着きましたるは、あまくに荘と同住宅街内にある小さなサイクルショップさん――とカタカナ表記にするには少々素朴な自転車屋さん。以前いつものデパートに買い物に行った際、帰りに道に迷ってうろうろしてたら発見したお店です。
 いやー真っ直ぐ辿り着けてよかった。と言ってもあまくに荘のすぐ傍だけど。
「ここなのかね?」
「孝一くん、ここで何買うの? もしかして――」
 チューズデーさんが緑色の瞳で僕を見上げ、栞さんがこちらを見ながら言いかけます。そう。自転車屋さんで買う物と言えばもちろん、
「自転車を買います!」
 そりゃあ自転車屋さんですからね。自転車持ってないのにライトとかチェーンだけ買ったって意味ないですから。……あ、でも電車に乗っててすら奇抜なファッションを見掛けることがある昨今、ベルト代わりにチェーンを巻くような人がいるかも――いや、全くの想像ですけどね。普通のベルトと違ってサイズ変えられないから機能的にもどうかと思いますし。
 と、語調を強めて腰に手を当て店の看板を見上げながらビシッと言った割には、ごちゃごちゃと考えます。
「ふーむ、自転車ねえ……しかし、どれもこれもいやに値段が高いようだが? 持ち合わせは大丈夫なのかね?」
 店先に並んだ自転車の、更に先の列。前の前に並んだ商品の値段を見渡し、すました顔でこちらを振り返るチューズデーさん。確かに彼女の言う通り、どれもこれも数万、物によっては十万を越える物まであります。
 だけどそういった店側の「お勧め商品」の後ろには、変速ギアが付いてるわけでも折りたためるわけでも電動でもない所謂ただの青いママチャリが、前列のそれらに比べて圧倒的なまでに安い値段を掲げて申し訳無さそうに佇んでいます。
 家守さんの食事係としてはまだ一月が経過していないゆえに依然給料の入ってない僕が買うのは、もちろんと言っていいほどの勢いでこれなのです。ちなみに三月分は勤務日数が少ないということで、四月分の給料に上乗せという話になっていたり。思い付きで雇われたようなものだった割に、そういうシステム面はきちっとしているようです。
 経理担当だから清さんの関与するところなのかなーとか思いつつ店内に入ってみると、
「兄ちゃん、自転車買ってくれるのは嬉しいけど偉い気合入ってんねえ。道場破りみたいだったよさっきの」
 カウンターの向こうで新聞を広げていた少々太り気味のおじさんに、奇異な目を向けられてしまいました。ちょっと恥ずかしかったけど、まあ間違ったことを言ったわけではないからよしとしておきましょう。だって本当に自転車を買いに来たんですから。
 ――で。
 店の前で景気よく買います宣言をした客の割には安い買い物をされたせいか、それとも普段からそんな接客態度なのか、やや投げやりな感じで会計を進めるおじさん。
「んじゃはい、これ書いてね」
 畳んで置かれた新聞の横へ滑らせるように取り出されたのは、筆圧で写しが入る紙を裏にくっ付けた自転車の保証書。とは言ってももちろん、同じく差し出されたボールペンで僕が記入欄を埋め尽くすまではただの紙切れ同然なんですけども。
 普段の買い物とは違って住所やら何やら書かされるのが面倒といえば面倒だけど、買った後の利便性を考えればまあ安いもの。筆記具がボールペンということで間違わないよう丁寧に埋めるべき箇所を埋め、そしておじさんに提出です。
 すると何やら、元からやや不機嫌そうだった顔が更に怪訝な色までも。
「兄ちゃん、実は幽霊だなんてことは……ない、よな」
 ああ、現住所ですか。
 冗談だという意味を予め含ませておきたいのか、おじさんが無理な笑顔を作る。よく聞く、口が笑ってるけど目が笑ってないってやつのまさにその通り。
 なので、本当は目でも口でも大いに笑い返したかったけど、あえておじさんと同じ表情を作って言い返します。
