昼間のドタバタを忘れてゆっくりまったり自分の部屋で過ごす事数時間。窓から眺める外の景色も次第に明るさを失い始め、あれよあれよと言う間に街灯の光が目立つ程の、いわゆる夜になりました。そんな現在の時刻は七時半をちょっと過ぎた辺り。
 床に寝転んでテレビを見ていた僕は、伸びをしながら横に一回転。「あー、明日からやっと講義開始かぁ。どんなだろうなぁ」と呟いてみたその時、呼び鈴が鳴る。どなたか来たようで。
「はーい」
「やあこーちゃんこんばんは」
 ドアを開けると今日はもう会えない、と言うか会わないほうが精神衛生上いいだろうなと思っていた人物が立っておられました。
「ああ、こんばんは家守さん」
 お客さんありという事で今日のお食事会はもう無いものだと思ってたし、あるにしたってまだ時間が早い。
 何の御用でしょうか? とこっちから尋ねる前に、家守さんはからからと笑い出した。
「あっはっは、もうお義姉さんとは呼んでくれないんだ?」
「……本当、昼には失礼しました」
 頭を下げる。いくら本人が目の前で笑っているとは言え、その話を持ち出されると僕は謝るしかないのでした。一緒になって笑えるならこの話題も歓迎したいところではありますけどやっぱり、ねえ?
「まあそれは冗談として。ねえこーちゃん、今日はみんなでアタシの部屋でご飯食べようって事になったんだけど、こーちゃんも来ない? 本当にアタシと椛はなんとも思ってないからさ」
 お誘いの言葉をかけてくれる家守さんは、あくまでにこやか。その表情といい口調といい、そして最後の一文といい、家守さんの優しさが全身に染み渡ってくるようだった。ここが日本でなくてアメリカとかだったら、親愛の印として軽く抱きついていたかもしれない。それくらい僕は家守さんの人柄に感動していた。
 だがしかし、ここはやはり日本で僕はやはり日本人。文化的に抱きつくのはよろしくないのでせめてその気持ちだけでも表現する事にした。
「行きます! 是非行かせてもらいます!」
 まあ、自分から仕掛けておいていざ優しくされたら感動というのも自分勝手な気はするけど。
「おっ、乗り気だねぇ。じゃあ行こ行こ。他のみんなはもう行ってるからさ」
 僕の返事ににこやかさを増した家守さんは、くるりと体の向きを変えて歩き出した。なので僕は置いていかれないように慌てて靴を履き、少々の早足で家守さんに追い付く。
 そして階段へと差し掛かった時、不意に家守さんが口を開いた。
「そうそう。今日の晩ご飯はお寿司の出前頼んどいたからさ、こーちゃん今回は食べるだけでいいよ。ゆっくりしてってね」
「あ、ありがとうございます」
 そんな会話をしている間に階段を降り切り、降り切ってしまえば101号室はすぐ隣。というわけで。
「ただいまー。こーちゃん連れてきたよー」
「お邪魔します」
「その前にちょっと来てもらおうか孝一」
「へ?」
「ん? どしたのだいちゃん?」
 家守さん宅に入った途端に僕を連れ出したのは、誰であろう怒橋大吾くんその人でありました。玄関で待ち伏せていたうえ、家守さん無視です。
 向かった先は、記憶に新しい階段の下。大吾くんはそこに僕を引っ張り込むと憮然とした表情で腕を組み、ゆっくりとした口調で語りかけてきました。
「オレな、今日孝治サンにちょっと相談した事があったんだよ」
「あは、あははー……」
 もう言いたい事は分かりましたね?
