暫らくすると窓が開き、栞さんが部屋に入ってくる。それと同時に風――と言うよりは、空気の流れか。ひんやりとしたそれが部屋に侵入して体に触れ、気を引き締めるのに一役買う。無論、相手はその空気の中にずっといたわけですが。
「お待たせしました」
「はい。ではこちらにお掛けください」
「あはは、ここ栞の部屋なんだけどなぁ」
 そんな取るに足らない小さなやり取りもありつつ、再びテーブルを挟んで向かい合う僕と栞さん。しかしここで一服していてはいけない。あちらから話し掛けられる前に、こちらから話し掛けなければならないのだから!
「あの、栞さん」
「降参だよ」
「…………………………………は?」
 まず第一に思ったのは、「こちらの話を無視して上から押し付けてくるとは、なんという先制攻撃潰しか! これは作戦崩壊の危機!」という事。次に思ったのは、「は?」という事。自分が話す事しか考えてなかったのもあって一つ目のほうだけでも混乱しそうなのに、なんですかその二つ目は。
「どれだけじっくり考えても孝一くんに諦めさせる方法が思いつかなかったから。だからもう、降参。栞の負け」
 肩肘張って勝負に臨もうとした僕に比べて、栞さんのなんとリラックスした表情であろうか。今の僕から見れば「ふにゃり」という効果音がつけられてもなんら違和感を感じないであろうその気の抜けっぷりに、勢い余って前につんのめりそうになる。
「えっと、それはつまり……」
 分かるような、分からないような。いや本当は分かってるんだけど、それがはっきりと脳内で文章に変換されるのがなんとなくためらわれるような。
 でも、僕がそうしたところで栞さんは続ける。これまでにないくらい、背筋がぞくりとしそうなくらい、とびっきりの笑顔で。
「大好きだよ、孝一くん」
 その笑顔に見惚れ、言葉に聞き惚れ、僕の思考はパンクする。ただ好きな人に好きだよと言われただけなのに。それだったらさっきだって、怒鳴りながら何度も言ってたのに。それなのに、今回の「好き」は頭脳への影響が大き過ぎる。
「…………あが…………」
「あが?」
「あ、あぁあぁいえいえ。びっくりし過ぎて顎が外れかけただけです。大丈夫大丈夫」
 ついつい奇声を発してしまい、それでもなんとか正常に戻った頭脳を駆使して取り繕う。が、そんな努力も空しく栞さんはくすくすと笑い出してしまった。
「びっくりした時に外れるのって、顎じゃなくて腰じゃない? 驚いた拍子に腰を抜かすとか言うでしょ?」
 それはどうでしょう。
「それに、どうして今更びっくりするの? 好きだ好きだって何回も言ってたよね、お互いに」
「それは僕も思いました。けどなんか、その時とは違って衝撃的だったと言うか……」
「言葉が違うだけで、それってびっくりしたって事だよね」
 どうやら僕の頭脳は立て直したところで元々のスペックが低いらしく、恥ずかしい失敗を犯した僕はまた栞さんに笑われてしまった。
「あ、あはは、そうですね。いやーいい言葉が思いつかなくて。あははは」
 その照れ隠しにこちらも合わせて笑うと、
「ふふ。やっぱり駄目だ、孝一くんには敵わないよ」
 自分の笑う口を手で覆いつつ、そしてそれでも尚笑いつつ、楽しげに言う。
 そして更に話は続き、
「ベランダから戻ってくる時にね、本当に何も思いつかなかったけどなんとかなるだろうって思ってたの。最初は。でも――ほら、座る前に栞、ちょっとだけ笑っちゃったでしょ? あの時に『ああ、もう無理だ』って思っちゃったの。だってどうやったって自分が死んじゃった話に繋がるのにさ、その前に笑っちゃったら台無しでしょ? 自分が――死んだ事をなんとも思ってないみたいでしょ? 本当は、本当は凄く辛い記憶の筈なのに。実際に辛く思ってきた筈なのに……」
