第五章
短い夜の長い話



 本当は食事終了後も暫らくお喋りの時間があったりしたんだろうけど、ムキムキな人の話を持ち出した張本人の僕にも想像し得ない急展開に空気がすっかり変わってしまったのでお寿司パーティーはそのまま流れ解散とあいなりました。こんばんは204号室住人日向孝一です。今日挨拶するのは二回目になりますか。いやあ実に忙しい日だ――と、それは置いといて。
 もちろん、だからと言って誰も僕や成美さんを責めたりする事は無かったけど……成美さん、一体その尋ね人さんと何があったんだろう?
「じゃあ入って。孝一くん」
 人の心配をしてる場合ではないか。お邪魔します、栞さん。
 左右対称なだけで自分の部屋と同じ構造の台所を抜け、居間へと通される。以前に陶器の置物が好きだと聞いていたのでどんなものだろうかと期待していたところもあったけど、居間は想像していたよりずっと質素だった。さすがに成美さんの部屋ほど何も無いというわけではないものの、少なくとも陶器の置物は見当たらない。
「どうしたの? きょろきょろして」
「あ! い、いえすいません!」
 指摘されて初めて、ちょっと、いやかなり感じの悪い行動だったのではないかと反省する。が、後の祭り。
 夜中で、二人きりで、しかもそれが意中の女性の部屋で意中の女性ととなると、緊張してしまうのも無理はない。よね?
「なんだか、想像してたよりあっさりした部屋だったと言いますか」
 さっきよりも控えめに辺りを見回しながら、と言うよりは栞さんと目を合わせるのがためらわれたので視線をうろうろさせながらそう言うと、栞さんはくすりと小さく息を漏らした。僕の質問が変だったのか、それとも挙動が可笑しかったのか。どちらにしても、情けないことに変わりは無い。それを思うと僕は、心の中で大きく息を漏らすほかなかった。
「まあ、こっちの部屋はね。ごちゃごちゃしてるのは隣の部屋だよ」
「あ、そうなんですか」

 ふすまの向こう、私室の事はこの際なのでこれ以上尋ねないとして、居間の白い正方形のテーブルを挟んで僕と栞さんは向かい合う。
「成美ちゃんと大吾くん、良かったね。二人とも凄く嬉しそうだった」
「そうですね」
 若干、声が固い。僕の。
 繰り返しになるけど、このシチュエーションはいろいろと意識しないわけには行きますまい。既に振られているとは言え――ああ、振られてるのか。そうだったそうだった。そう考えると気が楽になるなあ、残念ながら。
 ほんの一言だけあちらの二人の話をすると、まっすぐ僕のほうを向いていた栞さんは少しだけ視線を下方に逸らす。
 そして数秒後、栞さんが顔を上げると同時に本題へ。
「じゃあ、話すね。栞があんな事言った理由」
「……はい」
 ついに始まったと頭が理解した瞬間、体が強張り喉が急速に渇き始める。でも一番自分の気に障ったのは、心臓の鼓動だった。それこそ体の強張りも喉の渇きも気にならないくらいに音を立て、胸を体の内側から激しく叩き、集中して聞かなければならない話が始まるというのに意識をかき乱す。そんな心臓を意識しないようにと意識するほど手に力が入り、正座している足に添えられているだけだったそれは然程時間も掛からず握り拳へ。それでも更に力が入ると、だんだん汗が滲んできた。
「前に、話したよね?」
 しかし栞さんからすればそんな変化は分かる筈もない。角度的に手はテーブルの縁に隠れている筈だし、心臓に至っては元から見える位置にあると困るものだ。なので、表情にこの緊張が表れていない限りは、栞さんがそれに気付くこともない――いや、気付いたところで同じ事か。
「栞は生きてる時、体が弱かったって」
 栞さんはただ話すだけだ。僕が緊張しようとしまいと。
「それで、小学生三年生の時に倒れてからはずっと病院で過ごしてた」
 だから、話す。僕の事などお構いなしに。何故なら僕が望んだから。教えてくれと頼んだから。
 前に聞いたのと同じ話を、しかしまるで違う語りで。