「そんで孝治サンに礼言おうとしたらな、オマエと入れ替わってたって言われたんだよ。身に覚えが無いってな」
 そこまで言われた時点で僕は腰を思いっきり曲げ、そこから更に首も可能な限り曲げた。この後どういう話になるか分かっているのなら、その話に入る前にここはもう謝っておこう。そう思ったから。
「ごめん! 本っ当ごめん! いきなりだったから本当の事言うタイミング逃しちゃって!」
 暫らくの沈黙。その間僕は頭を下げたままだったので、大吾が今どんな表情をしているのかは分からないまま。視界の上半分にはサンダル履きの大吾の爪先が納まってるけど、それすらもなんら動きを見せようとはしない。
 そして更なる暫らくの沈黙の後、ついに耐え切れなくなった僕は、そろりそろりと面を上げた。もちろんそうしてゆっくり上げたところで、目の前にいる大吾に気付かれない訳はないんですけどね。
「……えーと、だな」
 顔を上げたその先で、大吾は何やら困惑したような表情。右の人差し指で頬をぽりぽりしながらどうしたもんかと言わんばかりに腰を低くした僕を見下ろしていた。
「……あれ? もしかして――怒ってない? のかな」
 そう恐る恐る言いながら恐る恐る腰を伸ばし、ついには僕、直立。そして相手も右手を下ろして、直立。大吾はそのまま少し考えるように言葉を詰まらせ、それからほんの僅かに笑みを含んだ声で話しだした。
「ああっと――いや、最初はそれもあったんだけどよ、オマエがあんまり勢い良く頭下げるからその気も失せちまった」
 おお、効果的面。素直になるのはいい事だ。……と考えるのは邪なんでしょうねやっぱり。そんな邪念を払うためにも、もう一押ししておこう。
「ごめんね大吾、なんか偉そうな事べらべら言っちゃって」
 今度は大吾の顔を真っ直ぐに捉えたまま謝罪。すると大吾右手が今度は頭にあてがわれ、そのままぼりぼりと頭皮を掻き始めた。だからと言って急に頭が痒くなったのかと言われれば、もちろんそうではないのだろう。
「いや、そのおかげで――なんだ、上手くいったからよ、礼も言っとこうと思ってな」
 まさかのお礼。そしてそれが霞むくらいに喜ばしくも驚くべき報告。
「上手くいったの!? じゃ、じゃあ成美さん」
「ああ。アイツもオレの事、好きだって言」
「止めんか馬鹿者ーーーーっ!」
「ってぐおぉっ!?」
 嬉し恥ずかしで幸せ絶好調だった大吾は、掛け声とともに飛んできたドロップキックによって体全体がくの字に折れ曲がってしまいました。
 僕と大吾は階段の下で話していたので、隣にはもちろん階段が。しかし、そのドロップキックは隣の階段を突き抜けて飛んできたのです。と言っても階段に穴を空けるほどの高威力だったとかそういうわけではなく、要は階段をすり抜けて突っ込んできたという話ですね。
「な、成美さん?」
 ドロップキックから華麗に着地を決め、ゆっくりと立ち上がるその勇姿に声を掛けてみる。が、その目は眼前で腰を抑えてうずくまっている男に向けられるばかり。いくら声を掛けたところで、僕のほうへと向けられる事はなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……日向と一緒に出て行ったと聞いて、追って来てみればこの有様か……」
 大技を決めた事による披露からかその息は荒げられ、その小さな肩は体格に似合わないくらい大きく上下していた。
「ぐ、お……いっててて……」
 蹴られた反動で一メートルほど後ずさった大吾が、うめきながらゆらりと立ち上がる。
 そして。
「な、何しやが……!」
 明らかに怒り心頭の表情で成美さんに食って掛かろうとするが、それも一瞬の事だった。成美さんに歩み寄ろうとしたその足は、一歩目を地に付けたところで早々にストップする。
「――あ、そうか。いやな、成美。孝一は最初から知ってたから言っても問題ねーんだよ。その、コイツにオレ、あの事で相談しててな」
 そうか、成美さんは大吾が僕に相談を持ち掛けたことを知らなかったのか。だから大吾が僕にさらっと話したのを聞いてお怒りになられたんだな。普段からあんな感じなんだし、そりゃあさぞ恥ずかしかったんでしょうね。
「その事ではない!」
 あれ。
「それはもう知ってるさ! 全員な!」
 成美さんは、僕と同じくきょとんとしている大吾を睨み付けたまま背後を指差す。そこはもちろん階段の裏側だけど、隙間から覗くその向こう側――101号室外壁の向こう側から、ぞろぞろと人が現れた。
「出て行くところを家守に見られたならこうなる事ぐらい想像がつくであろうが! わたしも含めて全員が全部聞いたよ! お前と日向の話をな!」
