第一章
桜並木と再開と



 ……正直寝不足な感じは否めませんが、おはようございます。204号室住人、日向孝一です。眠いです。 とんでもなく忙しかった月曜日を経て、本日は火曜日。今日から大学の講義が始まります。で、僕が作成した時間割の火曜日分ですが――ラッキーなことに、昨日に引き続いて今日も午前だけです。ちなみに月曜日は朝から午後まで。講義開始が今日からで良かった。
 と言っても、大学の時間は一時間が九十分。つまり、例えば一限と三限に講義があって二限が抜けているとすればその二限の九十分は丸々休憩時間になるわけで、大学から家までが徒歩五分だと余裕で帰って来てしかも充分くつろげるわけなのです。で、月曜日はそんな感じで講義に穴があるわけです。最高です。
 では……本日の講義とは無関係な事柄にぬか喜びした辺りで、行ってきます。眠いけど。

「そういえば椛さんと孝治さんはもう帰っちゃったのかな」なんて思いながら外に出ようとすると、伸ばした右手がドアノブを掴む直前でチャイムが鳴りました。
「はあぁい」
 ので、そのままドアを開きます。が、その際、寝不足が祟ってか意図しないところで若干不機嫌そうな声になってしまいました。
「うわ、早――ってああ、ちょうど行くところだったの? ギリギリセーフだね、あはは」
 チャイムを鳴らした途端にドアが開いたことに驚き、次に僕の左手に携えられたカバンを見てそう笑うのは、何を隠そう寝不足の遠因――いや、もういっそ原因である栞さんその人。その人がその人であると確認すると同時に「あ!」と声を上げてしまい、そしていろいろと凄まじき記憶が脳内を駆け巡り、だもんで眠気なんてものは吹き飛んでしまいます。
「おっ、おはようございます栞さん」
「おはよう、孝一くん」
「えーっと、えっと、どうしました? こんな朝早くから」
 ちなみに今は八時四十分頃。そんなに早くもなかったり。一限が九時からで登校所要時間が五分なので、これでも結構余裕を持っているつもりです。なので朝の時間は結構ゆっくり取れるんですど、それでもついさっきまで睡眠不足を感じていたってことは……相当遅かったんだろうな、寝るの。
 すると栞さん、「んー」とちょっとだけ言いにくそうに困った顔をしつつ、
「ついて行かせてもらっていいかな。大学」
 予想外なことを言ってきました。
「は?」
「あ! ご、ごめん、無理だったらいいの。そうだよね邪魔だよねやっぱり」
 栞さんがここにいること自体が予想外なので、正直何を言われても予想外ではありました。が、それにしたって今の反応はちょっとどうなんでしょう。栞さんから見たら多分、今のは「あんたは何を言ってるんだ?」というように映ったんではないでしょうか? 驚いたとは言っても、もうちょっと堪えようよ僕。
 ということで、外に出てドアを閉め、鍵を掛けつつ弁明です。
「い、いえ、今のはそういうことじゃなくて……えっと、いいですよ。来てもらっても全然大丈夫です。というか是非一緒に来てください」
 むしろ栞さんが暇になっちゃうんじゃないかとも思いましたが、せっかくのご厚意に水を差すのもなんなので言わずにおきました。そして断られたと思ってかやや沈んでいた栞さんの表情は、ぱっと明るくなります。
「い、いいの? ありがとう」
 全然大丈夫と言っておいて、それでもふと、本当に大丈夫なのだろうかと不安が脳裏をよぎります。――でも、大丈夫だよね?
「じゃあ……」
 いい加減極まりない安全宣言を出すと、栞さんがそう言って少し言葉を詰まらせました。そして本の少し間を置くと、恥ずかしそうに右手を差し出そうとして――こちらの手を見て一旦停止。つまりは手を繋ごうということなんでしょうけど、右手に対応するのはもちろん左手。そして、僕の左手はカバンに塞がれています。右手に持っていた部屋の鍵は既にポケットの中なので、フリーなのはこっちも同じく右手。
「あ、こ、こっちだね」
 握手ならいざ知らず、手を繋ぐとなると右手同士じゃあかなり無理があるのでさっと手を入れ替え、今度は左手を差し出してくる栞さん。
 だけどなんとも間の悪いことに、それと同時に僕もカバンを持つ手を入れ替えていました。
 無論、元が逆の逆同士なのならまたしても結果は逆なわけで。
「…………」
「…………」
 ならば栞さんがもう一度左右を変えるのを待とうと暫らくそのままにしてみますが、あちらも同じことを考えたようでただの睨めっこに。
 じゃあ仕方ない、こっちが手を変えよう。と考えてそう行動してみれば、
「………………」
「………………」
 案の定というかなんというか、二人揃って右手を差し出したのでした。
「えっと、栞が手を変えるから。いい?」
「了解しました」
 そうまでしてやっと僕の右手と栞さんの左手がこんにちは。
 冗談でわざとこっちも手を変えてみようかとも思ったけど、やられた側の立場に立って考えてみると相当なウザさだったので止めておきました。止めておいて、やっとのことで足並みならぬ手並みが揃ったので、少々のためらいを伴いながらその手を握ります。
 すかっ。
「……あれ」
 緊張の余り目測を誤ったか、僕の手は何も掴まずただの握り拳に。……いや、いくらなんでもそこまでくるともう視覚障害だ。実際位置は合ってるし。
 ということで、
「えっと、栞さん?」
 僕の手は、栞さんが差し出した手に埋まっていました。つまりは、壁や物をすり抜けるのと同じことをされたわけですね。
「ふふ、冗談冗談」
 冗談ですか。こっちは直前で控えたとは言え、変なところで意見が合っちゃいましたね。
 そうした冗談も済んだところで、朝っぱらからちょっとした苦難を乗り越え、ようやく繋がる栞さんの左手と僕の右手。
「じゃあ、行こ」
「はい」