 話始めは笑っていたのに、そう言いながらだんだんと曇っていく表情。そんな栞さんを見てこちらの笑いもなりを潜め、顔の筋肉がどんどん別の表情を作っていくのがよく分かる。
 なんとかしてあげたいとは、思う。だけど、なんともできないとも、思う。それは自分で事前に言っていた事。じゃあどうする? 自分が何もできないのなら。
「もういいです、栞さん。分かりましたからその話はもう……」
 自分が何もできないのなら、相手に働きかけるしかない。
「……ごめんね、こうなったらもう止められないよ。話すのを止めても、頭が勝手にあの時の事を思い出しちゃうから」
 でもそれも、効果無し。
「どうにかするって言ってくれたけど、孝一くんは頑張らなくてもいいよ。もともと、自分一人の問題なんだから。本当は、誰にも言わない筈だったんだから……」
 栞さんがベランダに出ている間に考えた話題の一つ。
『もうこうなってから随分経つし、分からない事とか困った事はみんなが助けてくれたから。だから誰かに相談するような事はもう殆どないと思う』
 霧原さんと深道さんがここへ来て、僕の部屋で家守さんに相談を持ちかけていた時。その時外に出ていた僕に、同じく外に出ていた栞さんがそう言った。だから僕は、この時の事を持ち出してこう言おうと思った。「今のこの件は誰にも言わないつもりだったんですか?」と。……答えは、聞く前に出てしまった。その通りだったのだ。
 そもそもが自分の死についての話なのだから、他人にベラベラと言いふらすような話でない事は分かる。死んだ経験のない僕ですら、栞さんの言い分は理解できる。
 でも。
「嫌です」
 テーブルをすり抜けられない僕は、わざわざ反対側へ歩いて回った。そして栞さんが僕にそうしたようにきつく抱きしめ、そう言った。
「……やっぱりわからずやなんだね、孝一くんは」
 しかし栞さんは抵抗するでもなく抱き返してくるでもなく、両腕をだらんと垂らしたままで悪態をつく。片膝を床についていた僕は、そのままゆっくり後ろに尻餅をつくようにして座り込んだ。すると必然的に、栞さんを抱き寄せる形になる。
「わからずやは栞さんです。どうにかするって言ったらどうにかするんです。どうにもできなくてもどうにかするんです。栞さんに嫌がられたってどうにかするんです」
「また矛盾してる。だから、どうにもできないんなら無理してくれなくてもいいんだって」
 今回は、栞さんはまだ泣いていない。ならまだ間に合う。このまま泣かせなければそれでいい。内面的にはもう泣いているのも同然なのかもしれないけど、少なくとも泣き顔だけは勘弁して欲しい。
「好きな人のためにする無理なら本望です。望んでやってるんです。邪魔しないでください」
「な――あはは、何それ。助ける相手に向かって邪魔するなって……本当、孝一くんがこんなに変な人だなんて今まで全然思わなかったよ」
「自分でもびっくりですよ。でも、じゃあどうしますか? 部屋に不審者が侵入したって大声出しますか? 壁はそんなに厚くないでしょうから大吾辺りはすぐに来てくれると思いますよ?」
「どうしよっかなー。ちょっと待って、考えるから」
 どうやら泣くのは防げたようだけど、悪ノリが過ぎたのか話がおかしな方向へ。その展開に驚いて顔を離すと、目の前には栞さんらしからぬ悪戯っぽい笑顔が。
「……え? ちょっとちょっと、冗談ですよ? 本気で大声出すつもりですか?」
 そういう顔と役回りは家守さんの専売特許じゃないんですか? しかし栞さん、まるで無視。家守さんチックな表情をやめてくれない。
「うーん、よし決めた」
 そう言うと、それまで重力に任せっ放しで床につけられていた両の手で僕の両の肩を緩く掴み、自分の体を少し持ち上げ、そして――

「――大好きだよ。不審者さん」
「――に、二回目ですよねそれ言うの」