 ほぼ半泣き状態の成美さんが怒鳴り終わると、壁の向こうから現れた人達が階段を越えてこちらへとやってきた。
「あはは。最初はなんかこーちゃんとだいちゃんが喧嘩でもしてるのかと思ったんだけどさ、だんだん雲行きが怪しく――いや、よろしくなってきて、気付いたらなっちゃんが飛び出してたよ」
 成美さんの激昂っぷりに相反するかのようなへらへらっぷりの家守さんを筆頭に、あまくに荘住人全員プラス本日お越しのお客様お二人がずらりとお目見え。
 そんな中、栞さんが集団からちょっと引いた所で浮かない顔をしているのはもしかして……いや、考え過ぎかな。引いてるって言っても一、二歩分だし、特に理由もなくそこに位置していると考えても差し支えない程度のものだ。だから、まさか自分の話の相手が孝治さんだったと気付いたって事は――
「いやはや、私が出かけている間にいろいろあったようですねえ。んっふっふっふ」
 あ、清さんお帰りなさい。今日顔見るのは初めてですね。
 しかし成美さん、それでもまだ大吾から目を離さない。息が整うと同時に怒りも収まってきたのか、釣り上がっていた目元もだんだん下降。しかし基準の位置まで下がってもまだ下がり止まらず、その表情は怒りから哀しみへと見る見る間に変貌していった。
「それは、ずっと隠すつもりもないし、隠したところでいずれ気付かれるのだろうがな、もっと心の準備と言うか、時間が欲しかった……今日の、今日の昼間の出来事だぞ? それを……う、うぅ……」
 喋っている間にも哀しみは深さを増していき、ついには成美さん、うずくまって泣き出してしまった。まるで今日、大学のトイレの前で泣いていた時のように。
「わ、悪かったよ泣くなって。……みんな、先に部屋に戻っててくれねえかな。コイツ落ち着かせたらオレも行くから」
 大吾のその言葉に各々返事を返したり頭を下げたりし、出てくる時と同じくぞろぞろと引っ込む。そして今回は、僕もその集団の仲間入りを果たしました。この後どうなるのかかなり興味はあったんですけど、これは残念ながら仕方がないですよね。
 そして全員が部屋に入り、最後尾の僕がドアをギイギイバタンと閉めた途端、
「いやっほーい!」
「ひゃっほーい!」
 家守姉妹がハイタッチ。そしてそのテンションのまま思いっ切り抱き合う。
「こりゃもう祝杯もんだね! アタシ飲めないけど!」
「あの二人がくっつくなんて、今日来て良かったよあたしー!」
 わあ、押し潰されてはみ出そうだよ。何がとは言わないけど。


「悪かった。悪かったけどよ、何も泣くこたねーだろ? アレがあった後とかなら分かるけどよ」
「わたしもっ、自分で驚いているのだ。自分がっ、これくらいでぇっ、泣いてしまうだなんてぇ」
「む……こういう時――なんだ、か、彼氏としてはよ、どうしてやりゃあいいんだ? 慰めようにもなんて言ってやったらいいんだか」
「そっ……くくっ、そんなものは人それぞれだろうが。本当に馬鹿だなっ、お前は。慰める相手にそれをっ、訊くかぁ? 普通」
「笑いながら泣くんじゃねえよ。器用なヤツだな」
「じゃ、じゃあ笑わせるな。息が苦しくてっ、こっちまで辛いではないか。あは、あはははは」
「はぁ。オレ告ってからこっち、なんか言うたんびにこうなってるな。」
「でも、今回に限っては正解だった、のかもな。おかげでっ、泣き止めたよ」
「まだ泣いてんじゃねーか」
「これは笑い泣きだ。文句っ、あるか?」
「……ふん。まあ、こっち向けよ。涙拭うくらいはしてやるから」


 いつもの丸いちゃぶ台と、これは――清さんの部屋のだったかな? 抱き合っていた家守さんと椛さんが離れたので居間へと進むと、いつもよりテーブルが一つ多かった。あまくに荘のみんなで集まった時でも結構狭かったから、お客が二人来てたら座り切れないって事だろう。それにジョンとマンデーさんもいるし。
 みんながそれぞれ思い思いの席に着いて思い思いの話を……いや、話題はほぼ固定されたようなものか。とにかくそんな賑やかな部屋の中、長方形のテーブルに着いた僕の向かい側には清さんが腰を降ろした。そして清さん、いつも通りににこにこしながら言う。
「情報不足ではありますが――私が思うに、月見さんと日向君が入れ替わって、日向君を月見さんだと思った怒橋君が相談を持ち掛けたと。そういう事ですかね?」
「その通りです」
 さすが清さん。今日ずっといなかったのに、お見事ですね。
「ならば日向君、大手柄ですねえ。んっふっふっふ。あの怒橋君を素直にさせてしまうなんて」
 そう言われて、果たしてそうなのかと大吾が相談を持ち掛けてきた時の事を思い返す。その記憶の限りでは、どうもそうではないような?