 右手の温かくて柔らかい感触を最大限意識しつつ、あまくに荘の正門に差し掛かったあたりのこと。右手に加わる栞さんの握力がちょっとだけ強くなったような気がしたので、視線を正面から栞さんへと向けてみます。すると栞さんは二人の手が繋がっている部分を「なんとはなしに」といった表情で見下ろしていました。
「どうかしました?」
 呼びかけてみると、その顔が手からこちらへと向けられます。
「あ、ううん。……大したことじゃないんだけどね、孝一くんってそんなに体ガッチリって感じでもないでしょ? それでもやっぱり男の子の手なんだなあって。ちょっと硬い」
 まあ自慢じゃないですけど体についてはその通りです。良く言えば無駄な脂肪があんまりなく、悪く言えばヒョロヒョロです。
「そう言う栞さんは見た目通り女性の手ですよね。ちょっと柔らかめな感じですし」
 手の平の筋力なんて誰でも同じようなものだろうし、それほど脂肪とかも付いたりしなさそうなんだけど……筋肉の質自体が違う? それとも、骨の太さとか? 不思議なもんだなあ人体って。
「そう? よかった、あんまり自分と違わないなんて言われたらどうしようかと思ったよ」
 そんな手の肉付きくらいで大袈裟な、とも思ったけどそれ以前に、
「昨日の夜のことを考えたら何を今更って感じですけどね。普通はこうやって手を繋いだりしながら遊びに出掛けたりして、それからああなるんじゃないですか?」
 告白して抱き合ってキスしてだもんなあ。ああ、今思い返しても顔が熱い。
「あはは、それもそうだね。抱き締めたりしてたのに今更手の柔らかさだなんて――あっ」
 最初は笑った栞さんも、それきり顔を伏せて沈黙。
 ああ、そちらも顔が熱いんですかそうですか。
「――やっぱり、その場の勢いってのは怖いですねえ。あの時はなんとも……いや、そりゃ全くないってこともないんですけど、ここまで恥ずかしいとは思いませんでしたよ」
「そ、そうだねー。孝一くんなんか押し倒すとか言っちゃってたし」
「それは勘弁してください……」
 押し寄せる羞恥心に耐え切れず、カバンを持っているほうの手で顔を抑えました。もしかしたらあれは十八年の人生の中で最大の暴言だったかもしれなません。なんせ実行したら犯罪ですし。
「それよりもですね、ちょっと思ったんですけど」
「なに?」
 あんまり恥ずかしいもんだから、話を替えてしまうことにしました。
 そして何の話かと言えば、今こうして二人並んで歩いているその始まり。つまり部屋を出ようとしたら栞さんが訪ねてきたことについて。
「あまりにもばっちりなタイミングで僕の部屋のチャイム鳴らしてましたけど、僕が今日一限からだって知ってたんですか? 言ってはなかったと思うんですけど」
 時間割云々どころか大学の話自体、みんなに話した記憶が殆どありません。……まあ、まだまだ話すようなことなんて何も起こってないんですけどね。そこで出会った四人組のこと以外には。
「え? えっと――」
 しかし栞さん、僕が言ってることが理解できないとでも言うように、そして必死に理解しようとしているかのように、首を傾げたまま考え込んでしまいます。えーと、そんなに難しい質問でしたか?
 こちらも疑問に思って腕を組みそうになるものの、カバンを持った左腕はともかくもう片方の腕は完璧にロックされているので結局そのまま考えます。
 暫らく――十歩ほどそのまま二人で考え込んでいると、栞さんがこっちを向きました。ゆっくりゆっくり、恐る恐る、そして苦笑いで。
「ごめん孝一くん。大学って絶対に一時間目からってことじゃないの? 学生さんっぽい人が通り始める時間だから、そろそろかなって思って部屋に行ってみたんだけど」
 ああなるほど、了解しました。そりゃあ知らなくても仕方が……すいません、気がつきませんで。
「どこでもそうなのかどうかは知りませんけど、自分で作るんですよ時間割。だから、始まる時間も終わる時間も人によってバラバラなんです。違う時間にも学生っぽい人が通ったりしてませんでしたか?」
「そう言えば、ちらほらとは……でも意識して見てたわけじゃないし、遅刻してるとか学校の関係で始まるのが遅かったりするのかなって思ってたよ。へー、そうだったんだ」
 四年間大学から徒歩五分の所に住んでおいて――うーん、いや、案外そんなものなのかな。通勤途中のサラリーマンを見てその人の会社のスケジュールが分かるわけでもなし。……って、これはちょっと違うかな。まあいいや。
 大学の仕組みについて納得すると、それについて更に栞さんから質問が。
「じゃあさ、今日は孝一くん、何時くらいに大学から帰ってこれるの? 栞はお掃除があるから昼頃には一回帰るつもりなんだけど」
「僕も午前中だけですよ。えーと、正確には十二時十分までです」
 九時から講義が二つで九十×二の百八十分で三時間、それから講義の間に十分の休憩があるから……うん、十二時十分で間違い無し。
「そうなの? それじゃあ……お昼からさ、二人でどこか行きたいな。天気もいいし」