 重なった唇が離れると、栞さんの表情はもう元に戻っていた。手も、肩から降ろされて脇を通り、背中に回される。
「初めてだよぉ。だってあの時はまだ不審者じゃなかったもん」
 そりゃないでしょう、と思いながら考える。もっと根源的な事を。
 その台詞、後で絶対恥ずかしくなりますよ? 勢いと流れに任せて思った事ぽんぽん言っちゃうのは――まあ、いっか。
 するとここで、時間差で唇に残った感触がむずむずと疼きだし、口を手で押さえるか舌で唇を舐めるかしてしまいそうになる。が、格好が非常に悪そうな気がしたので抑えに抑えて耐えに耐えて栞さんとの会話に専念。
「どっちも僕じゃないですか」
「嫌?」
「いえいえ、もちろんそんな事はないですよ?」
「良かったぁ」
 今はそうして嬉しそうにしてますけど、後で「あれはやっぱり無かった事にして」って言われても聞いてあげませんからね。花見の一件と同じく。
 しかし今現在喜んでいる栞さんは、そんな事お構いなし。
「本当になんとかしてくれちゃった。ありがとう、孝一くん」
「……そうですか。なんとかできましたか。それは良かった」
「でも毎回毎回この方法だと疲れちゃうね。言い合いしなきゃ駄目なんだもん」
「改善の余地あり、ですか」
「それにさっきも言ったけど、毎回口喧嘩してたら嫌いになっちゃうよ。孝一くんの事」
「そりゃまあそうでしょうね。どうしましょうかねえ……」
 やっとの事で確立できた「なんとかする」方法は、結局あまり役に立たないものだったと判明。いやまあ前から分かってはいましたが。で、それじゃあどうしましょうかという事になる。が、当然そんなにすぐには思いつかない。それゆえに、長考に入ろうとする。
「……ふふっ」
 しかしもそもそと動いてこちらの胸板に横顔を押し付けて小さく笑う栞さんに、大した時間も取れないまま長考はストップさせられてしまった。
「どうしました?」
「なんでもないよ。……だから、もうちょっとだけこうしてたいな。いい?」
「お好きなだけどうぞ。僕も同感ですから」
 栞さんの背中に回していた手を片方だけ持ち上げて、栞さんの頭に当てる。ほんのちょっとだけ自分の胸に押し付けるようにして。
 ――ああ、駄目だ。結局ろくに考え事なんてできやしない。何か考えるのが勿体無い。今はただ頭脳を含めた体の全神経を使って、ぼーっとしていたい。好きな人の体を自分の腕の中に収めて、好きな人の体温を触れている箇所の全てで感じながら、全身全霊を以って腑抜けていたい。幽霊の肌に温かみがあって、良かった――


 どのくらいそうしていただろうか。服を通してですら、その温かさに触れている箇所にうっすらと汗をかいているような感触が現れ始めた頃、栞さんが顔を上げた。
「ありがとう。もういいよ孝一くん。もう充分落ち着いたし、充分堪能できたし」
「そうですか? ちょっと名残惜しいですけど……ずっとこうしてるわけにもいきませんもんね。僕も堪能させてもらいました」
 男から言うと別の意味も含まれてそうな気がしないでもないけど、とにかくこちらも充分堪能させていただいたので素直に言葉に応じ、背中と頭に回していた手を離す。
 僕から解放された栞さんが体を離し、再び座って向かい合う。ただし、今度はテーブルを間に挟まずに。
「全然予想とは違う展開だったけど、今日孝一くんに来てもらって良かったよ」
「僕は予想通りでしたけどね。……いや、予想じゃないかな。作戦通り?」
「その作戦には完敗だったよ。負けたほうが良かったっていうのが余計にしてやられた感じだし、悔しいなあ」
 二人して軽口を言い合いながら、二人してくすくすと笑い合う。
「あのさ、孝一くん」
「はい?」
 その笑いによって生まれた柔らかい雰囲気を纏ったまま、栞さんが改まって話し出す。