「たまに耳にしますけど、あのアパートがお化け屋敷って話ですか? 引っ越してきたばかりなんでよく分からないんですけど――大丈夫ですよ、少なくとも僕が払ったそのお金は本物ですから」
 見えない人が無気味に思うのは仕方のないことなんだから、それを責めるのは筋違いなんだろうけど、正直に言って腹は立つ。「幽霊がいるからなんだってんですか?」と大笑いしてやりたい。
 だけど僕はその欲求を踏みつけた上にすり潰した後、
「じゃあ、ここから乗って行きますんで」
 固い笑みを返しながら写しを破り取って保証書をこちらに差し出すおじさんに、背を向けて店を出ました。
 その際「毎度」だとか「お買い上げありがとうございました」といった決まり文句は聞こえてこず、ゆっくりと新聞が広がる乾いた音だけが僕の背に届いたのでした。
「いきなりですけど三人乗りですね。では栞さん、後ろへどうぞ」
「うん」
「わたしは前の籠にでも乗せてもらおうかね」
 この二人が幽霊だからって、なんだってんですか。

「このまま真っ直ぐ行ったら大きな道に出るからそれを左に曲がって、それから暫らくはずっと道に沿って直進だよ。――あ、途中でコンビニに寄るんだったよね? その大通りの途中にあるよ」
「了解しました」
 性別だけを考えるなら両手、いや、前後に花な状態で自転車を漕いでいると、安物のママチャリとは言えさすがに新品なのでペダルやらブレーキやらの感触が違います。随分使い込んでチェーンもちょくちょく外れるようになっていた先代の自転車に比べると、遊びがないと言うか。あんまりボロだったからもう実家に置いてきたけど、もしかしたらもう処分されてたりするかな? あの自転車。
 そんなかなりどうでもいいことを考える僕の正面からちょっと下方では、チューズデーさんがきちんと前を向いてお座り中。そうしてじっとしているところを後ろからじっと眺めていると、どうしてだか撫でたいという衝動に駆られてしまうのでした。
 やっぱり綺麗だもんなあ。このつやの良くて黒い毛と、その下のしなやかな細身の体の組み合わせは。
 ……でも、勢いに任せて撫でたりしたらチューズデーさんは怒らないだろうか? 動物であるみんなにとって、人間に撫でられるってどんな気分なんだろう? ジョンは撫でても喜んでくれるけど、チュ―ズデーさんを撫でたら「子ども扱いするな」ってどやされそうな気が。

「ありがとうございましたー」
 女性店員の自転車屋では聞けなかった挨拶に背中を押され、途中立ち寄ったコンビニの自動ドアをくぐって、自転車の籠の中とその傍で佇む女性二人のもとへ。
 ここで買った物はペットボトルの紅茶・レモンティーの飲み物二本と、おかか・鮭・焼き明太子の三色おにぎりが二セット。まあ三色とは言っても、もちろん外見は全部黒ですけども。
 で、なぜに飲み物食べ物のセットが二つなのかと言いますと、
「ありがとう、孝一くん」
 こうしてせこいながらも見栄を張るためなのです。最初に言った時は「そんなのいいよ、悪いよ」と遠慮されましたが、自尊心を満たすために無理を通させてもらいました。良いことしたんだか悪いことしたんだか分かりませんね。満足ですけど。
「いえいえ。それじゃあ行きますか」
 代金の代わりにいい気分を頂いて、自転車のスタンドを外します。確か歩きで一時間半くらいって言ってたから、もうそろそろ着くのかな? なんて思っていると、栞さんがある赤い自転車を指して面白そうにこう言いました。
「あの自転車の人ね、ずっと栞達の後ろについて来てるの」
 するとチューズデーさんが尻尾をくねらせ、籠の格子を挟んで興味深そうに返事を。
「ほう、全く気付かなかったよ。どの辺りからだね?」
「自転車に乗って暫らくした辺りかなあ。もしかして、公園まで一緒だったりしてね」
 自転車に乗ってからと言えば、ここまでに結構な距離を進んだとは言っても、曲がったのはまだ大通りに出る際の一回だけ。道筋が簡単だからそういうこともあるのかな?