 おおう、それは実に良さげな提案ですね。……いや、提案というよりは既に決定したって扱いのほうが合ってるのかな。栞さん、嬉しそうだし。もちろん僕も。
 その嬉しさの表れか、ほんの僅かだけ栞さんの手に力が加わります。それに応えるようにこちらも見た目には分からないくらいちょっとだけ力を加え、そしてそんなことをしている間に大学正門に到着です。
 すると今度は、栞さんの手から力が抜けました。「口では何も言ってないけど、こういうことだろうか?」とこちらも手を緩めると、思った通りに栞さんの手がすっと離れました。その大多数が見えてないとは言え、やっぱり人が多いですからね。
 しかし人を気にするとなると、やっぱり手がどうこうよりも一人で空中に話し掛けてるのを気にしたほうがいいのでしょう。今回は栞さん以外誰もいないから、誤魔化しも効かないんですし。
 栞さんもそれを気にしてか、辺りの人波を見渡しながら口を開こうとしません。
「ちょっと、あっち行きましょうか」
 小声でそう言い、離れたばかりの栞さんの手を再度掴んで引っぱりました。
「あ、うん」
 向かう先は正門の柱、そのすぐ裏側。門から入ってくる人達が続々と前方を通過していきますが、睨んだ通り誰一人としてこちらを気にする人などいません。社会の死角ってやつですか。ちょっと違う気もします。
 とにもかくにも喋っても安心な場所を確保したところで、晴れて会話再開。それでもつい、ちょっと小声になりますけど。ついでに手も離れますけど。
「えーっとですね、もし会ったらってことになるんですけど、昨日言ってたムキムキな人と成美さんとのことがあるんで、それが済んでからなら大丈夫ですよ」
「あ、そっか。それがあるんだったね」
「はい。……でも、どこに行きましょうか? 正直な話、未だにこの辺りの地理はちょっと」
 不安に思ったところで、この近辺で自分が知っている場所をリストアップしてみます。
 岩白神社。
 駅前のデパート。
 終了。これは酷い。
 もうちょっと歩き回ろうよ僕。一人でデパート行く度に道に迷いそうになってる場合じゃないよ。まあさすがにそろそろそんなこともなくなってきたけど。
 しかし、こうなると遊びに行く場所の選択は栞さんに頼るしかないということに。眉毛を若干八の字にし、口だけ微笑ませながら改めて視線を栞さんに向けると、あちらは変わらずにこにことしたまま言いました。
「前にさ、お花見どこでしようかって話になった時にちらって出たでしょ? 大きい公園があるって。あそこに行きたいな。桜もまだ散ってないだろうし、綺麗だよ? 道に沿ってたくさん咲いてるの」
 確かにその公園の話は憶えていました。例年の花見場所はそこだったという話。でも、確か……。
「そこって、遠いんじゃないでしたっけ? 車で行ってたって聞いた気がするんですけど」
 二人で出掛けたいって言ったのが栞さんである以上、その栞さんが提案した場所に家守さんの車で送ってもらうってことにはならないんだろうし、そもそも家守さんは今日も仕事で留守です。軽ならではの少々高めなエンジン音は、今朝もちゃんと聞こえてましたし。
「車で行ってたって言っても、車じゃないと無理ってほど遠いわけじゃないんだよ」
 と、いう話。てっきり前にみんなで行ったプールとかそのくらい距離があるもんだと思っていました。
 しかし栞さん、こちらの不安が拭えた途端にそれを煽るかのようなうつむき加減。しかも申し訳無さそうな表情で。
「まあそれでも歩きだと一時間半くらいかかっちゃうけど……無理、かな」
 うつむいたまま後ろで手を組み、こちらへと懇願するような視線を向けつつ、栞さんはそう頼んできました。僕と栞さんの身長にそれほど差はなく、そしてその栞さんが、うつむいたままで、こちらを見る。ということは必然的に上目遣い。――ということはこれまた必然的に、僕撃沈。
 ああ駄目だ。可愛すぎる。
「いえ、全く問題無いです。僕もその公園には行ってみたいですし」
 片道一時間半どころか、目的地設定の無いただの徘徊だったとしても確実に頷いてますよ。今の目で見られたら。
「本当? いいの?」
 うつむいていた栞さんの顔が、まじまじとこちらを眺めたままゆっくり持ち上がります。しかしその目に映るのは、嘘をつく余裕すら奪われて無言のまま首を縦に振る男の顔。その余裕を奪ったのが自分だってことには気付いてないんでしょう。いや、そもそも余裕がどうしただの自体に気付かないんでしょうけどね普通は。
「ありがとう孝一くん」
「いえいえ、こちらこそ」
「え? 何が? 栞、何かしたっけ」
「あー、行く場所をですね、いい所選んでくれてありがとうってことです」
「ふーん……?」
 不可解そうだったけど、話もまとまったところで教室へ。
 いやーなんて言うか、今ならもう死んでも……いや、これはさすがに止めとこう。ということで、今でもまだ生きたい!……むむ、何か確実に間違ってるなこれ。