「普通は一日中ベッドで寝たまま。体調がいい時はちょっと歩き回ったりしてたけど、それも病院の敷地内だけ……と言うか、実質建物の中だけだね。それに歩き回ったところで何もないから、結局殆どは自分の病室から出なかったなあ。だからって病室でする事があるわけでもなくて、窓から外の様子を眺めてるだけ。そこから見えるのはその病院の駐車場でね、たまに小さい子ども達がボール投げたりして遊んでたの。あ、栞も小さい子どもだったけどね。それで最初のうちは『あんなふうにまた外で遊びたいなあ』って思ってて、暫らくしたら『外じゃなくてもいいから誰かと遊びたいなあ』って思うようになって、最終的にはなんとも思わなくなっちゃった。『ああ、また来てるなー』って、その程度。クラスの人達からも千羽鶴とか手紙とか送られてくるんだけど、『だから何?』って。嫌な子どもだよね、あはは。一年立ったら学校のクラスも変わるでしょ? そしたら会った事もない子から手紙が来るんだよ? 手間取らせてごめんなさいって、読みもしないでそう思ってたよ。面倒臭かっただろうなって。病室まで来てくれるのってお父さんお母さんだけだったなあ。来てくれたら嬉しいんだけど、帰っちゃった後が凄い寂しいんだよね。酷い時には泣いちゃってたし。あ、これ別に小さい時の話じゃないよ? 中学行くような年でも泣いちゃってたんだよ」
 僕に割り込ませまいとしているのか、それとも先を急いでいるのか、饒舌に楽しげに、そして長々と言う。対する僕は、ただ淡々と長々と話を聞く。頷くでもなく、相槌を打つでもなく。
「何歳くらいだったかなあ、十五? かな? そのくらいの時にね、自分の病気と、あとどれくらい生きられるのか教えられたの。そんなのを教えてくるって事はもうあんまり長くないって事で、十七歳まで―――あ、じゃあ違うか。教えられたの十六歳だ。ごめんごめん。って、別にどうでもいいね。ごめん。―――――なんか、勝手に謝ってばっかりだね、あはは。教えられてから一年間、何か変わったかと言われたら何も変わらなかったよ。自分でも驚いたなあ。死ぬって言われてあそこまで冷静だったなんて。親が帰ったら泣くくせに、変だよね。それで―――言われた通りに、十七歳で死んじゃった。いつものように夜眠たくなったから寝て、起きたら幽霊だったの。体を起こしたらまだ下に自分が寝てるんだよ? びっくりして大声出しちゃった。孝一くんが孝治さんにあったときみたいな感じかな? でも、誰もその声に気付いてくれなかったんだよね。体も今までにないくらい軽いし、それでなんとなく気付いたの。ああ、死んじゃったんだなって。そっちでは驚かなかったなあ。随分前から分かってたし。それで、栞の人生終わっちゃった。今言った事だけで殆ど全部だよ? あとは学校に通ってた頃の記憶がちょろちょろ。あんまり憶えてないけどね」
 こちらが驚いている間に栞さんの話は一区切りを迎え、それでも驚きが収まらない僕と一区切りを迎えた栞さんの間に静寂が生じる。何か言おうと思って口を開けてみたが、いつまで経っても何を言うかが思いつかなかったので、結局ぽかんと半開きのまま。
「ここまでは前に話したよね? それでここからが今回の話なんだけど、」
 そしてここから、そこから聞こえてきたのは先程までの軽い口ぶりから一転。今にも泣きそうな細い声。
「今、孝一くんといると思っちゃうんだよ。……栞の人生はこんなのだったからね、それが終わっちゃって――今になってから幸せになるのって、変だなって。死んじゃって楽になって幸せになれるんだったら、本当に何のために生きてたんだろうって……さっさと死んじゃったほうが良かったのかなって」
「そんなの!」
 思わず声が出た。だけど、そこから先の台詞は――
「『そんなの、おかしい』」
 その先を続けられないでいると、栞さんがまるで見透かしたかのように復唱した。まだ口に出していない言葉を、完璧に復唱した。その復唱で改めて、なぜ自分が言い止まったのかを再確認させられる。
「……そうだよね、やっぱりおかしいよね。死んだほうがいいだなんて、こんなの絶対考えちゃ駄目な事だよね」
 それがおかしいのなら、では栞さんが生きていた時間は何のための時間だったのかという事になる。しかし、それは僕には到底答えられない疑問だった。……でもだからって。答えられないからって。
「そんなふうに考えちゃうから、今の幸せが怖いの。だから……ごめんね、孝一くん。栞は臆病だから、怖いのに耐えられそうにないの」
「嫌です」
「え?」