「今なら大丈夫だと思うから――もうちょっと昔話、してもいい? 話せる時に話しておきたくて」
「え。大丈夫なら……まあ、いいんですけど……」
 こちらが纏っていた柔らかい雰囲気は、一瞬にして霧散する。
 そりゃそうだ。やっとの事で落ち着いてもらえたと言うのに、また泣かれでもしたらまた言い合いをしなければならなくなる。――ああ、我ながら本当に間抜けな方法を思いついたもんだ。他に方法があるのなら、そっちを先に思いつけば良かったのに。
 それでも栞さんは余程自分のコンディションに自信があるのか一切ためらう事無く姿勢を正し、話をする姿勢に。合わせてこちらも話を聞く姿勢に。それはつまり正座。
 そして栞さんが一つ小さな咳払いをすると、昔話が始まる。
「栞が死んじゃってからね、うーん、どれくらいだったかなあ。そんなに長くは無かったよ。二日か三日くらいかな? その間、これからどうしようかなって病院の中をうろうろしてたの。外に出ようとは思ってたんだけど、行きたい所が多過ぎて――ううん、どこに行きたいのかが分からなくて、なかなか外に出る気になれなかったんだよね。試しにちょっとだけ外に出ても、すぐに足が病院に向いちゃって。勝手に」
 そこまで言うと、栞さんは笑う。
「自分でもよく分からないけど、恐かったのかもね。あんまり急に自由になっちゃって」
 そう、自嘲気味に。
 入院どころか病院にお世話になったこと自体が殆どない僕にとって、何年も……小学三年生の頃から十七歳までだから、九年? それだけもの間病院から出られなかったなんて、とても想像の及ぶ範囲の出来事じゃない。そして及ばないからこそ余計に、その時の不安や恐れが大きく感じられた。
 だけど、いくら大きく感じたところでそれは実体のない妄想でしかない。大きかろうが小さかろうが、実態のある本物の不安や恐れのほうが強いのは当然だ。その事は、今僕がこの部屋から外に出る事を恐れていない事が証明している。
 ……所詮は妄想で作り上げられた薄っぺらい感情。実際の経験による本物の感情に比べれば、なんとちっぽけな事か。
 だから僕は、栞さんの話に頷けない。ただ黙る事によって先を促し、話を聞くだけだ。
「そしたらね、受付のロビーで楓さんに見つかって話し掛けられたの。他のお客さん達が誰に話し掛けてるんだろうってじろじろ見てるのに、全然気にせずに『こんにちは。こんなとこで何やってんの?』って鼻ズルズル言わせながら。後から聞いたらね、風邪引いてたまたま病院に来てたんだって」
 思わず足に掛けた手が滑り、体勢を崩してしまう。ちょっと恥ずかしい。
「え、本当にただ風邪引いてただけなんですか? 困ってる幽霊の存在をキャッチして助けに来たとかそういう霊能者っぽい理由じゃなくて?」
「うん。そう言ってたよ」
 なんとまあ。そりゃあ僕の勝手な霊能者のイメージを押し付けるのも変ですが、それにしたって行き当たりばったりと言うか締まりがない展開と言うか。
「孝一くん、聞いた事ない? 人によってはその………幽霊レーダー? そんな感じの事もできるみたいなんだけど、楓さんはそれができないんだって。『他は万能だから大丈夫!』って本人は言ってたけどね。実際その通りだと思うし」
「へぇ、始めて聞きましたよ」
 初めて聞きましたけど、なるほど。そういうのって人によるものなのか。そりゃあ猫を人にしたり、動物をそのままの姿で喋れるようにしてみたりな人だからなあ。欠点の一つや二つはあるものなのか。……いや、欠点って言うのも変か。普通ならそんな特殊な力は一切無いものなんだし。
「それで、どうなったんですか?」
 あまりこちらの話に持っていくのもどうかと思うので、切りのいい所で話題を修正。なんせこの話をしている間、栞さんはいつ爆発するか分からないような爆弾を抱えているようなものなのだから。加えてその爆弾が除去できないとなると、これほど厄介なものはない。なので、できるだけ速やかに話を進めてもらう。