「いえ、大吾は最初から何か思うところがあったみたいですよ? 僕に話を持ち掛ける前から。なんせ最初の一言から成美さんの事が好きだ、だったんですから」
「ほう。という事は、相談する前からその気はあったと。何があったんですかね?」
 今日大吾と成美さんの間であった事と言えば、やっぱり大学のあれなんだろうけど……言わないほうがいいかな。人の失敗を吹聴するみたいで良くないし。成美さん、あの時結構な落ち込みようだったしなぁ。
「うーん、分からないです。特に理由もないんじゃないですか? 好き合ってるのは前からだったんですし」
「ですかね」
 短い時間とは言え孝治さんとして生活した経験のある僕にとって、今更この程度の誤魔化しなどは屁でもないのでした。いい経験だった――いや、それはさすがにないか。
 昼間のあたふたっぷりを省みてみたところ、少しばかり吹いてしまった。が、その時。
「ねえ孝一くん、ちょっといいかな」
 最高に気まずいお呼びの声が背後の頭上から聞こえてきた。その声色は特に変わったところもない普段通りのものだったけど、声色がどうあれその人がその人であるという事だけで、今の僕にとっては充分に気まずいのでした。
「は、はい」
 もう、今すぐ謝ったほうがいいのかもしれない。大吾にそうしたように。
「外でちょっとだけお話しがたいんだけど、着いてきてもらっていいかな?」
「はい……」
 ああ、もうタイミング逃しちゃった。
「あれ? しおりんどっか行くの? こーいっちゃんも」
 そろそろ出前の寿司も来る頃だろうに出て行こうとする僕と栞さんに、椛さんが尋ねる。
「はい。すぐ戻ってきますから」
 それに答える栞さんは、いつもの愛想のいい顔で。でも平然とその顔を見せられるのが逆に怖いと言うか……ああ、自業自得なんだよねこれって。仲直りしようと訪ねて来てくれたのに、知らなかったとは言えそれを完全に裏切っちゃって。これじゃあ仲直りはもちろん、花見の日のあの言葉を、なかった事にして欲しいと言われてしまったあの言葉を、もう一度最後までちゃんと聞きたいと望む事も絶望的なのかもしれない。
「行ってらっしゃい、お二人さん」
 そんな僕に家守さんは気さくな声を掛けた。言葉では「お二人さん」と言ってはいるが、その視線は明らかに僕にだけ向けられて――そしてその顔は、優しく微笑んだ。
「行ってきます……」
 せめて形だけでも微笑み返す事が出来たなら、どれだけマシだっただろうか。
 居間を抜け、台所を過ぎ、玄関へ。二人並んでというのはスペース的に厳しいので、まずは栞さんが薄茶色のサンダルを履く。そしてドアに手を掛けようとしたところ、それより前にドアノブが回転し、こちらからは何の力も加えていないのにドアが独りでに開いた。
「ん。なんだ、オマエら出るのか?」
 つまりはそういう事。話をしていた場所はすぐそこだというのにやっぱりいつも通り成美さんをおんぶして、大吾が帰ってきた。
「あ、うん。ちょっとね。ごめんね、すぐ出るから」
 大吾に道を開けてもらい、栞さんが外へ。僕もそれに続くように靴を履き始める。
「日向、どうしたのだ?」
「いえ、なんでもないです」
 成美さんの問い掛けが僕と栞さんの外に出る理由について問われたものなのか、それとも今の僕の表情について問われたものなのか分からなかった。なので聞き流しているかのような曖昧な返事を返し、さっさと二人の横を通り過ぎた。その二人もそれ以上質問をしてくる事なく部屋に入り、ドアが容赦なく音を立てて閉じられる。
 さあ、これで二人だけか。
「ここじゃあちょっと、台所の人に聞こえちゃうかもしれないから……さっき大吾くんと孝一くんがいた所に行くね」
「あ、はい」
 結局またあそこかぁ。しかも今度は自分の話で。……気が重いなぁ。