「僕は、僕は栞さんが好きです。それしか言えないし、栞さんの悩みにも全然応えてあげられませんけど……それでも栞さんが好きです。だから、僕が悪いわけでもないのにごめんと言われても納得できません。僕を振るなら僕を振ってください。栞さんの中だけの理由で振られたって、諦められるわけないじゃないですか。どうにかできるんじゃないかって思っちゃうじゃないですか。よく考えてみるまでもなく、どうにもできやしないのに」
「で、でも……」
 果たして、ここまで情けない告白があったものだろうか。悩みに応える気は無い、振られてるのに未練タラタラ、挙句の果てには無茶を言って押し切ろうとしている。こんなに我侭で強引な告白なんて、してみたところでどうなるだろう? それこそ本気で嫌われて、再び、しかもこっぴどく振られるのがオチだろう。
 ああ、やっちゃった。
「そんな事言われても、困っちゃうよ。そんな事言われたら、抑えられなくなっちゃうよ……」
 そう言いながら段々と段々と、栞さんの顔が下へ向いていく。そして、下がり切ったところで完全に動きが止まる。息が詰まるような沈黙が、一秒、二秒、三秒。そして四秒目、栞さんの肩がぐっといからせられた。
「孝一くんから! 好きな人から好きって言われたらこっちだって好きって言いたくなっちゃうよ!」
「だったら言ってくれればいいじゃないですか!」
 風の向くまま気の向くまま、思った通りをただ言い返す。怒鳴り返そうと思ったのなら、思ったままに怒鳴り返す。――あ、部屋の中だから風は向かないか。気だけか。それはともかく。
 まあしかしこれは酷い。
「だって! さっき孝一くん『どうにもできない』って言ったよ!? 好きだって言っちゃったらどうにかしないと駄目じゃない!」
「それでも好きなんですよ! どうにもできなくてもどうにかしてあげたいんですよ! 一度話を聞いた以上栞さんが好きと言おうが言うまいが!」
「――ひ、卑怯だよ! ずるいよ! そしたら孝一くんに話した時点で栞に逃げ道なんてないんじゃない! どうやったって孝一くん頑張っちゃうんじゃない!」
「ええ頑張りますよ頑張りますとも! 好きな人が困ってたらそりゃあ頑張りますよ! 無駄かどうかなんて知ったこっちゃない! 自己満足と言われても構わない! それで栞さんがちょっとでもこっちを見てくれるならいくらでも!」
「いっつも見てたよ! ちょっとどころじゃないよ! お話して! お出掛けして! お料理作って! 孝一くんが引っ越してきてからいっつも傍にいるんだからいっつも見るしかないじゃない! それでいい人だと思ったら好きになっちゃっても仕方ないじゃない!」
「だったらもう好きでいいじゃないですか! 好き合ってるのにごめんって言われたってそんなの納得できる筈ないでしょう!?」
「だからそうしたら話が元に戻るんだって! 孝一くんどうにもできないんでしょ!?」
「どうにもできなくてもどうにかします!」
「矛盾してるよそんなの!」
「だからなんだってんですか!? 好きな人のために頑張って何が悪いんですか!」
「悪くないけど悪いのー!」
「それこそ矛盾してるじゃないですかー!」
 ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ。
 テーブルをバンバン叩きながら怒鳴り散らすという世にもけったいな告白は、息切れ同士の至近距離での睨み合いで一旦休憩に入ります。
「水、飲む?」
「いただきましょう」
 お互いの荒々しい息遣いが聞こえる程の至近距離のまま、そして言葉から刺々しさが抜けないまま、そんな遣り取り。こちらからの給水の申し込みを確認すると、栞さんは顔を離してずかずかと台所へ赴いた。その後、台所からガチャンガチャンと乱暴な金属音。そしてバアァンとこれまた乱暴な棚か何かの扉を閉じる音。しかもどうやら勢いがつき過ぎて扉が跳ね返ったらしく、音の結びに締まりがない。丁度シンバルの残響音のような感じだろうか。しかしそれっきり扉の音はせず、察するに面倒になってきちんと閉める事を放棄したらしい。分かりますよ。今みたいにイライラしてる時ってそういう細かい事に更にイライラしますからね。そして最後に、水道から水の流れる音が。
 するとその時、
「くっ……あはっ、あっはっはっはっはっは!」