「うわぁ……広いねぇ」
 教室に到着。ドアをくぐったその場で部屋内部を一瞥すると、栞さんはその広さに半ば呆然とするのでした。この大学に入学してからこれまで散々いろいろな教室をたらい回しにされてきたけど、今いるこの教室が大学内で一番大きいタイプの教室なのです。……いや、訂正。少なくとも僕が入った部屋の中では、です。入学したての一回生には縁の無いような教室も多々あるでしょうし。
「こういう前に向かって坂になってる教室、実際に入ったのは初めてだよ。ちょっと感激――あっ」
 言ってから、口を手で覆う。さっきわざわざ人気のない場所で話し合っていたことを忘れるくらいには、本当に感激していたようで。
 二人しかいないと、ちょっと喋るだけでも大変です。でもこれはこれでスリルがあって楽しいかもしれません。
 せっかく感激したところを黙殺するのも悪いので、廊下側から誰も来ないのと周囲に誰もいないことを確認してから返事をします。
「でも、こういう所で丸い消しゴムとか落としちゃうと大変なんですよ。一番前まで転がって行ったならまだいいですけど、誰かの足かカバンに引っかかったりして途中で止まるとほぼ確実に見失いますからね」
 追いかけて立ち上がっちゃってたりすると、見つけられずに席に戻るのが癪で自分から前列の人の足元じろじろ見て回る羽目になるしなあ。
 なんて思っていると、口を塞いでから辺りをきょろきょろしていた栞さんが、まるで言葉に釣られたかのようにくるっとこちらを向いてきます。
「あ、経験者?」
 思い出して喋ってる間に事件当時のイライラが口ぶりに出てしまったか、即座に見破られてしまいました。
「……まあ、はい。高校の視聴覚室がこんな感じでして」
 僕は消しゴムつきシャーペンの芯を入れ替えようとしただけなのに、あの使いもしない円柱型の消しゴムは――まあ、使いもしないのに追った僕も僕なんですけどね。
「じゃあ前のほうに座る? それなら転がっちゃってもすぐ拾えるよね」
 と言いつつ、こちらの顔を覗きこんできた栞さんは半笑い。嫌味なのは見て取れます。
「いーえ、一番後ろでいいです。できるだけ目立たないほうがいいでしょうし」
 それに消しゴムはもう四角のしか使ってませんしね。