 荷物と一緒というのはチューズデーさんに悪いので荷物は籠に入れずに腕に掛け、コンビニから更に自転車を漕ぎ漕ぎ。
 そうしてようやく着きましたるは、駐車場・駐輪場備え付きの大きな公園。「大きな」と言うのがいかほどのものかと言いますと、大き過ぎて、そのうえ背の高い木に囲まれていて内部の様子が窺えず、入口から見渡しただけでは公園かどうかすら分からないくらいなのでした。
 もしこの公園を知ってらっしゃる付き添いのお二人がおらず、今目の前にある案内板も無かったら、僕は恐らくこの木の向こうに何かしらの大衆施設でもあるんじゃないかと思ったことでしょう。いや、公園も大衆施設と言えばそうなのかもしれないですけど。
「それで栞君。後ろからついて来ていると言っていた者はどうなったね?」
 図によれば三角形をしているらしいこの公園の案内板の足元で、チューズデーさんが栞さんを見上げながら尋ねます。その言葉を聞いて僕も気になり、栞さんの顔へ視線を向けてみると、栞さん、駐輪場からこの案内板前までの僅かな道のりへと体を向け、目を細めました。
「んー。あ、いるいる。分かる? ちょっと遠いけど、あの女の人」
 そう言って指差した先――直線距離にしておよそ五十メートルというところだろうか――には、遠目に見ても首から上の黒色の配分が通常より多いロングスカートな人の姿が。乗り物が自転車なのだからヘルメットを被っているということでもないだろうし、ということは、あの黒の部分はやはり髪の毛に当たるのだろうか?
 それと……あの人、今日大学で見掛けたような?
「わたしが言うのも可笑しな話だが、随分と黒で固めた着こなしだね。頭の先から足元まで、全身黒尽くめではないか」
 スカートは黒。長袖の上着も黒。手袋でもしているのか、それとも遠目だからそう見えるのか、とにもかくにも手の先まで黒。そして、首から上も大部分が黒。肌色らしき部分もちらちらとは窺えるけど、チューズデーさんの言葉通り、それは「黒尽くめ」としか形容しようの無い色使いなのでした。
 うん、やっぱり大学で見掛けたあの人だ。本当に見掛けたってだけなんだけど。
「格好良いねー」
 栞さんはそんな彼女の風貌にのほほんと、素直な感想を述べました。しかし、果たしてそれは真なのでしょうか? 正直、僕には不気味だなーとしか。
 そんなこちらの感想などあちらの黒尽くめさんが知る由も無く、そんな彼女は何をしているのかと言うと、ただ自転車の傍でぼーっと突っ立っているのでした。いくら遠目と言えど、注視している人物に動きがあるかどうかくらいは判断できるわけです。駐輪場なんて場所でそうしてじっとしているのを見るに、誰かと待ち合わせでもしているんでしょうかね?