 流水の心地よい音を遮るような大音量で大爆笑。それはもちろん僕ではない。が、
「あっはははははは! はーはははっははぁ!」
 こちらも釣られて大爆笑。夜中にお騒がせして申し訳ありません、近隣住民様方。
 台所の笑い声が、だんだんとこちらの笑い声に近付いてくる。それでも双方笑いは収まらず、水の入ったコップがテーブルに置かれてもまだ暫らく大音量を撒き散らす。テーブルに触れてもいないのにコップの水が波を立てるくらいに。
「あはははは……はぁ、はぁ………」
「はー、あー、ははは……」
 栞さんが再び僕の向かい側に座って向かい合うと、どちらからともなく笑いが収まり始めた。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
 飲んでる最中に噴き出さないよう極めて慎重にいただきますを発声し、一飲み一飲み丁寧に喉を通していく。その間、相対する栞さんは両手で口を塞いでいた。僕が笑いを堪えているのを察してくれたらしい。と言うか、自身が笑いそうってことですよねそれ。
「ふぅ……」
「ふぅ……」
 飲み終わってコップを置き一息つくと、栞さんも口の前の手をどけて一息ついた。
「変なの。あんなに怒りながら好きだ好きだって言い合うなんて」
「ですよね。初めての告白はもうちょっとロマンチックであって欲しかったですよ」
 また一息。
「ぷくっ……あはははははははは!」
「あーっはっはっはっはっはっは!」
 また大笑い。

「ひぃ、ひぃ、ひぃ……こ、これ以上は腹筋が限界です……」
「し、栞ももう、お腹痛い……」
 二人以外誰もいない部屋で、その二人が腹を押さえてテーブルに突っ伏し、細かく痙攣している。ちょっと慌てんぼうな人が見たら事件でも起こったのかしらと早とちりしてしまいかねない状況の中で、僕と栞さんはテーブルに手を着いてのっそりと起き上がった。
 そして先に口を開いたのは栞さん。もちろん口元は緩んだままで。
「結構さ、シリアスな話をしたと思うんだよ? 自分では。それなのにどうしてああなっちゃうかな。笑ってる場合じゃないよね、普通」
 お次は僕。もちろん口元は緩んだままで。
「栞さんが大声出すから――だから僕も釣られて大声出しちゃって、それなのに」
「ああっ、栞のせいなの? 元はと言えば孝一くんが分からずやだからじゃない」
「分からずやじゃなくて、分かった上で言ってるんですぅー。どうにもできなくてもどうにかするんですぅー」
「うわぁ、ヤな言い方ぁ」
「………好きです、栞さん」
「………そこもヤな言い方で言ってくれたら、笑い飛ばせるのになあ」
「笑い飛ばさせる訳にはいきませんからね」
「あはは、困ったなぁ」
 結局笑うんですね。飛ばしてはいませんから良しとしますが。
「困らせて判断力を鈍らせる作戦ですから」
「判断力を鈍らせてって事は、孝一くんの言い分を受け入れるのは間違いって事になるのかな?」
「そんな事は言ってません。僕的には正解はそっちですから」
 ここまで来るとただの意地の張り合いだ。しかも内容は屁理屈だけの。しかし、ここでいったん栞さんの表情が初期化される。あの申し訳無さそうな、それでいてこちらを拒絶するような、二日前の花見の後からずっと頭に焼き付いていたあの表情に。
「……孝一くんさ、今ここで死んじゃうって言われたらどうする? 自分は何しようとすると思う?」
「今ですか? 今、この場で? すぐに?」
 しかし僕が返事をすると、すぐにさっきまでの表情――と言うか、爆笑分の余分な頬の緩みも抜け、花見以前のあのにこやかな表情に戻る。
「うん。あ、でもあんまりすぐだと何もできないから……今から一時間か二時間くらいしたら死んじゃうって設定で。どうする?」
 そんな細かい設定はまあどうでもいいんですが……僕にとって一番の問題は残り時間ではなく、今ここで、この状況で死ぬという事だ。質問の意図は図りかねますが。
「あの、真剣な話なんですよね?」
「うん。凄く真剣な話だよ」
「じゃあやっぱり、本当のところ答えたほうがいいですよね?」
「うん」
 物凄く素直に頷いちゃってくれてますけど、なんと言うかその、これでも入学したてとは言え大学生になるような年齢ですから自分がそんな土壇場で奇麗事やら嘘やら並べ立てられるような人間じゃない事ぐらいは分かっちゃってるんですよね。だから、