「うん、それでね、楓さんに事情を話したの。それで『これからどうしたらいいか分からない』って言ったら、『じゃあうちに来ない?』って言われて、それがこのあまくに荘だったの」
 そこまで普通に話していた栞さんだったけど、ここで「うーん」と一唸りした後、ちょっとだけ表情に陰が差す。それを見たこっちはもうヒヤヒヤで。
 しかしその陰もすぐに消え去って、表情は元通り。
「あはは、本当はこんなにあっさりしてなかったんだけどね。初めて会った人から急にそんな事言われても、やっぱり困っちゃって。それに自分が死んじゃった事でちょっと――ううん、かなり卑屈になっちゃっててね、口も相当悪かったと思う。不信感のあらわな、とかそんな感じ。でも楓さん、それでも何度も栞を誘ってくれて……ああ、言い合いしてた時の孝一くんみたいな感じかな? それで、その時もやっぱり根負けしたの。あはは、弱っちいね。それでここに住ませて貰う事になったんだけど、独り暮らしなんてそれこそ未知の領域だったよ〜。まあ幽霊だから何もしなくたってあんまり困る事はないんだけどさ、やっぱり途方に暮れちゃって。服だって患者用のやつそのままだったし……それで楓さんが服を買ってきてくれたんだけど、本当に上も下も楓さんそのまんまの服でさ、あれはちょっと恥ずかしかったなぁ」
 つまりは上も下も、特に下は極端に短い――見てみたい。気もする。
「お仕事としてお掃除を任されたり、一緒にご飯食べたり、お買い物について行ったり……楽しかったけど、楽しかったから、さっきみたいに死んじゃった時の事を考えたりしちゃった事が何回かあるんだよね。――あ、大丈夫、今は大丈夫だよ。それでその度に部屋に閉じ篭って、楓さんを心配させてた事もあるの。でも二人目の……清さんがここに住むようになる頃には、楓さんがよくしてくれた事もあって――なんて言うかその、馴染めたの。ここでの生活に。だからもう大丈夫だと思ってたんだけどね」
 そこで、一呼吸。
「孝一くんに告白しようとして、大吾くんに止められちゃったでしょ? 後でその事ばっかり考えてたらまた出てきちゃったの。もう何年かぶりでそんな事すっかり忘れてたから、余計に恐くて」
 依然落ち着いた様子で栞さんは言う。
 そこまで話してこの様子なら本当に心配ないのかもしれない。そう思うと、抑えがちだった口が軽くなる。
「もしあそこで大吾が戻ってこなかったらどうなってたんでしょうね?」
「あはは、その場で孝一くんと言い合いする羽目になってたと思うよ」
 栞さんは両手の指を広げ、同じ指同士でくいくいと押し合わせる。
「あぁ、やっぱりそうなりますか。あはは」
 僕は気持ち腰を丸める。
 そしてその表情は、お互いに苦笑い。そりゃあね。あの場で、あの桜の下で、あのビニールシートの上で言い合いなんかしてたら、それこそ全員の耳に入っちゃうかもしれなかったんですし。
 でもそれを考えたら、結果的に大吾の乱入はあって良かったって事になるんだよなあ。飽くまでも「結果的に」だけど。本人に邪魔をしたっていう自覚がないってのがどーも素直に良かったと思わせてくれないと言うか。
 するとここで、栞さんがベランダに出ていた時に考えた「話題」を一つ思い出す。まあ思い出すと言っても今栞さんがしていた話そのままの事なんだけど。
 以下、その「話題」。
 栞さんは病院にずっと縛り付けられていたんだから、ここに住む事になった時はさぞ嬉しかったんだろう。ではその嬉しさによっても、もしかしたら死んだ時の事を考えてしまうではないだろうか? しかし今まで、普通に生活している分にはそういった事は見受けられなかった。という事は、考えなかったか慣れたか。前にここに住み始めたのが確か四年前って言ってたから、それだけ時間があるなら慣れてしまっても仕方ない。もし、この考えが正しいのであれば。