 部屋の角を越え、現れた階段の裏へと身を隠すように入り込む僕と栞さん。だけど昼間の大吾と成美さんのように浮いた話になる雰囲気では、もちろんない。殆ど説教部屋に連れ込まれたような気分だった。かと言って僕だけ辛い訳でもなく、連れ込んだほうも辛いのはまさに見たまま。という事はもう、どんな話がなされるのかは分かっているようなもので。
 向かい合うではなく二人して壁にもたれる。話し相手はすぐ隣にいるのに、お互いにそちらを見ない。示し合わせたわけでもないのに自然とそうなってしまった事が、更に雰囲気を悪化させているようなそうでないような。
 そうして顔を合わせないまま、足元やら星空やらを見たりする。僕も栞さんも喋らない。そしてその黙っている間、僕は考えていた。栞さんが話し出す前にこちらから謝ってしまうか否かを。
「間違ってたらごめんね。今日のお昼に」
 そしてそれに結論が出るより早く栞さんの口が開いてしまった。
「ごめんなさい! あれ、僕じゃないです!」
 反射的に栞さんのほうを向き、頭を下げる。自分の中でもその行動は「そりゃないだろう」と批判に値する酷いものだった。真剣な話なのに、それを途中で遮るなんて。
 ともかく大声を出したせいもあってか、横を向いたままだった栞さんがふいとこちらへ顔を向ける。
 そして。
「そっか。よかったぁ」
 ……え?
 一瞬耳を疑ったもののそれが聞き間違いでない事は、心底ほっとしたようににっこりと微笑む栞さんの表情が物語っていた。
「あの時全然目を合わせてくれなかったから、怒ってるのかなって」
 目を。そうか、孝治さんは声から幽霊のおおよその位置を判断してるんだろうから、視線まで合わせるのは無理があるか。その時のその状況での栞さんの心情を思って更に申し訳無さが増したところ、急に栞さんが驚いたような声を上げた。
「――あっ、ご、ごめんね。そうじゃなくても怒ってるよね、あんな身勝手な事言っておいて……それとも、孝治さんからまだ何も聞いてない?」
「いえ、聞きました」
「ごめんね……」
 怒られると思ってビクビクしながらついて来たのに、逆に謝られてしまうという展開に途惑いは隠せない。けど、だからと言って心が休まるわけでもなく。
「なんでそうなったのかは――聞かせてもらっても構いませんか?」
 孝治さんにその話を聞いてから、ずっと頭の中に浮かんでいた巨大な疑問。それをやっと吐き出すことに成功すると、栞さんは顔を伏せ、たっぷりと時間をとって返事を考える。
 そして伏せられた顔が再び持ち上がると、その目は苦笑とともにこちらを見詰めた。
「そう、だよね。理由も言わずにあんなの、やっぱり納得してもらえる筈ないよね」
 そう言いながらもまだ、ためらいがちな声。踏ん切りがついたと言うよりは、僕に急かされて仕方なくといった様子だった。
「でも今は……ご飯食べ終わって解散した後、栞の部屋に来てくれるかな」
「部屋に? あ……は、はい。分かりました」
 壁へ、いや、壁の向こうの101号室内部へと視線を向けた後、再びこちらを向き直して部屋に来て欲しいと言う栞さんに、僕は少々動揺しつつも頷いた。
 一瞬「もう夜ですけど大丈夫なんでしょうか? いろいろと」とか思ってしまった僕は汚れてるんだと思う。多分。いろいろって何さ。


「へー、哀沢さんってそんな事もできるんですか。僕でも見えるなんて、驚きました」
「最初に会った時にこうしていればいらぬ気を揉ませる事もなかったのだろうが、あの時は気分が参っていてな。そこまで気を配れなかったのだ。すまなかったな、月見」
「いえいえ、そんな謝ってくださらなくても。……ちょっとその、耳、触ってみてもいいですか?」
「ん? ああ、構わんぞ。耳と言ってもただ髪の毛がそういう形になっているだけだがな」
「ではちょっとだけ失礼します。……おお、これはふさふさしててかなり……」
「だいごんもふさふさしてあげたら? なるみん、きっと喜ぶよ?」
「え、いやあの、だから勘弁してくださいよ椛サン」
「お。気になってるみたいだねえなっちゃん?」
