「……し、してしまったな」
「あ、ああ。って、なんかヤな言い方だけな」
「突っ込むな。それに、さっさと済ませると言った割には結構な時間していたような」
「詳しく言うんじゃねえよ恥ずかしいだろが。しかも、そう言ったのオマエだろ」
「ま、まあそうなのだが……すまん。嬉しくて嬉しくて、つい」
「謝るこたねーだろがよ。オレだって嫌だったわけじゃねえ。……ちっと驚いただけだ」
「驚く? わたしがこういう事をするのは、意外か? 似合わんか?」
「ああいやなんだ、そんな気にされると困るっつうか――悪い、またオレ余計な事言っちまったな。この癖、早くなんとかしねーとな……んむっ!?」
「……………この、馬鹿者」
「な、なな、なんで、また?」
「これから、お前の悪い口はわたしがこうして塞いでやる。だから、『悪い事を言ってしまった』と後になってから落ち込むな。わたしだって弱音を吐くお前は見たくない」
「な、なんつーか……ここ、礼を言う場面か? それとも、冗談っぽく返す場面か?」
「好きにしろ。ただし、返答次第ではまた口を塞ぐからな」
「あー……」
「――いや、すまん。やっぱりクサ過ぎた。無かった事にしてくれ頼む」
「ああ、分かった。オレもどうしたもんだか悩んでたとこだ」
「あ、でも弱音を吐くお前を見たくないというのは本当だぞ? 口ではさすがに無理かもしれんが、いざそうなったら手で塞いでやるからな」
「分かったよ。で、これからどうする? もう部屋に戻るか?」
「……折角だから、まだ暫らく一緒にいたいぞ。わたしは」
「そ、そうか。まあオレもそうなんだが」
「嫌らしいやつだな。自分もそう思ってるのに、わたしに先に言わせるなんて」
「わわ、悪い。じゃあどうすっかな。……オレの部屋でも来るか? こういう時に行く所とか、どーも思いつかなくてよ」
「ああ、それでいいよ。わたしも思いつかん」
「あーらあらベタベタしちゃって。そんじゃあお邪魔虫は去るとしますかね」
お義姉さんが、唯一の掴むべき藁が、これまた嫌な笑顔を浮かべて立ち上がってしまった。お邪魔じゃないですから、お願いですからここにいてください。
と、僕が心の中で悲鳴を上げてるのは知ってのうえなんだろうな。あの顔は。
「どこ行くの? 姉貴」
「お茶飲んでくるだけだよ。できるだけゆっくり飲むからさ、やりたい事があるんならアタシが戻ってくるまでに済ましちゃってよね。相手がいないアタシにゃあちょいとキツ過ぎるわ」
うわあ生々しい。
でもそう言いながら楽しんでるんだよなーこの人って。なんかもう、羨ましくすらあるなぁここまでなんでも楽しめちゃうっていうのは。なんせ今僕は楽しむどころじゃないですから。
お義姉さんがすたすたと台所に消えていくのを、僕と椛さんは目で追う。そしてその後ろ姿が完全に見えなくなると、
「……姉貴もいなくなったよ? ねえ孝治ぃ、どーするぅ?」
だだだから、耳元で囁きかけないでくださいって。力が抜けるし、変な気分に……。
「か、かか、勘弁してよ椛さん……いなくなったって言ったって、見えてないだけですぐ隣に」
だが実際はそんな事が理由なのではなく、状況がどうあれ手を出してはいけないのだ。だって僕は、月見孝治さんではないのだから。……正直、ちょっと忘れかけたけど。
すると椛さん。僕が拒んだのが意外にも効いたのか、耳元の顔と、既に密着状態だったそのよろしげな体をすっと引き離してくれた。
引き離されたその顔は、きょとんとした表情。でもホッとしたのも束の間、またすぐに意地悪そうな笑顔に元通り。そしてにやにやしたまま立ち上がると何を思いついたのか、お義姉さんのいる台所へと歩き去ってしまった。僕、居間に一人。
嗚呼、短い夢だったなあ……しかし、いい夢だった。実にいい夢だった。が、立ち去り際に見せたあの顔は、この後何かある前兆と見て間違いはないだろう。緩んでる場合じゃないなこりゃ。と言うかもう逃げ出したほうがいいんじゃないだろうか?