 ――そしてそれが正しいのは、今栞さんが自分から言ってくれた。なので、ここまでを全て省略し、最初から一気に核心へ。
「栞さん。ここでの生活に馴染んで落ち込む事が無くなったって言うのなら、僕との――まあ、それも、長く続ければそのうち馴染んで、落ち込む事も無くなるんじゃないですか?」
「昨日そんな事を考えたよ、栞も。そうかもしれないね」
 あっさり。苦笑していた顔を素に戻し、いじいじとしていた手を下ろし、まさにあっさりと言い放たれてしまった。
 ……あれ? 結構重要な質問だと思ったんですけど。
 しかし栞さん、そのままあっさりと口を動かし続ける。
「そうかもしれないけど、じゃあ馴染むまでずっと堪えててくれるのかなって。事ある毎に凄い勢いで落ち込んじゃったりするのなんてやっぱり嫌でしょ? それに、栞自身も嫌だったからね。そんな事を押し付けるのは」
「でも僕は」
 言いかけたその時、栞さんがわざとらしいくらいに大きく頷いた。
「うん。分かってるよ」
 果たしてそのわざとらしさが意図されたものであったのかどうかは分からないけど、それを見て僕の口は急停止。
「この部屋に来てもらってからもうずっと聞いてるもんね。こっちから押し付けるどころか、孝一くんは自分で持っていこうとしちゃうんだもん。本当だったら喜んで持っていってもらってからお礼を言うべきだったんだろうけど、そんなふうにされちゃうと逆に渡したくなくなっちゃった。ごめんね、栞が天邪鬼なせいで話がややこしくなっちゃって」
 最後にそう謝りながら笑みを浮かべ、そしてそこからは、こちらを黙って見詰めてくる。笑っているように口の端を持ち上げ、まどろんでいるように目をとろんとさせ、困ったように少し首を傾げながら。ちょっと自意識過剰な言い方をするなら、僕に見惚れながら。
 ……いやあの、そんなふうに見詰められてしまうと、目を逸らさざるを得ないと言うか照れると言うか。された側とは言えキスまでしておいて何を今更な感じですが、やっぱり……。
 まあ、それはそれとして。
 自分が悪いっぽい締め括り方をしてはいますが、要するに栞さんは僕に気を遣ってくれたって事ですよね? その天邪鬼云々の話って。だったら僕はなんとも言いませんし、なんとも思いません。むしろ気を遣ってくれてありがとうですよ本当に。
 ――なんて事を下を向いたまま考えているというのはちょっと情けない。ので、恥ずかしいのは承知の上で顔を上げ、ついさっきは一瞬見ただけで視線を逸らしてしまった表情と再び向き合う。
「こちらこそすいませんでした。結局無理矢理持っていっちゃいまして」
 すると栞さんはその正視が厳しい表情から、口を「あ」の形に開き、目は軽く閉じ、首はまっすぐにし、普段通りの笑顔へ。
「あはは、孝一くん謝っちゃうんだ。でもどうせ返す気なんて無いんでしょ?」
 ……これはつまり……そうですか。ネタを振られたからには乗らないといけませんねえ。別に僕はお笑い芸人とかじゃないですけど。
「そりゃもちろんです。絶対誰にも渡しません。たとえそれが栞さんだったとしても」
「だったら謝るのって変じゃない? 反省してないって事でしょ?」
「む。なるほど確かにそうですね。じゃあさっきのは訂正します。おほん。『そうです栞さんが悪いんです。最初からさっさと渡してくれりゃあ良かっ』」
「怒るよ?」
「ごめんなさい」
 ここまで予定通りの流れ。なので怒ると言ったほうは笑ったままだし、ごめんなさいと頭を下げたほうも笑ったまま。
「でも、本当にありがとう。受け取ってくれて。無理矢理持っていってくれて」
 おや、予定外の流れ。