「なっ! ば、馬鹿を言うな! なぜわざわざ皆の前でそんな事!」
「あら成美さん、それはつまり二人きりなのならやって欲しいという事ですわね?」
「ワウ?」
「貴様等、二匹揃って馬鹿にしおって……!」
「いや、ジョンがなんて言ってるかは分かんねーだろ」
「ワンッ!」
「『濡れ衣だ』だそうですわよ成美さん」
「ぬぐ……! ええい! もういい! とにかくここではもう、死んでも誰にも触らせんからな! この耳は!」
「いや、もう死んでるだろ」
「やかましいわ馬鹿者! 頼むからこういう時はわたしの味方でいてくれ!」
「おやおや、お熱い事で。んっふっふっふ」


 部屋に戻ると、暫らくの間椛さんに「二人で何してたのかなぁ?」としつこく迫られたりしました。が、僕と栞さんがやんわりふんわりぐんにゃりとかわし続けたので、そのうち攻撃対象を大吾と成美さんに移されました。ふぅ。
 意外だったのはその椛さんに攻められてる間、家守さんが椛さんの加勢に来なかった事でしょうか。こういうネタなら好んで飛び込んでくるんじゃないかと終始家守さんの動向を気にしていたんですが……やっぱり家守さん、直接見てなくても大体分かっちゃってるのかな。僕と栞さんが外でどんな話をしたのか。栞さんの様子がおかしい理由も知ってるって言ってたし、その上であえて教えないとまで言ってたんだし。
 食事が終わって解散すれば、やっとその理由が教えてもらえる。やっとその理由を知る事ができる。心の隅っこでこのお食事会が早く終わって欲しいとすら思いながら、出前寿司の到着を今か今かと待つのでした。


『いただきまーす!』
「それにしても、凄い量ですね。食べ切れるんですかこれ?」
「あはは、頑張ってたくさん食べてねこーちゃん。余って腐らしたら料理人免許剥奪だよ?」
「できる限りは頑張りますけど……」
「心配すんな孝一。余った分は全部オレが食ってやるからよ」
「おお、だいちゃん張り切ってるねぇ」
「前の刺身の時はサタデーのせいで食いそびれたからな。今日は遠慮なく食わせてもらうぞ」
「大人気ないですわよ大吾さん。それこそサタデーの思う壷ですわよ?」
「知るかよ。どう言われようとも今日サタデーは手出しできねえからな。じゃ、まずは一つ目っと」
「ワウ……」
「あれ? ねえ大吾くん、ジョンが元気ないみたいだよ?」
「あん? どしたジョン、そんなに腹減って……あ」
「お昼のお食事抜きでしたもんねージョンさん。ここは大吾さんからお寿司のお刺身部分を頂くべきだと思いますわ」
「ワンッ!」
「な、何ぃ!? そんなんアリかよ! オレ、米部分だけか!?」
「ぬぐぁぉっ! ぐむおおおお!」
「今度はなんだーーー!」
「おお、カップルで騒がしいねぇ。どしたん? なるみん」
「わは、わはびふぁっ! 鼻ふぁ! 鼻ふぁあああああ!」
「だっひゃっひゃっひゃっひゃ! なっちゃん、ワサビ駄目ならちゃんと先に取っとかないと! あっひゃっひゃっひゃっひゃ!」
「ぷくっ、くっくっく……哀沢さ、くくっ、だ、大丈夫で……」
「こ、孝治、わらっちゃああぁは、駄目だって……ぷっ!」
「んっふふっふぶっ」
「せ、清さんの笑いが、不規則に……あは、は」
「んふぁあああ……ひ、ひはまや、わらふなは……」
「な、なな、成美ちゃんんふっ、お、お願いだから声出さないでぇ……」
「……鼻に水ぶちこんでやりゃあいいんじゃねーか?」
「あら大吾さん、笑わないんですのね」
「オレが笑うわけにぶふっ」
「あらあら」
「ワウ?」
「わたくしですか? 後で成美さんに怒られるのは嫌ですので、内心だけで笑わせていただきますわ。それよりジョンさんもワサビにはお気をつけくださいませね」
「ワンッ!」


『ごちそーさまでしたー』
 全員揃って手を合わせ、賑やかで豪華で美味しい夕食が終了。と言ってももちろんこれで全てが終わったというわけではなく、賑やかさだけは持続する。