とか思った途端に御姉妹が揃って居間に帰還。到着したのが二人揃ってならば、にやにやしてるのも二人揃って。ああ、お義姉さんまで敵に回っちゃいましたか。で、一体なんでしょうか? 場合によっちゃあ本気で逃げますよ?
お二人は、適当にそこらに座るでもなく居間に入ってすぐの所で立ったまま。そしてお義姉さんが壁にもたれかかると、その見るだけで疲れてしまいそうな笑顔が通常の顔に戻る。余計怪しいのは言うまでもなく。
「ねえ孝治さん、今日って朝早かったんでしょ? 疲れてないですか?」
「え、あ、まあ、はい」
別に朝早くないですけどもう疲労困憊ですよ。僕が本当の孝治さんだったら、それこそもうヘロヘロでしょうね。……で?
「もし良かったら、お風呂使ってください。お湯出るようにしときましたんで」
「あ、ありがとうございます。でも」
いや、せっかく勧めてくれてるのに断るのはちょっと「孝治さん」じゃあないかな。かといって入ってしまえばあちらの思うつぼだし――そうだ。
「椛さん、先に入っておいでよ。僕は後でもいいからさ」
まずは敵を分断させる。そして残ったお義姉さんに、それこそもう疲れて疲れてたまらないとでもそれとなくアピールすれば攻撃も取り止めてくれるのではないだろうか? 少なくとも、椛さんよりはお義姉さんのほうが「孝治さん」に好意的に接してくれる筈だ。妻より義姉のほうが好意的ってのも変な話だけど。
しかし、何にせよこれはいける。絶対いける。椛さんだって、お風呂を先にと勧められて断る理由も無い筈だ。理由が無いのなら「いやいや孝治が先にどうぞ」と言われても、いやいやどうぞどうぞ合戦で粘ればそのうちなんとかなる。完璧だ。
「ねえ孝治、一緒に入ろうよ。そっちのほうが効率いいじゃん」
んなにいいいいぃぃぃぃ!?
ま、ままままさかそうくるとは! 完全に虚を突かれた! どうする!? どうやって乗り切る!? ……………く、くそっ! これしかないのか!
「い、いやいやそれはちょっと……ねえ? お義姉さん」
勝率はとてつもなくうっすい。だって頼みの綱さえも敵なんだもの。
「ん? じゃあアタシも御一緒しちゃおっかなー」
「はいぃ!?」
何が「じゃあ」!? 「夫婦と言えど、はしたないんじゃないですか?」って言ったつもりなのに、お義姉さんまで一緒に入るですと!? なんですかそれ、見張り役って事ですか? 間違いが起こらないように見張りを立てれば、はしたなさはオールオッケーですか? 日本って、そういう文化があったんですか? そりゃあこれまで妻はもちろんの事彼女すらいませんでしたから、もしかしたらそんな僕の知らない世界も――ある筈ないでしょうが!
「いやほら、昔みたいに三人で背中の洗いっことかしてみようかなーって。小さい頃よくやったでしょ? 孝治さん、憶えてない? たまには童心に返ってみよっかなーみたいな」
童心に返ったところで体は大人のままなんですよ! いやまあ、僕まだ未成年ですけど……じゃなくて! そ、そりゃあいくらなんでも無理ってもんなんじゃないですか!?
「あたしは構わないけどさー、ここのお風呂に大人三人は狭いんじゃないの? 姉貴ぃ」
構ってよ! そこは構わなきゃ駄目だって節度ある大人として!