「どういたしまして。強盗してお礼を言われるならいくらでもやりますよ」
「当たり前だけど、他の物は持っていっちゃ駄目だからね?」
「肝に銘じておきます」
 なんとなーく、流れと言うか雰囲気と言うか空気と言うか。それらの内のどれかは知らないけど、もしかしたらどれでも一緒かもしれないし一緒じゃなくてもそれら全部がなのかもしれないけど、そんなのがある一点に向けて進んでいるような。
「じゃあ、今日はありがとう。――本当は『ごめんね』って謝ってお別れするつもりだったんだけど、普通にお礼になっちゃったよ。あはは」
 と言うか、さっきもお礼言われたばっかりなんですけどね。まあ「ありがとう」の中身が若干違うから間違ってるって程の事でもないんでしょうけど。
「それは良かったですよ。謝られるよりはお礼言われたほうが気分いいですから」
 僕か栞さんのどちらかが急にそういう方向に持っていった訳でもなく、ただただ自然な成り行きでそろそろお別れの時間という事に。
 という事で、長い間続いた話し合いもこれにてお開き。
「それじゃあ、そろそろ失礼します」
 立ち上がって玄関へ向かい始めると、栞さんも後から立ち上がって後ろをついて来る。見送りをしてくれるという事なのだろう。しかし、部屋の構造上それも長くはない。居間を出ればそこは廊下ではあるが、その狭さ故に殆ど玄関に着いたも同然だからだ。部屋の出入り口から玄関まで、歩幅にして三歩。意識して大股且つ最短距離を通れば一・五歩と言ったところだけど、だからなんなんだと。
 言ってる間にさっさと玄関に到着し、靴を履き、あとはドアを開けて外に出るだけ。でもその前に、真後ろをちょっとだけ振り返る。そこにはもちろん、栞さんが佇んでいて。
「じゃあね、孝一くん。お休みなさい」
 時間も時間――そろそろ十一時になろうかという頃だったので、「また明日」ではなく「お休みなさい」。だからと言って帰ればすぐに寝る訳ではなく、風呂に入るなり明日の準備をするなりやる事は結構あったりするんだけど……でもその前に。
「栞さん」
「ん? あ、何か忘れ物とか?」
「いえ、そうじゃなくて…………最後に、キスしていいですか」
 語尾にクエスチョンマークを付けない発音で、そう尋ねてみる。すると栞さんは一瞬だけ驚いた表情をしたが、それは本当に一瞬だけ。目の錯覚だったんじゃないかと思うくらいほんの僅かの間だけ驚くと、まっすぐこちらに向けていた体を横に向け、顔も横に向けたまま、「んー」とちょっとだけ考えるような仕草をする。そして横目をちらりとこちらに向け、
「したい?」
 一言。
 いじわるですねえ。
「したくなかったら言いません。まあ無理にとは言いませんが」
「さっきしたのだけじゃ満足できない?」
「あれは残念ながら奪われた側に回ってしまいましたからねえ。一応ファーストキスだったんで、悔しいと言うかなんと言うか」
「栞だってあれが初めてだったんだよ? まあ当たり前だけどさ。だってずっと病院に」
 言い切る前に、手を伸ばす。何度も言うといい加減家守さんに怒られそうだけど、ここは狭い。それが玄関口なんていう元々そんなに広くないスペースであるなら尚更だ。なので、体を動かさずに手だけ伸ばしても栞さんには充分届く。そして伸ばした手を栞さんの肩に掛け、こちらへと引き寄せる。
 それは優しく抱き寄せるなんて速度ではなかったので、急に引き寄せられた栞さんは足元をふらつかせながら、倒れ込むようにしてこちらの腕の中に収まった。
「あっ、危な――んっ」
 そしてその最中、転びそうになった栞さんは声を上げる。しかしその台詞も、先程と同じように途中で遮られた。

「――こんな感じなら、こっちから奪ったって事になりますかね?」
「――経験ない割には大胆だね。本当に今日が初めてだったの?」