「じゃあ言いますけど、それで僕の事を見損なったり蔑んだりするのは反則ですよ? 栞さんが言えって言ったんですからね」
「あはは、抜け目ないね。大丈夫だよ、ただ聞きたいから訊いてるだけ。栞だってお子様じゃないんだし、変に格好つけた答えなんか期待してないよ」
 との事なので、存分にぶちまけますか僕の汚らしさを。まあ一瞬で済むんですけどね。
「栞さんを押し倒します」
 さあどうですかこのストレートな最低さは。
「あ……予想以上だった……」
「じゃあもっと詳しく教えましょうか?」
 ぶちまけちゃったらもう後はヤケだ。今なら最高に嫌われてしまいそうな発言でもジャンジャンバリバリ言える自信がある。言ってどうなるかなんてのは、押し倒すって言っちゃった以上今更な問題だし。
「い、いい。よく分かったから」
 おや残念。
「ちなみに栞さんの予想ってどんなのだったんですか? 予想『以上』って事は方向性は合ってたんでしょうけど」
「そんなの、されるのが自分なのに言えるわけないよ。変態さんみたいじゃない」
 ですか。
「で、結局何が言いたかったんですか? まさか僕に犯罪予告をさせるのが目的だったわけじゃないでしょう?」
「あ、えーっとね。実際にそうなった時に栞はなんとも思わなかったんだよって、もし思ったところで何もできなかったんだよって不幸自慢しようと思ったの。孝一くんが困らせてくるんなら、こっちも困らせ返しちゃおうかなってね」
「栞さんがそんなに不幸なのなら、より一層なんとかしたくなりますね」
「あぅ、効果無し……って言うか、こんなに軽く話しちゃったら誘える同情も誘えないよ。なんで普段の調子で言っちゃうかなぁ、自分が死んじゃった時の話なのに」
 まったくで。
「妙な雰囲気になっちゃったもんですね。こっちはそれに加えて告白までしなくちゃならないんですからもうわけが分かりません。更には押し倒すとか言わされちゃうし大混乱です」
「あはは、そうだね。でも悪くな――あっ」
 何かを言いかけた栞さんが、慌てて口を塞いだ。そして塞いだ指の間から苦々しく半開きにされた口を覗かせながら「あぁ……」とこれまた苦々しく呻き声を上げる。
 ん? 今のはもしかして、不用意発言じゃないですか? これは見逃すわけにはいきませんね。
「な、なんでもないよ。今のは間違い」
「何がですか? 何がどう間違いなんですか?」
「だ、だからぁ……うぅ」
 言葉に詰まると、下を向いてしまう栞さん。しかし容赦はしない。ここはむしろ押すべき状況だ。さっきの言葉を途切れさせずに言わせる事ができれば僕の勝ち――もとい、告白の成功がぐっと近くなるのは確実だ。なぜなら、そうなるからこそ栞さんは慌てて口を塞いだのだから。
「僕まだ何も言ってませんよ? 間違いでもいいから最後まで聞かせて欲しいです。『悪くな』なんですか?」
「………………」
 下を向いたまま、押し黙る。
「僕が『妙な雰囲気になりましたよね』と言いました。それに掛かってるんですよね? その言葉は。まあもしかしたら『押し倒す』のほうかもしれませんけど」
「………………」
 なおも押し黙る。
「教えてくださいよ。さぁさぁ」
「……孝一くん」
「はい?」
「怒るよ?」
「……ごめんなさい。調子に乗りました」
 冗談ではなく、本気で頭を下げる。そしてその相手もまた本気。怒るよと言うか、既に怒っていた。しかも目には今にも溢れんばかりに涙を溜めて。
 もしただ怒っているだけだったなら先程と同じく言い合いに持っていく事も考えたんだろうけど、泣かれてしまったらいくらなんでももう無理だ。とてもそんな顔を見ながら責め立てるなんて事、僕にはできない。精神的に辛過ぎる。もちろん理由はそれだけじゃなくて、告白するのに泣かせてどうするって話ももちろんあるんだけど――あ、それを考えたら怒らせてる時点で駄目? いやでも、さっきの言い合いは結果的に好感触だったし……。
 などと頭を下げたままゴチャゴチャ考えていると、その頭の上から怒気を含んだ言葉が降りかかってくる。
「顔上げてよ。怒ってるんだからちゃんとこっち向いてよ」
 まるで本当にすぐ近くにいるような――テーブルから、こっちを覗き込んでる?