「そ、そうなの? ほら、無理ですってお義姉さん。三人どころか、二人も厳しいんじゃあ」
「何よー。孝治、あたしと一緒にお風呂入るのそんなに嫌? 本っ当、恥ずかしがりやさんだよねぇ。姉貴もあたしも気にしないって言ってんのにさぁ。男なら大喜びだよ? 普通は」
もう、普通じゃなくて結構です。勘弁してください。
「まあまあ、無理かどうかは入ってから考えりゃいいじゃないですか孝治さん。ほらほら行きましょ行きましょ」
「そうそう。姉貴が無理だとしても、あたしと孝治は一緒に入るんだからね」
「えっわっあのっちょっと」
結局、二人掛かりで連行される。ヤバい。これはかなりヤバい。これまでの人生で最大級のヤバさかもしれない。ヤバさを越えた先にあるのは楽園かもしれないけど、そこに踏み入ってしまったら人生が終わる。
風呂場へと引きずられている間、その終わった人生を想像してみる。最悪のシナリオとしては、ここに住めなくなるかもしれない。みんなから白い目で見られて、後ろ指指されて、陰口叩かれて………うわああああ!
「ま、待ってくださいごめんなさい! 僕、孝治さんじゃないんです! 孝一です!」
言ってしまった後は、それはもう連行される宇宙人の如くに脱力。しかし支える人の身長が自分とほぼ同じなので、その場に膝から崩れ落ちる。
……もう、いい。脱衣所の敷居という最悪の一線さえ超えなきゃ、あとはもうどうなっても……ああ、僕の楽しかった半月ちょっとの生活とはこれでお別れか。それでも風呂場に入りさえしなきゃ、まだ人間関係の修復は可能なレベルですよね? 大吾のお悩みに勝手に答えちゃったりもしたけれど……時間が経てば、頑張って償えば、まだなんとか
『知ってたよー』
は?
「水でも飲むか?」
「ああ、いただくよ。しかし相変わらず麦茶を沸かす気はないのだな」
「水も麦茶も飲みゃあ一緒――いや、なんでもねえ気にするな」
「ぷふっ! ちょ、ちょっと神経質過ぎるぞ怒橋……! そ、そんな事で気分を害するって、わたしは一体どんな性格なのだ?」
「あれ、変だったか? わ、笑うんじゃねえよ」
「ふふ、ふぅ……お前が妙な行動を起こさなければ笑わないさ。でもな、気兼ねなく笑い飛ばせるというのは悪い事でもないと思うぞ? 少なくとも、わたしは楽しい」
「笑われたほうは恥ずかしいだけだっつーの。ほれ水」
「ありがとう。……笑われて恥ずかしいのならば、笑われないようになるか笑われるのに慣れるかしないとな。最も、お前の場合は後者しか無理だろうが」
「どーいう意味だよ」
「そのままだよ。お前は馬鹿者だという事さ」
「そっちはもう言われ慣れたんだけどな。言われても全く腹が立ちやしねえ」
「そうか? よくそれで怒って糞餓鬼などと言い返してきていたではないか」
「本気で怒ってたわけじゃねえよ。……でもオレ、もう言い返さねえと思う。怒る振りをしなくてもよくなったっつーかさ」
「……なあ、そっちに行ってもいいか?」
「あ? ああ、構わねーけど」
「その、膝の上に座らせてもらっても……」
「一々断らなくてもいいから好きにしろって。背中に乗る時だっていつもそうだろ?」
「あ、ああ、そうだな。……うむ。やはり、椛の膝の上よりこっちのほうが座り心地がいいよ。余計な出っ張りもないし」
「出っ張りってオマエな……」