「いやあ、初めて奪ってくれちゃった人が随分大胆だったもんで。二番手に回りっぱなしだった僕なんてとてもとても」
「あー、やっぱりあれはちょっと急過ぎた? えへへ、自分でもどうかなーってちょっと思ってた」
 ……とか言って、本当は心臓爆発しそうなんですけどね。孝治さんに成り済ましてたのがいい経験過ぎたのか、演技が随分上手くなっちゃいましたよ。
 そうして見せ掛けだけ大胆な僕と本当に大胆な栞さんは、すいと体を離す。大胆であるが故に、引き際はあっさりと。事の最中だけ格好つけといて後をずるずる引っ張ってるんじゃあ締まりが悪いですからね。大胆ってのはこういうものなんだろう。例えるなら――パッと輝いてパッと散る、花火みたいな。うん、多分これだ。栞さんもあっけらかんとしてるし。
「それじゃあ、お休みなさい」
「お休みなさい、孝一くん」
 今度こその別れの挨拶を交わし、栞さんに背を向け、ドアを開いて外に出て、ドアを閉める。そこから隣室のドアまで歩いて進み、そのドアを開け、部屋の中に入り、ドアを閉める。鍵を掛け、靴を脱ぎ、居間に入り、部屋の明かりをつけ、そのままその場にへたれ込む。
「ううぅあぁあ……ほ、本当に? 夢じゃないよね?」
 自分以外誰もいない居間で、そう低く不気味に呟いた。もちろん誰も返事は返さない。
 ……頬をつねって確認するまでもなく、口に残ったキスの味と感触が、栞さんの部屋に上がらせてもらってからの一連の流れが現実であると教えてくれた。
 頭の中がその事でいっぱいなのかはたまた逆に空っぽなのかすら分からないくらいに意識がすっ飛んだまま、今日やるべき事を済ませる。風呂に入って、歯を磨いて、明日の大学の準備をして、布団を敷いて、カーテンを閉めて、電気を消して。
 ――済ませると言うか、これら全て、気が付いたら済んでいた。布団に潜ってから自分が本当に風呂に入ったかどうか、頭の湿り具合を手で触って確かめたぐらいだ。ついでに舌先で歯を弄り、そのツルツル具合も確認。風呂も歯磨きもちゃんと済ませた事を確認し、後はさっさと眠りに入ろうと目を閉じる。
 が。
「眠れる気がしない……」
 目を閉じてから一分もしないうちに、現在の自分のコンディションをそう結論付ける。それでも尚眠ろうと努力はするものの、脳の回転が止まってくれない。部屋が暗い事と目蓋を閉じている事が相まって目の前はまさしく真っ暗闇。そうなると却って落ち着くのか、さっきまで自分が何をしていたかすら把握できていなかった脳が順調に暴走を始めてしまうのでした。
 部屋にそこまでたくさん物があるわけではなく、更には独り暮らしなのに部屋の中央ではなく壁際に、しかもその壁に沿って布団を敷いたりするから、ちょっと横を向けばそこはすぐにそれが目に入る。そしてその向こうは、栞さんの部屋。
「壁をすり抜けてこっちに来る、なんて事は……ないか。いくらなんでも」
 今から考えれば別れ際のキスはもちろんの事、それ以前によくあんなに好きです好きです連呼できたなあ。自分から抱き付いたりもしたし。もし今、壁から栞さんが出てきたとしても、もう同じようにはできないだろうなあ。きっと。

 そうして栞さんの事をあれこれと考え、眠ってしまうまでに確認できた最終の時刻は、それから軽く一時間は経過した頃でした。まさかそんなに時間が経っていたとは思わず、浮かれてるなあと自分自身を冷静に分析してみたり。でもだからと言って浮かれているのが収まるわけでもなく、しかしそろそろ眠たくなってきたので、布団の暖かさに身を任せる。
 お休みなさい、栞さん。明日からも変わらず――いや、ちょっとだけ変わった形で、日向孝一をよろしくお願いします。

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