 恐らくは以前、清さんが鯛を釣ってきた時の刺身パーティで碌に食べられなかった事を指しているのだろう。大吾が「今回は腹いっぱい食えたな」と「今回は」の部分を強調して言う。するとそこへ「お昼にもらったパンもあったしね。栞もお腹いっぱい」と続いたりする。それらに代表されるように、総じて満ち足りた雰囲気を醸し出している101号室内部。しかしそんな中、
「ワサビなぞ、使いたい者だけが醤油に混ぜていればいいのだ……」
 恨み節。言うまでもなく、食べてる最中に鼻をやられていた成美さんです。
「まあまあ。なっちゃんだって結局たくさん食べたんだからさ、体格に見合わず」
 落とし込まれた声質に対照的な、家守さんの返し。正論ではあるものの自分にない機嫌の良さが鼻についたのか、むっとする成美さん。しかし僕としては、別の箇所が気になった。
「体格……」
「ん? どしたのこーちゃん?」
「ああいえ、今日学校で身体測定だったんですけど、妙にムキムキな人と会ったんですよ。その割に身長が僕より低くて、アンバランスだったと言うか」
「こーちゃんより、ねえ」
「それでいて口調が古めかしいんですよ。『鉛筆を貸してもらえんじゃろか』とかって。あれはインパクトが強かったですねえ」
 今のこの場とはまるで関係がない、本日午前の思い出話。関係がない故にそれほど長続きさせるつもりもなかった。が、
「……なあ、日向」
「あ、はい?」
「そういう人物に覚えがあるのだが……できれば一度、会わせてもらえないだろうか? ちょっとその、もしわたしの知っている人物なのなら、大事な用があって……」
「は、はあ」
 物凄く意外な展開だった。もちろんムキムキな割に身長が低く、そのうえ口調も妙だとなると、そう滅多に見掛ける人物像ではないだろう。でもだからって、こんな偶然があるだろうか? 筆記用具を忘れた、なんていう理由でたまたま声を掛けてきた人が、知り合いの尋ね人だったなんて事が。
「でも、次に見掛けるのがいつになるか分かりませんけど。名前も知りませんし」
「むう、そうか。ならもし見かけたら、声を掛けてみてくれ。是非とも会ってみたいのだ。――名前を知らないのはわたしも同じだ、気にするな」
 なんとも奇妙な展開になってしまったけど、まあ同じ大学の人だし、そのうち見掛ける事もあるだろう。なんて軽く考えていたところへ、この部屋で一番大きい人物が動く。
「じゃあそん時はオレも」
「怒橋……」
「よく分かんねえけど深刻そうだからな。邪魔かもしんねえけど、立ち会うくらいはいいだろ?」
「ああ、是非そうしてくれ。お前がいてくれれば心強いよ」
 これまでの成美さんらしからぬ、素直な対応。対して大吾は、「ま、いつになろうと暇なんだしな。どーせ」と素っ気無く言い放ちつつ、恥ずかしそうにそっぽを向く。
 ――胸の内に少しだけ、後ろめたい想いが生じた。今の話を軽く見ていた僕と違って、大吾は深刻そうだと言ってのけた。成美さんも否定しない。つまりは大吾の言う通りで、僕は。
 大吾に対して、「ついさっき告白した相手なんだからそういう事に敏感なのかも」という言い訳のような文章が頭の中に流れる。だけど、そうではないというのも理解できる。そういう事じゃないだろう、と。要は僕が成美さんに対して関心が低かっただけだ。もちろんそれは、声を掛けてきた相手に向ける態度としては無礼というものにあたるだろう。――もしかして知らないうちに、栞さんに対してもそうしてしまった事があったんだろうか? だから今、こんなふうに。
 無事に想いを打ち明け合った二人と自分達を、ついつい比較してしまう。それが自分以外の誰に対しても失礼であり、そのうえ自分に対して有益だというわけでもないのに。

 この後、栞さんの部屋で、一体どんな話をする事になるんだろう。

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