家守さんと椛さんは崩れ落ちた僕を見下ろしながら、姉妹揃ってにかにかと白い歯を見せ付けながら、笑っていた。その笑顔からはさっきまでの嫌らしさは感じられず、ただ純粋に可笑しくて笑っているような。そんな笑顔だった。
「し、知ってたって?」
足にも腰にも力が入らず床に尻をついたまま、更にその体勢で両手をそれぞれ家守さんと椛さんに掴まれたままの僕の口から、情けなく震えた声が漏れ出した。僕の演技は完璧だった筈で、それが見破られていたとはとても信じられなくて動揺――と言うよりは、何がなんだか分からず混乱していたと言ったほうが正しいのかもしれない。
孝治さんと入れ替わってから今までの事。追い詰められて嘘だったとばらしたつもりが、どうやらその前からばれていたらしい事。そしてこれからどうなるのかという事。これまでと今とこれからの情報がごちゃごちゃになって、頭の中が整理出来なかった。
その時、不意に片方の手が解放されて、支えを失った僕の手がぺたんと床に落下した。そしてその手を離した人、つまりつい今の今まで僕の妻だった人が前傾姿勢になってこちらに顔を近付け、さも答えを言いたそうににこにこしながら尋ねてくる。
「どこで孝治じゃなくてこーいっちゃんだって気付いたか、気になる?」
ちなみにその前傾姿勢ゆえに、服の襟元から覗く胸元がエロい――いやいや、えらい事になってるけど、そこからはなんとか目を逸らした。下に着るシャツはもうちょっとその、胸元の開き具合が狭い物を着て頂きたいと言いますか……まあ、それはともかく。
椛さんが怒っていない事はその顔を見ればすぐに分かった。だけど、それでも僕は、自分がした事への後悔から声を震わせる。
「は、はい」
この返事だって殆ど強制されたようなものだ。と言っても強制したのは椛さんではなく、僕自身だけど。こういう自分が悪いという事が明確な状況だと、どうも首を横に振るのがためらわれる。質問の内容がどうあれ、だ。
すると椛さんは上体を起こし、腰に両手を当てて豪快に笑い飛ばした。
「あっはっはっは! そんなビビんなくても、あたしも姉貴も怒ってないってぇ! つーかさ、怒ってるんなら風呂場に連れ込むようなドッキリ企画やってる場合じゃないじゃん? だぁからほら、そんなビクビクした顔なんか止め止め。そんで立って立って」
「あ、は、はい」
その笑い声と言葉のおかげで随分と気が楽になり、同時に腑抜けになっていた足と腰も言う事を聞いてくれそうになったので、言われた通りに立ち上がる。すると、家守さんに掴まれていたもう片方の手も解放された。そして今度は家守さんが、「あはは、脅かし過ぎちゃったかな? ごめんねー」と小さく笑う。小さくと言っても、あくまでさっきの椛さんと比較しての話だけど。
「それでどこで気付いたかなんだけど、孝治さんってこの子と二人きりだとこの子の事呼び捨てにしてるらしいんだよ。アタシもさっき本人から聞くまで知らなかったんだけどさ」
え? えっと、するとつまりは?
「だからさっき姉貴がお茶飲みに出てったじゃん? そん時こーいっちゃんはあたしのこと『椛さん』じゃなくて『椛』って呼ばなきゃ駄目だったんだよ。残念でした」
……そうなるんですか。ああ孝治さん、どうしてこんな重要な事を言ってくれなかったんですか?