 講義時間九十分のうち二十分ほど経過。黒板が字で埋まるペースが速過ぎて、先生の言ってることまではとても聞き取ってられません。せっかく買った教科書はいつ使うんですか?

 三十分経過。栞さんがギブアップして机に伏せってしまいました。が、せっかくこちらに向けられた寝顔を拝んでる暇が全くありません。そしてここで、まだ講義全体の三分の一しか終わってないというのに教室を去る人が。今出て行っても残り一時間は何をする時間なんですか? さすが大学、何がどうなってるのかまるで分かりません。

 六十分経過。眠い。どうやら栞さんに釣られているらしい。

 八十分経過。もう少しで終わりだ、とかなり弱まってきた右手の握力を振り絞っていると、
「じゃあ今回は初回ってことで、ちょっと早いですけどこの辺で終わりにします。……あ、出席カードは結構ですんで、他の講義の邪魔にならないように退室の時はしぃずぅかぁに、お願いしますね」
 唐突に講義終了。そしてその直後、
「んん……ん」
 栞さん、悩ましボイスとともにむっくりと目をこすりこすりお目覚め。
 なんでこういう時って授業中の先生の話では反応しないのに、授業終了の一声だけには反応できるんだろう? 人間の耳って都合よくできてるなあ。人間だけかどうかは知らないけど。
 なんてとてつもなくどうでもいいことを考えつつ、字の書き過ぎで痛む手をぷらぷらと振りながら机の上の物をカバンに放り込んでいたところ、隣から「あれ……?」と声。見れば、栞さんが自分の腕を眺めながら怪訝そうな表情をしていました。
 しかし、何やら目元がキラキラしてませんか? あと寝てる間に顔を押し付けてた腕も若干。……泣いてた?
「あの、孝一くん。次の時間って広い教室なの? それとも狭い教室?」
 何かで何かを上書きしようとしているような、唐突な質問。そして栞さんの望む答えがどちらなのかは分かりません。
 普通だったら、こうして隅に座れさえすればある程度の会話ができる広い部屋のほうがいい、ということになるだろう。でも、泣くほどの夢。栞さんの見た嫌な夢というのがもしも「あの」夢だったとしたら、僕が一緒にいては逆効果です。……しかし、どちらの答えがいいのかが分かったところで、嘘を付いてもどうにもならなりません。だから、
「狭い部屋です。ちょっと残念ですけどね」
 努めて軽い口調で、本当のことを伝えました。狭い部屋だというのも、僕が残念だと思っているのも、どちらも本当のことです。じゃあ栞さんは? 残念ですか? それとも――。
「あ、そう……なんだ。それじゃあ仕方ない、ここから別行動だね」
 ほっとしたような笑顔。口では仕方ないと言っていても、です。しかもその口が僅かに震えている。ということは、やっぱり栞さんの見た夢は。
「二時間目は何時くらいに終わるの?」
「十二時十分ですけど……あの、無理せずに先に帰ってもらっても」
「無理って、何が? じゃあそのくらいになったら校門の所で待ってるね」
 強がり誤魔化しはバレバレでしたけど、だからと言って引き止めるわけにも、昨日のような言い争いをここで始めるわけにも行かないので、「分かりました。それじゃあその時間に校門で」と答えるしかありませんでした。
 そして返事の代わりに作り笑いを残し、栞さんは足早に立ち去ります。
 講義があるから一緒には行けない、という理由はまだいい。だけど、栞さんの事情でその隣に立てないというのは――。

