだよ、僕。
「うふふ、これでわたくしが犬だと信じてもらえたでしょうか?」
「あ、はい。まあ」
 見えない振りも知らない振りも、大変だ。


「――そ……そんな、何を言っているのだ? 本当に変な物でも食ってしまったのか? わた、わたしをそんな……」
「オレは本気だ。だからもうオマエとあんな事になるような喧嘩はしたくない。オレのせいで落ち込むオマエも見たくない。だから……」
「はは、いやいや待て待て。この体を見ろ。ほれ、よーく見ろ。見たか? 可笑しいだろう、こんな幼い体なのだぞ? 釣り合うわけがないだろうが。自分の年を分かっているのか?」
「……そんなもん、関係あるかよ。オマエの体が大きかろうが小さかろうが、オレはオマエを――」
「待て! 待ってくれ! 何故だ? 何故、今なのだ? ……………お前は卑怯だよ。わたしだって、今までずっとお前を……いくら何でも気付いていたのだろう? そんな事を言われたら、嬉しいに決まっているじゃないか。でもな、でもなぁ、自分はこんな体だからって、ずっと言い出せなかったのだぞ? それを、やっと諦めのつきそうになった今になって」
「それが嫌だったんだよ。オレは諦めるとかそんな言葉、オマエの口から聞きたくねえ。それを言わせてるのがオレだっつうなら尚更だ。……今日で初めて、やっとそう思ったんだ。だから、今日までかかっちまった。遅過ぎたのは、時間が掛かり過ぎたのは分かってる。文句言われても仕方ねえ。でも、それでもオレは」
「怒橋、本当にわたしでいいのか? わたしだってとても嬉しいのだ。後で後悔しても、きっともう止められんぞ?」
「考える時間はいくらでもあったんだ。今更後悔なんかするかよ」
「そう……か。そうだな。遅過ぎたくらいだものな。それなのに、その間ずっと一緒にいたのだものな」
「ずっと一緒にいて、ずっと考えて、やっと出た結論がこれだけじゃあ情けない気もするけどよ、――オマエが好きだ、成美」
「ああ。……ああ。わたしもお前が好きだ、怒橋」


 ピンポーン。
(おっ。早速お客さん第一号! よ、よし。気合入れて頑張ろう)「はーい!」
「あ、こ、孝一くん。栞だよ。ちょっと話したい事があって……」
(喜坂さんか。えっと、栞さんでいいんだよね?)「はいはーい! 今出まーす!」


「顔合わせも済んだしさ、もう遠慮せずにデートに行っちゃっていいよ? お二人さん。あんまり人の恋路を邪魔するのも気が引けるしねぇ」
 椛さんは「椛さんが自分で作ったものだ」と孝治さんから聞いていた蒸しパンを後一口分だけ手に残し、ジョンさんとマンデーさんにそう勧めた。という事は……今日はまだ散歩に行ってないって事か。
「そうですか? それでは」
 勧められたマンデーさんは、ジョンさんの顔を確かめる。
「ワフッ」
「――お言葉に甘えさせていただきますわ。お邪魔致しました」
 どうやらジョンさん、今の控えめな一吠えで椛さんの提案受け入れを表現したらしい。うむむ、全く分からん。
 それはともかくジョンさんとマンデーさんが裏庭へと続く窓から外へと踊り出て、部屋に残るのは僕とお義姉さんと椛さんの三人に。余計プレッシャーが高まったのは気のせいでしょうか? とここで。
「孝治ってさ、営業下手だよねぇ。タダでこんな美味しいのに、こぉんなに売りそびれちゃってさぁ」
「ご、ごめん……」
 椛さんが蒸しパンの最後の一口を口に放り込んで触覚をぴよんと揺らすと、パンが入ったリュックの口を広げ、中身をこちらに見せ付けて僕に非難を浴びせてきた。もちろんそれは僕がした事ではないけど、歯向かうわけにもいかないし、何より僕自身も営業が下手そうだったので素直に謝っておいた。
 すると今度はお義姉さん。
「そっちは『パン屋のおばちゃん』の役目でしょ。美味しいパンを作るのは孝治さんに任せて頑張るこったね、おばちゃん」
 こうなったらもう売り言葉に買い言葉で。
「おばちゃん言うな! そのおばちゃんの姉貴のくせに!」
「年なんか関係ないってぇ。アタシは誰にも『おばちゃん』なんて呼ばれてないもーん」
「ぐぬぬぅ……姉貴だって近所の子どもと接してれば絶対にぃ……」
「へへーん。ここに人なんて寄り付かないよーだ。アタシはずっと『お化け屋敷の美人管理人・家守楓様』で通るんだもんねー」
「そんなん自称じゃん! 姉貴が美人ならあたしは絶世の美女だね! 孝治! 異論ある!?」
 ……ああ、このまま二人でやり合ってくれると思ったのに。そこで僕の出番が来ちゃいますか。で、どうしましょう。首を縦に振るのは簡単だけどそうしたら今度はお義姉さんが怖いような気もするし、かと言って新婚という設定のある僕がこんな外見の話で椛さんを負かせるわけにもいかないし。
「ど、どっちも同じくらい美人って事じゃあ……駄目かな? やっぱり」
 言うや否や、椛さんに思いっきり睨まれた。あー駄目だよねやっぱり。