僕と同じ顔を創造上のキャンパスに思い描いて恨めしく思っていると、椛さんが腕を組む。
「でもまーそれだけじゃあ正直『疑わしい』の域は出てないからさ、ちょっと探りも入れたんだよ? ね、姉貴」
「うん。小さい頃みたいに背中の洗いっこってやつ。アタシ達本当はそんなのした事ないんだよ。椛が初めて孝治さんと遭ったのだって、高校でだもんね」
「そうそう。――ってぇ事だよこーいっちゃん。あそこで反論してこなかったのが運の尽きだったね」
そんなの、反論なんかできるわけないじゃないですか。服の入れ替えと喋り方の入れ替えしかやってないんですから。
してやったりと笑みを浮かべる家守姉妹に、僕は精一杯の苦笑いで答えるしかない。とても短い間でしたけど、楽しかったです新婚生活。二度と御免ですけどね。
「よし、じゃあこーいっちゃん、ばれちゃったところで孝治呼んできてよ。あたしを騙した分きっちりお仕置きしてあげなくちゃだしさ」
ペキリボキリゴキリと指の軟骨の気泡を破裂させ、それによる僅かな振動で触覚の先を震わせながら、笑顔の椛さんはそう仰られました。
「わわ、分かりました。行ってきます」
僕がお仕置きの対象でないのはその言葉の通りであると信じたいですけど、同罪である事を考えるとやっぱり平静ではいられないんですよこれが。なのでさっさと退散――いや、その前に言うべき事ぐらいは言っておかないと。
「あの、本当にすいませんでした」
一旦背を向けて歩き出し、それから思い止まって振り返り、頭を下げる。怒ってないとは言ってくれたけど、やっぱり変な事しちゃったんだし。
「いいっていいって。なんならばれたの無しにしてさ、一緒にお風呂入っちゃおうか?」
「け、結構です! 失礼しました!」
家守さんにトドメを決められ、逃げるような勢いで部屋を後にする。背中にクスクスという二重の笑い声を浴びながら。
終わりましたよ、やっと終わりましたよ孝治さん。時間的にはそんなに長くもなかったですけど、僕はもう充分です。そちらは特に事件もなくてつまらなかったのでしょうが、こんな事をしなくてもあのお二人と一緒にいるだけで充分エキサイティングな筈ですから、こっちで我慢してくださったら幸いです。
そんな事を考えながら部屋に向かおうとして、大吾と成美さんの密会場所が今から向かう階段の下である事を思い出す。そしてその階段は101号室のすぐ隣。つまり僕は、家守さんの部屋から出てたった数歩の場所で一旦足を止める事になった。
まあいくら何でも密会はもう終わってるだろうけど、一応壁に沿うようにしてちらりと角の向こう側の様子を覗いてみる。が、角を越えてすぐの場所にある外付け型の階段、その足場と足場の隙間からは、二人の姿も声も音も、何一つ確認できなかった。思った通り大吾の大仕事は既に終了したらしい。
結果がどうだったとしてもお疲れ様、大吾。
「姉貴、さっきのって本気? こーいっちゃんとお風呂入るって」
「んなわけないでしょ。まあこーちゃんからどうしてもってお願いされたら悩んじゃうかもしれないけど」
「それって何さ? 浮気? それともこーいっちゃんは男として見られてないのかな?」
「いやいや。よーするにいつも通りからかっただけだよ。冗談冗談。それより椛、あんたなんか暗くない? 無理してるっぽいんだけど、どしたん?」
「……『椛さん』まで全く気付けなかったぁ! 孝治に合わす顔がないよ、こんなんじゃあ!」
「あー、そこね。よしよし。孝治さんが帰ってきたらさ、そこを突付かれる前に目一杯甘えてご機嫌取っちゃえ。なんなら二人で本当にお風呂使っちゃってもいいよ?」
「……お風呂好きだね、姉貴」
「いやー、だってさ、こーちゃんにも言ったけど朝早くからお疲れ様ってのは本当なんだし。明日も朝早くに帰るんでしょ? だったらできるだけゆっくりしてって欲しいしね」
「お心遣いは嬉しいけどさ、疲れを取るのが目的だったら二人別々に入るってぇ」
「んん? それはどういう意味かなぁ?」
「……と、こういう話に持っていきたいんでしょ? 姉貴のそういう話だけでも疲れるんだってば」
「自分だってそーいう話ちょくちょく振ってるじゃん。攻めるのはいいけど攻められると駄目なタイプって事?」
「あー、うーん、そうなるのかなぁ。なんかヤな感じだね。控えるよこれからは」
「あ、乗って来なかった。寂しいなぁ」
「ん? えっと――ああ、そういう事か。本っ当縦横無尽だねぇ姉貴のその手のネタは」
「褒めるな褒めるな。あんた以外にゃここまでしないから、期間限定大サービスなんだよ?」
「そんなはた迷惑なサービスなんかいらないって。って言うか、よーするにあたしにはずっとサービス中って事じゃんそれ」
二階への階段を上って201号室と202号室の前を通過する際、結局大吾と成美さんはどうなったのだろうかと心配になる。下にはいなかったんだし、もう部屋に戻っていたりするんだろうか?