 ということで、再びその隣に立てるようになる二限終了後。今後の予定も特になくあとは真っ直ぐ帰るだけ、ということで、校舎を出てすぐの所で待ってくれていた栞さんと合流です。
「お疲れ様でした」
「いえいえ、これくらい」
 講義中に経過した九十分という時間のおかげか、栞さんの表情にさっきのような強がり誤魔化しの色は見受けられません。そうして安心さえしてしまえばこの人の隣は居心地がよくて――目が合うだけで微笑んでもらえるのは、「付き合い始めだから」ということもあるのかもしれませんけど。
「ん? 孝一くん、どうかした?」
「い、いえ」
 安心したところでわざわざそんなところを意識してしまうと、どうもその微笑みと向かい合うのが恥ずかしい。ので、せめて目を逸らすのが不自然にならないよう、周囲を歩く方々へ目を向けてみます。
 するとさすがは大学、妙な服や妙な髪形な人がちらほら。
 ――何だろう、あの上から下まで真っ黒な女の人は。顔が殆ど前髪で隠れてるし。
 ……なんてことがあって、ちょっと考える。「僕以外の人が僕のことを誰かに紹介する時、どんなふうに紹介されるんだろうか?」と。取り立てて身長が高いわけでも低いわけでもなく、双子でも兄弟がいるわけでもなく、顔立ちが良いわけでも――恐らく悪いわけでも――なく、太っているわけでも痩せているわけでもなく――いや、痩せてるっていうのはちょっとあるのかも――奇抜な髪形をしているわけでもピアスやらなんやらをしているわけでもなく。
 そう思って暫らく歩いていると、そのうち顔が自然に栞さんのほうを向いてしまいます。
 今僕の隣を歩いているこの人に「僕ってどういう印象ですか?」と訊いたら、どういう答えが返ってくるんだろうか? 聞いてみたいような、でも聞くのが怖いような。
「どうしたの? さっきから様子が変だよ?」
 無言でじっと見られていれば、見られている側はもちろん気になるわけで。で、栞さんがこちらを向くと、
「ああ、いえ――なんでもないです」
 結局「聞くのが怖い」が「聞いてみたい」に勝ってしまい、無理矢理ながらもお茶を濁してしまいます。そんな僕に栞さん、訝しげに首を傾けるも「そう?」と一応納得し、そして顔を前方へと戻す。なのでこちらもそれに倣って顔を前に向けようとしたところ、
「ん?」
 女性が隣をすれ違っていきました。それだけならわざわざ気を留めるようなことじゃないんだろうけど、あの人、何か見覚えがあるような?
 というわけで、視界から外れ、後方へと歩き去ったであろうその後ろ姿を振り返ってみます。すると彼女、後ろ姿ではあったものの、歩き去っていませんでした。何もない道の中央で立ち止まり、段々とその後ろ姿がこちらを振り返っている最中なのでした。
 しかし僕は歩みを止めず、彼女が完全にこちらを向く前に視線を進行方向へと戻します。なぜなら、見覚えがあると言っても確実に知り合いではないからです。
 可能性を挙げるならこの大学のどこかですれ違ったとかその程度のレベルでしょうか。短期間の間に同じ人と複数回すれ違ったりすると、「あ、さっきの人だ」とついつい目が行ってしまうことってありますよね? 僕が彼女に目をやってしまったのは、まさしくそれです。どこで彼女と会ったのかすら思い出せないけど、それだけは断言できます。他人とバッチリ目を合わせるのって気まずい感じですしね。
「やっぱり何か変だよ、孝一くん」
「いえいえ」

 誤魔化し誤魔化し五分の帰路をやり過ごし、いったん自分の部屋に戻ってやったことといえば、カバンを片付けただけ。昼ご飯はコンビニとかで何か買って、出先で一緒に食べましょうということで――えー、つまりこれからお出掛けなのです。
「すまないね。デートの邪魔をしてしまって」
「いえ、デートだなんてそんな。午後が丸々暇だったから……」
 どうしてチューズデーさんも一緒なのかというと、もう一方の組、つまり大吾と成美さんもお出掛け中だったのです。何の用事かというとお買い物とその付き添いなのですが、まあ付き合ってる二人なんだから結局は。ということでチューズデーさん、気を遣って部屋に残っていたんだそうです。
 あ、そうそう。成美さんといえば、昨日会うように頼まれたムキムキの人は見掛けられなかったなあ。真っ黒な人は見掛けたけど。
「ふふ。じゃあ、三人揃ったところで出発だね」
 チューズデーさんを誘った本人さん、楽しげに出発宣言。栞さんとチューズデーさんと最後に到着した僕の三人で、いざお出掛け。
 ちなみに清さんは、チューズデーさんによれば今日は「テレビゲームの日」なのだそうで部屋にこもってらっしゃいます。さすが清さん。……いやなんとなく。
 さて、それはそれとして。
「ちょっと寄りたいところがあるんですけど、いいですかね?」
『ん?』

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