 ……でもまあ、そんな推理を巡らせたところでだから何なんだと言われれば何でもないのは確実。なので、「黒尽くめの女の人がたまたま僕達と同じコースを通ってたまたま同じ目的地へやってきた」という事実を確認すると、僕達三人は踵を返して公園の内部へと足を進めるのでした。

「じゃあ、いただきます」
 膝の上に乗せたコンビニおにぎり三つに対し、そう言いながら律儀に手を合わせる栞さん。僕もそれに倣い、同じく膝の上に乗せたおにぎり三つに同じく手を合わせ、同じく「いただきます」と言葉を掛けました。僕と栞さんの間に位置するチューズデーさんはと言えば、空になったビニール袋が飛ばないようにと、その上でお座りの姿勢。ありがとうございます。
 ちなみにチューズデーさん。自分の食事は、昨日食べたお寿司のネタ部分を清さんにもらったから結構とのこと。火曜日の恒例行事らしい成美さん宅での刺身摘みはというと、実のところそれを買いにあの二人は出掛けたんだそうで。まあ、デートなのなら寄り道くらいするのかもしれないけど。
 何はともあれそうして昼食を摂り始めた僕達は今、広場の隅に見付けた縦に割った丸太をそのまま寝かせ、これまた丸太そのままな足二本の上に乗せただけのような自然感溢れるベンチに三人並んで座っています。その眼前に展開されている広場はあまくに荘の裏庭と同じく黄緑一色、草で覆われていて、噴水やアスレチックと言ったいわゆる「公園ぽい物」は何も無く。
 しかしこれはこれでいい所かもしれない――とは言っても、今見ている風景は公園全体からすれば一部でしかないんですけどね。
 今現在が平日の昼間とは言ってもやはり人が全くいないということはなく、ボールで遊んでいる子ども、ただただ走り回っている子ども、虫でも探しているのかうずくまったままじりじりと前進する子どもと、それらに付き合うのか付き合わされているのか、子ども一人につき傍らには母御さんが一人ずつ。計六人がこのベンチから確認できます。
「気持ちのいい場所で食べたら、やっぱり美味しく感じるよね。コンビニのおにぎりでも」
 栞さんが不意にそう言ったのでそちらに顔を向けてみると、走り回る子どもを目で追っているのか、その子の動きに合わせて少しずつ顔を逸らしながら表情をほころばせていました。
 僕はそのほころんだ表情に表情をほころばせ、「そうですね」と返そうとします。もちろん適当に話を合わせるとかではなくて、ちゃんと栞さんの言い分が納得できるものだと思ったからです。
 だけど、
「おやおや栞君。奢ってもらっておいてコンビニのおにぎり『でも』はないんじゃないのかね?」
 いやに楽しげなチューズデーさんの声に割り込まれました。しかも、雰囲気ぶち壊しになりそうなのにこれまた納得できそうな言い分という。
「あっ!」
 微笑ましかった栞さんの表情が一瞬で曇り、同時にかなりの勢いでこちらへと首が回されます。不安そうな顔でこちらを見詰め、そして自身が両手で持つ、頭が小さくかじり取られたおにぎりへと視線を落とし、もう一度こちらへと顔を上げると、
「ご、ごめんなさい! そういうつもりじゃなくて、いつもより美味しいなってそう思って、だから『でも』じゃなくて――」
 そう早口でまくし立て、再度視線をおにぎりに落とす。上がったり下がったりで首が大変そうだった。
「――『が』? そう、『が』! 『が』だよ『が』! コンビニのおにぎり『が』!」
 答え――いや、正確に言うなら言い訳を思いつくと、三度こちらへと顔を上げる。そして放たれた言葉は、既にこちらが怒られているかのような勢いに乗せられているのでした。
「いえあの、別にそんな買ってきたおにぎりくらいでなんとも思いませんから。気持ちのいい場所でって言うなら、落ち着いてのんびり食べましょうよ」
 気持ちのいい場所で興奮してたらもったいないですし。
 片手がおにぎりを掴んだままなせいか上手く力が入らずなかなか回ってくれないペットボトルのフタに悪戦苦闘しつつも、顔だけは笑顔にしてそう返します。
 多分、チューズデーさんや栞さんからしたら間抜けな絵面なんだろう。「のんびりするのはいいけど、フタくらいはぱっと開けちゃおうよ。ニヤけてないでさ」みたいな。