とは言えそんな想像をしていられる時間も長くはなく、203号室の前を通る頃になると足音一つ立てないほうがいいんじゃないだろうかと独りでハラハラするのでした。そしてハラハラしている間に203号室も通過。ああ、やっと着いたよ戻ってこれたよ日向家。
「ただいまー。孝治さん、いますー?」
「ああ、孝一くん。お、お帰りなさい……」
ドアを開けて呼びかけてみると、想定よりもぐっとトーンの低い返事が返ってきた。もっとこう「ばれちゃいましたー?」とか、「いやあ結局誰も来ませんでしたよー」とか、楽しげな返事が返ってくるものとばかり思ってましたが。
廊下と呼ぶか台所と呼ぶかが未だに決められない微妙なスペースを抜けて居間に入ると、元孝一くんであり現孝治さんである方が見るからに落ち込んだ表情で僕を出迎えた。誰も来なかったのがそんなに残念だったんでしょうか?
部屋の入口から見て一番近いテーブルの一辺――下座になるのかな? 孝持さんはそこに正座して上半身を捻り、こちらへ申し訳なさそうな八の字眉毛を向けている。一体何が孝治さんの眉毛をそんな形にしているのかは分からないけど、取り敢えずその反対側――上座? へと膝をつき、同じく正座で向かい合う。そして僕の正座の姿勢が完成すると、それとほぼ同時に孝治さんが控えめな声で話し出した。
「あ、あの……凄く言い難いんですけど、孝一くんがいない間にお客さんが来まして」
おや、良かったじゃないですか。その様子じゃあすぐにばれちゃって残念だったってところでしょうが、誰も来なかったってよりかはマシですよ。
「そうなんですか。で、誰が来たんですか?」
と言ってから、嫌な予感。いや、予感と言うより推理かな。誰が来たんだろうかと考えてみたところ、頭の中で以下のような消去法が気持ちいいくらいスッと展開されたのです。
清さんは、留守。
家守さんと椛さんは、僕と一緒にずっと101号室にいた。
大吾と成美さんは、僕の部屋に来てる場合じゃない。
ジョンとマンデーさんは、恐らくまだお散歩中。
残るは――あああああああああああああ!
「き、喜坂さんです……」
孝治さんが言い終わると、僕は頭を抱えた。そのまま勢い良く上を向いた。そして今度はゆっくりと下を向いた。手で頭を挟んだままゆるゆるとテーブルに両肘をつき、その姿勢で硬直した。その一連の動作中、お互いに無言。耳に届いたのは肘をつく際に発せられた、「とん」というまるで小人がテーブルに飛び乗ったかのような可愛らしい音だけ。でもまあ残念ながらそんな逃避をしてる場合でもないんですよね。なので、硬直しながらも口だけはなんとか頑張って動かす。
「栞さん、何か言ってましたか……?」
そりゃあ言うでしょ。無言で訪ねて来て無言で帰られても困りますって。……セルフツッコミも虚しいばかり。
「えっと……」
下を向いたままなので視界外ではあるが、聞くだけで眉毛の角度が更に急になっていると確信できる声で孝治さんが僕の質問に答え出す。
「まずは、感じが悪かったのを謝るって言ってました。それで、次にその、花見の時に言ったのをなかった事にしてくださいって。最後に……」
「まずは」の最初の一つで気持ちが軽くなり、「それで」の二つ目で自分の耳を疑い、「最後に」の三つ目で――
「これまでと同じような関係でいさせてくださいって」
自主的に肘の力を抜き、テーブルに顔を落下させた。
もちろん痛かった。いろいろと。ああもう痛くて泣きそうだよ。いろいろと。
「だ、大丈夫ですか? 日向くん」
「大丈夫じゃないかもです」
声が上ずり調子に歪む。あー、ちょっとやばい、泣けてきた。顔上げられないよこれじゃあ。