「い、言ったのはいいけどよ……なんつーか、この後どうしたらいいんだ? 用事が済んだからってこのまま帰るのもなんか変だしよ」
「よ、呼び出したのはそっちだろうが。先に予定は組み立てておけ馬鹿者」
「な、んな事言われてもよ。殆ど勢いだったし、もともとこーいう話は苦手だし」
「むむ……………よ、よし。じゃあ、すまんが持ち上げてくれんか?」
「こうか? 背負うんじゃなくて?」
「ああ。……も、もっと上だな。顔が正面に来るくらいまで――ええい! もういっそ抱っこで構わん! 抱け!」
「な、なんで怒んだよ。……これでいいのか? 普段背負ってるのとあんま変わんねーけど」
「め、めめめ目を閉じろ! それからじっとしてろ!」
「おい、オマエもしかしてキ」
「言うな馬鹿者! 頼むから黙ってじっとしててくれ! なな、なるべくさっさと済ませるから……!」
「わ、分かった」
「……す、好きだぞ。好きだからな、怒橋」


「はーい」
「あのね、あの……あ、謝りに来たの。栞、ずっと感じ悪かったから。ごめんなさい、孝一くん」
「へ。……あ、あぁあぁあれね。いやいや、気にしてないよ。大丈夫大丈夫」
「ありがとう。……そ、それでね。もう一つ謝りたい事があって」
「ええ? え、えっと」
「この間のお花見でさ、孝一くんに言いかけたの……あれ、なかった事にして欲しいの!」
「え? な、なかった事? に?」
「本当にごめんなさい! こんな勝手な事言うのって最低だと思うけど、自意識過剰なのかもしれないけど! これまで通りの関係……って言うか、いつもみたいに何でもないお話ができる関係って言うか……そ、そんな感じでいさせてください!」
「あー、えー、そ、その、なんて言うか」
「本当に、ごめんなさい!」
「え。あー、行っ……ちゃった。何だろう。今のって雰囲気的にもしかして、振られたとかそういう話? これは、えらい話になっちゃったなぁ。あは、は」


「お世辞でもいいからあたしに勝たせてよぉ。旦那なんだしさぁ」
 新婚ホヤホヤの旦那さんに裏切られてしまった椛さんはその場で後ろにバタンと寝転ぶと、こちらに背を向けて愚痴りだす。どうやらいじけてしまったようだ。
「ご、ごめん」
 僕が旦那さんになってから、早くも二度目の謝罪。僕には旦那さんになる素質はなさそうだった。少なくとも椛さんの旦那さんには。
 するとあぐらをかいていたお義姉さんが、その姿勢のまま椛さんのほうへと体を傾けた。
「子どもみたいな事言わないの。お世辞も何も、孝治さんはあんたが一番だと思ってるよ」
 そうそうお義姉さんの言う通り。僕は夫なんですから、自分の妻の事を一番だと思ってますよ。……そこのところ、後で本物さんに訊いてみようかな。
 今頃は来客も無く、部屋でのんびりしているのであろう孝治さんの顔を思い浮かべる。もちろん僕と同じ顔だけど。
 そうしていると、椛さんがごろりと九十度とちょっとだけ回転してうつ伏せに。そして、床と横顔の隙間からその目が僕を見詰める。
「……本当にそう思ってる? 孝治」
「え、うん。もちろんその通りだよ」
 と言いつつ、もちろん僕は孝治ではない。
「ふぅん」
 椛さんがにやける。顔のパーツは目しか見えてないけどにやける。これはどう考えてもよからぬ思い付きをした目だ。
「じゃあどうやって証明してもらおっかなあ」
 そう言いながら椛さんがもう九十度回転。完全にこちらを向いたその顔は予見通り、嫌らしさを微塵も隠すつもりのなさそうな意地悪笑顔。そして顔がこちらを向くと同時に、床に抑え付けられていた触覚もぴよんと背筋を伸ばす。やあこんにちは。
 それにしてもこの笑顔、もう何度も見たような……やっぱり、お義姉さんの妹なんだなあ椛さんは。そんな事を考えてる間に椛さんが手だけで這うようにして上半身を起こし、そのまま同じく手だけを動かしてこちらにずりずりと近付いてきた。
「な、なに?」
 呼びかけてみても椛さんはなお接近。そして目と鼻の先に顔が……と思ったらまだ接近。え、あの、もしかしてこのまま? いっちゃいます?
 しかしそんな不安と雀の涙ほどの期待は破られ、椛さんの顔はこちらの顔の横、つまり耳打ちのような位置関係の場所で停止した。そしてその通り、耳打ちされる。力の抜けたような、ついでに聞いているこちらの力も抜けてしまいそうな、そんなか細い声で。
「愛してるって言ってみてよ」
「うぇ!?」
 小さく悲鳴を上げる僕。
「それが嫌なら、このままギュって抱きしめてくれるのでもいいよ」
「ふぇ!?」
 更に小さく悲鳴を上げる僕。
「大丈夫だよ姉貴しか見てないんだし。それくらいだったら冗談で済ましちゃうような人だってのは、孝治も知ってるでしょ?」
 だったらなんでわざわざ耳打ちなんですか! そんな扇情的な――じゃなくて! そんな小さな声で言わなくても、冗談なのなら堂々と言ってくれればいいじゃないですか! そうすればこっちだって堂々とお義姉さんに助けを求められるのに!

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