「はい……」
 顔を上げたら、テーブルから身を乗り出した栞さんが至近距離でこちらを睨み付けている。頭の中ではそういう事になっていた。
 だけど実際は。
「うわっ!? えっ? ちょっ、あの、これは」
 頭を上げた途端に、栞さんに抱き付かれた。
 僕の目の前にはもちろんテーブルがある。だけど栞さんは、そのテーブルに重なりつつ僕の背中に腕を回している。――つまり先程話し掛けられた時に至近距離だと思ったのはテーブルから身を乗り出してではなく、テーブルの存在を無視してすり抜けたまま、僕の目の前に座っていたからだった。
「孝一くんが……孝一くんが悪いんだよ? 全然諦めてくれないし、酷い事言ってくるし」
「そそ、それは、むしろこうなる原因とは真逆なような」
 宙に浮かせた自身の両腕が行き場を失っておろおろと彷徨う。ええもうこんなの初体験ですよ女性に抱き付かれるなんて。幼稚園ぐらいの時までの母親を除けばですが。
 しかし抱き付いたほうは何とも思ってないのか、更に腕に力を込める。肩に押し付けられたその顔も更に強く押し付けられて、正直ちょっと痛いくらいだ。
「だって! だって栞、孝一くんの事嫌いになりたいわけじゃないもん! 好きだもん! だからこのまま仲良しでいたかったのに、全然諦めてくれないんだもん! 孝一くんに喋らせてたら、嫌いになっちゃいそうだもん! そんなの――!」
 この頃になると、宙を彷徨っていた両腕も行き場を見つけたようだった。栞さんを抱き返す――いや、抱くと言うよりは背中に手を乗せただけ。そんな緩い反応に感化されてか、栞さんの腕からも力が抜け、顔も少しだけ肩からずり落ちる。
「そんなの……生きてた頃の事を思い返すのと同じくらい嫌だもん……」
「栞さん……」
 力無く言い終えると、栞さんの肩が痙攣するように震え出した。
「孝一くんの、馬鹿ぁ……ひぐっ、ひ、卑怯者ぉ……」
「……ごめんなさい」
 告白を受け入れられた理由が「嫌いになりたくないから」とは、なんとも可笑しな話だ。そして自分が好かれていると知った上で栞さんにそう思わせてしまった――いや、思わせた僕は、間違い無く馬鹿で卑怯者だろう。卑怯すぎて反吐が出る。
 でもそんな、馬鹿な上に卑怯者だと言われても。馬鹿な上に卑怯者だと自覚しても。
「そっ……そんなのだから、今まで彼女が一人もできなかったんだよぉ」
 後悔はしない。しよう筈もない。好きな人をこの腕の中に収め、それで後悔なんてしようものなら、馬鹿な上に卑怯者で更に愚か者だ。
 ――と、僕は開き直る。所詮は馬鹿な卑怯者だから。
「告白したのが、そもそも初めてですから」
「なんで、なんで栞にはしちゃったの……? そりゃあ、ひっく、こっちが先に言いかけちゃったんだけどさ、無かった事にしてって、頑張って言ったのに、それなのに……」
「人参の皮を素で剥かないものだと思ってたり、卵焼きを作ろうとしたらスクランブルエッグ作っちゃったり、魚捌こうとしたら魚を怖がったり、一人で料理しようと言ったら火災を心配されたり、豆腐に乗せた肉をブン投げて僕に命中させたり」
「な、何よぅ……」
「話し声に釣られてパジャマでベランダに出てきちゃったり、お喋りに夢中になって仕事の事を忘れてたり、酔っぱらって膝枕を強要してきたり、何の躊躇もなく夜に男性を部屋に連れ込んでみたり」
「むぅ……」
「そんな栞さんが自分でもどうしようもないくらいに好きだからです」
「……嬉しいような、嬉しくないような」
「そりゃあ今までも好きな女性の一人や二人はいましたが、ここまで、告白させられるほどまでに好きになったのは栞さんが初めてです。だから意地でも好きです。なんと言われようと好きです。なので、今ここで死ぬのなら躊躇無く押し倒します」
「最後にそんなの持ってくるなんて、だから孝一くんには喋らせたくないんだよぉ」
「じゃあ暫らく黙っておきます」
「うん。そうして」
 こちらのあまりの言い草に呆れてか、栞さんは途中からすっかり泣き止んでしまった。別に意図してそういうふうに言ったとかじゃなくて本当にそう思ってただけなんだけど――まあ、いいか。今はただこの状況に身を任せるだけでも、こんな呆れた男には勿体無いくらいに嬉しいし。