「ごめんなさい! 僕が入れ替わろうなんて言いだしたばっかりにこんな事に!」
と思った途端に孝治さんの語調が強くなったので、多少濡れ気味の目元を指で払いながら顔を上げてみる。すると、孝治さんはテーブルに額をぶつけそうなほど深く、こちらに頭を下げていた。その行動に多少とは言わず驚き、驚いた事によって感情の波が一旦静められ、静まった事によって平静を取り戻す。この流れを一言で表すのならば、「ぽかん」になると思う。
そんな過剰な平静からも回復すると、多少とは言え涙を流した余韻としてずずっと鼻を一すすりし、それから孝治さんに言葉を返す。
「いえ、僕と孝治さんが入れ替わろうと入れ替わるまいと栞さんは同じ事言いに来てたんですし。これと僕達が入れ替わってた事は関係無いですよ」
そう。ドアを開けて出迎えたのが僕であれ孝治さんであれ、栞さんがその人を僕だと思っていた限り、その事は栞さんの話の内容にはなんの影響も及ぼさない。もちろんその場にいたのが僕だとしたら何かしらの返事はできたんだろうけど……恐らく、その返事はどうせ途惑うばかりで中身の無いものだったんだろう。落ち着いている今ですらも、どう返せば最善なのか、どう返せば事態が好転するのか、さっぱり思いつかないでいるくらいなんだから。
孝治さんが下げた頭をゆっくりと持ち上げながら「でも……」と呟く。そして再びまみえたその眉毛は、やっぱりまだ八の字でした。そして呟いたのはいいものの次の言葉に繋がらず、やるかたなしといった風情でうつむいたまま。
そのまま数秒だか十数秒だか、なんとなーくお互いに相手の出方を伺うような、そんな気まずい時間が過ぎる。
そして。
「あの、ここに戻ってきたって事は誰かにばれちゃったんですよね? なんでばれちゃったんですか?」
こういう時に先だって動けるのは、やっぱり年の功あってなんだろうか? それともそんなのは関係無く、僕が優柔不断だってだけだろうか? うーん……たったの五歳差じゃあ、後者になるかな。あ、でも社会人となりたて大学生じゃあやっぱり人間力に大きな隔たりがあるような。
ま、いいや。
「それなんですけどね孝治さん。椛さんと二人っきりの時は『椛』って呼び捨てにしてるそうじゃないですか。僕、それで引っ掛かっちゃったんですよ」
いくらか分の当て付けも語調の内に含めつつ、問いに答えた。すると孝治さん、まさに目を点にしてのきょとんとした表情。口はぽっかり「あ」の形。次いで、「忘れてました」と。
「言い訳させてもらいますと、最近やっと意識せずにそう言えるようになったんですよ。前から椛さんにそうして欲しいって言われてたんですけど、なかなか馴染まなくて」
あ、いやなんかちょっと恥ずかしいですからそこまで暴露してもらわなくても。最初の一言だけで充分ですから。
「で、意識せずに『さん』を外せるようになったら今度はすっかり忘れちゃってました」
「そ、それは仕方無いですよねぇ」
「そう言ってもらえるとありがたいです」
同じ顔の半笑いと全笑いが向かい合う。えー、なんとなくですけどごめんなさい、椛さん。
するとその時、チャイムの音と玄関のほうから声が。
「こーじー! そろそろ戻ってきなよぉ!」
噂をすれば何とやら、謝った途端に本人様のおなり。
「あ、長居し過ぎちゃいましたね。呼んでるみたいなんで、僕はそろそろ」
「いやちょっと待ってください。服着替えないと」
「ああ、そうでしたそうでした。リュックは向こうに置いてあるんですか?」
「はい」
という事で。
「すいません、今から服、元に戻しますんで、ちょっと待っててください」
一旦玄関から顔を出し、外でお待ちのお客様に事情を説明。更にもう暫らく待っていただくようお願いする。
「あ、はいはーい」
そのまま外で待ってもらえるようなので、その事に安堵しながらドアを閉じた。殆ど同じ体つきとは言え、やっぱり目の前で着替えるのはなんか恥ずかしいしね。しかも今日会ったばかりの人妻さんの前ってんじゃ余計に。
人を待たせているという事もあって、さっさっぱっぱと上も下も交換。ああ、これでようやく僕は僕として堂々と外を歩けるようになったってわけだ。
「これで準備完了ですね。それじゃあ日向くん、お邪魔しました」
「お疲れ様でした」
結局お互いに楽しむどころの話じゃなくなってしまったお遊びもこれでやっと終了。しかし孝治さんを玄関まで見送るまでの僅かな間に、孝治さんにあって僕には無い「その後」をふと思いついた。
「あ、でもこれをネタに家守さんと椛さんにこってり絞られるかもしれませんね」
「あはは、お手柔らかに頼みたいところです」
孝治さんはまるで余裕を見せ付けるように、むしろその事が楽しみであるかのように、にこにこと微笑んでいた。さすがにあの姉妹と深い関係にあるのなら、あの手の責め方にも慣れているんだろうか? それに椛さんとは本当の夫婦なんだから、僕がされたような色仕掛けなんかはむしろ自分から飛び込んでいけるんだし――羨まし――あ、駄目だ駄目だそれは駄目だ。
「それじゃあ、さようなら」
「さようなら」
靴を履き、ドアを開けながら、孝治さんが最後の挨拶をしてくる。もう今日は会わないんだろうなとちょっと別れを惜しんだりしながらこちらも返事を返したけど、開いたドアの向こうで佇んでいる女性を見た途端に「やっぱりもう会わないほうがいいかも」と思ってしまったのは我ながらどうなんだろう。
「うちの旦那がお世話になりました。またね、こーいっちゃん」
椛さんは片手をひらひらとこちらに振りながら、孝治さんの手を引いてさっさと歩いていってしまった。
またね、ですか。まあ日向孝一として会うのであればなんとか大丈夫……かな?
「あ、お帰りー。今度は本当に孝治さんなわけ?」
「やだなあ、お義姉さんまで」
「大丈夫だよ姉貴。ちゃんと確認もしたし、この人は百パーセント『あたしの』孝治でっす」
「おっ、強気に出たねぇ。それで間違ってたら相当酷いよ?」
「へっへー、不安にさせようったってそーはいかないよ」
「ちょっとその、答えを日向くんに教えるには厳しい問題を出されまして……椛さんがその問題を盾にする限り、二度と入れ替わりはできなくなってしまいましたよ」
「へぇ、それってどんな問題なんですか?」
「それは……えっと」
「あたしのホクロの位置だよ。姉貴も知ってるでしょ? どこにあるか」
「なるほどね、そりゃこーちゃんには教えられないわ」
「だからさ孝治、これからはもう間違えないから、さっきまで間違ってたのもお咎め無しにしてくれないかな? こーいっちゃんが失敗するまで、全然分からなかったけど……」
「え? あのさ、お咎めも何も別に僕は怒ったりとかしてないんだけど。だって『これなら騙せる』って思ったから日向くんに入れ替わろうって言ったんだし」
「ありがとー!」
「うわっ! ちょ、ちょっと!」
「さぁさぁ仲好くくっ付かれたところでお風呂のお準備が整ってございますが、いかがです? お二人さん」
「それはもういいっての馬鹿姉貴!」
「え? あ、お風呂ですか? じゃあすいません、いただかせてもらいます。嫌な汗いっぱいかいちゃいまして。……椛さん、何を怒ってるの?」
「あ、いいのいいの。孝治は気にせずにゆっくり入ってきてねー」
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