「幽霊の肌が冷たいっていうのは迷信だったんだなあ」と、お互いの衣服を通してじわじわと伝わってくる心地よい温かみに今更ながら実感が湧く。ここに引っ越してきてから半月ちょっとの間にいくらでも確認する機会はあっただろうに。
 そうして動きのないままじっと喜びを噛み締める事数十秒、肩の温かみがふと弱くなった。栞さんが顔を上げ、服に残った僅かな温度だけが僕の肩を温める。そしてその温もりも外気によって冷やされ、あっという間に消え失せてしまった。名残惜しさを感じた僕は、ついつい今の今まで暖かかった部分へと視線を移す。もちろん、そこには何もありはしない。
 一方肩から離れた栞さんは、両手で僕の胸を押すようにして体全体までも引き離す。こちらの両腕は栞さんの背中に添えられていただけなので、離れる体を引き止める事もなくするすると持ち場を離れてしまった。そしてついに触れている箇所が全くなくなると栞さんは伏せ目がちになりながら、
「ちょっとベランダに出てくるね。頭冷やしてくるよ」
 そう言って立ち上がり、くるりと体を反転させ、言葉通りにベランダへと通じる窓へ向かい始める。
「あ、えっと」
 対して僕は床に座ったまま、急な事に二の句を告げられないまま、遠ざかるその背中を目で追った。が、追うだけではどうにもならない。だからと言って立ち上がって再び触れようとする訳でもない。なぜなら、頭を冷やすという事は――
「一緒になって出てこないでね孝一くん。頭が冷やせないから」
 ――そういう事。そういう事なんだけど、頭を冷やしてどうすると言うのだろう?
 立て付けがいいのか殆ど音を立てる事なく窓を開け、そして自身が外へと出ると、同じように静かに窓を閉める。もちろん栞さんが。そして後ろから見ているのでよくは分からないが、ベランダの手擦りに両肘を掛けるような格好になってただ静かに夜空を見上げる。もしかしたら月が出ているのかもしれないが、それはわざわざ窓に近付いて確認するほどの事でもないので気にしないでおく。
 さて、動きがなくなったところでよく考えよう。栞さんは、頭を冷やしてどうする? 冷静になって今更何を考える? 想像したくはないけど、答えが一つしか浮かばないので強制的に想像する事になる。
 ああ、代わりの答えでお茶を濁す事すらできないとは。
 で、そのたった一つの答えというのはもちろん今まで言い争ってきた事について。はっきり言うなら、その言い争いの結果自分が出した答えについて。もっとはっきり言うなら、僕に抱き付いた事について。それについて冷静に考えるって事は、まあまずその事を間違いだとするんだろう。頭を冷やすなんて台詞は、それまでの自分或いはその台詞を投げかけられた者が間違っている場合に使われるものなのだから。
 じゃあ僕に抱き付いたのが間違いだとするのなら、それからどうなる? どういう展開になる? 考えるまでもないだろう。やっぱり僕は振られる。
 ……でも、ここまできてあら残念とあっさり認めるなら最初から諦めてるわけでして、諦めないのならば栞さんが戻ってくるまでに論理武装をしておかないといけない。今度も同じ結果に辿り着かせるために。
 栞さんがのんびりと夜空だか月だかを眺めている間に、こっちは脳味噌フル回転。電気信号でシナプスが燃え尽きてしまわんばかりにあれこれどれそれと思考を巡らせる。そりゃもちろん栞さんだって何かしらは考えてらっしゃるんでしょうけど、話術のプロであるかテレパシー能力装備でもしない限りはそんなの関係ありゃしません。どうせ分かりゃしないんですから。なので、あちらからの話に対する答えを考えるよりはこちらから話す事を考えましょう。別にこの件に関する話であればなんでもいい。要は自分が話し続けて相手を圧倒すればいいのだから、こちらに有利な話である必要は全くない。栞さんの反応次第で、後からいくらでも話は広げられる。
 攻撃は最大の防御也! 点数ゲームじゃないんだから守ったところでいい事なんぞありゃしない! と思う!

<<前 

次>>