 ……本当にそう思われたかどうかは定かではないし別に確認したくもないけど、取り敢えず表面上、栞さんは笑い返してくれました。と言っても、俗に言う半笑いってやつですけど。その笑いでないもう半分が自分自身の取り乱し加減から来ているのか、それとも今僕が考えたようなことから来ているのかは、まあ捨て置きましょう。
「そ、そうだね。言ってること矛盾してるよね。じゃあ孝一くんの言う通り、のんびりのーんびり」
 落ち着きを取り戻した栞さんが依然走り回る前方遠目の子どもを向き直し、おにぎりをもう一口。
「矛盾か。くくく」
 すると、チューズデーさんが俯いて控えめに笑いだしました。もちろん僕も栞さんもそれが気になってお互いの間に位置する黒猫さんを見下ろします。
「どうかしましたか?――あ、開いた開いた」
 話し掛けたことで力の入り加減がいい具合になったのか、細い枝を折ったような音と共にいともあっさりと開く紅茶のフタ。早速それをぐぐいと口に含んで――
「いやなに。昨日の夜、矛盾がどうたら怒鳴り散らしていた者がいたのを思い出してね」
「ぶほぇっ!」
 盛大に噴きました。
 咄嗟に横を向いたので、ズボンやら膝の上のおにぎりやらに噴き出した紅茶が掛かることは幸いにもありませんでした。が、呼吸器官に侵入した紅茶と格闘してむせることになってしまいはしました。
「まあ、話のメインはそこではなかったようだがね」
 分かってますよ怒鳴った本人なんですから。

 丸くなった僕の背中を栞さんが軽く叩いてくれたおかげもあって、大袈裟なくらい(もちろん本気で苦しいんだけど)咳込んでいたのも割とあっさり回復。紅茶が鼻から出なかっただけまだましということにしておきましょう。
 ……で。
「やっぱり昨日のあれ、聞こえてた?」
 栞さんが恥ずかしそうにチューズデーさんへと問い掛けます。
「あれだけ大声で騒いで、聞こえないほうがおかしいとは思わんかね? ましてや犬の耳には。あの時にはまだ日が変わっていなかったからね」
 ふんと鼻を鳴らして雄弁に語るチューズデーさんとは対照的に、ゆっくりゆっくりずりずりと姿勢を前へ戻す栞さん。そしてその首は、姿勢の移り変わりに合わせてだんだん垂れていきます。
「……まあ、そうしょげないでくれ栞君。わたしは君達二人を応援するぞ?」
 チューズデーさんの慰めに栞さんは無言で小さく頷き、黙々ともぐもぐと、おにぎりを口へ運ぶのでした。ついでに僕も、咳き込みが激しすぎて喉が痛いので再び紅茶を一口。
 ああ美味しい。

 その静かな状態のまま、二人揃っておにぎり三つだけの昼食は終了。
 ――まあ、静かとは言ってもそれは「チューズデーさんの話を引きずって」とかそういうアンニュイな方向の意味ではないですけどね。
「和むよね」
「そうですねぇ」
「さすがは子ども。随分と元気なものだね」
 食事の終わりから暫らく。食べ物がなくなって動かす機会を失った口が、別の目的の下に動き始めます。つまりは現在の心情の吐露。
 わざわざ口に出さなくたって、この場の三人ともが同じ感情を抱いているのはそれぞれの表情にはっきりと浮かび上がっています。だけど連帯感と言いますかなんと言いますか――遊びまわる子どもを眺めることによって発生した穏やかな気持ちを共有するのは、それはそれでまたいい気分なのでした。
「普段あんまり小さい子どもって見ないからねー。ずっと眺めてても全然飽きないよ」
「哀沢はどうしたね? あれだって小さい子どもだと思うがね」
「成美ちゃんは違うよやっぱり。中身が大人だもん」
「くくく、そうかそうか」
 緩んだ雰囲気の中でのそんなやりとり。
 今までの買い物以外での外出と言えば、ペンギンに背中をグッサリやられたプールと強制膝枕の花見だけど、たまにはこういうのんびりした外出もいいものです。来て良かったなあ。まだ来たばっかりだけど。
 そう思って隣の二人の会話に耳を傾けていると、
 がさり。
 と、背後の植え込みから音が。
 その向こうは舗装された並木道になっているので、そこを歩いている人が植え込みに触れただけなのかもしれません。だからわざわざ気にするようなことでもなかったんですけど、しかしそれでも、そんな冷静な思考よりも早く音に反射するようにそちらを向いてはしまいます。
 ……植え込みの濃い緑色から一瞬、黒い何かが飛び出していたような。人の頭に見えた気もするけど、もしかして小さい子どもでも植え込みの中に入り込んでいるんだろうか?
「ん? 孝一くん、どうし――うわひゃあっ!」
 栞さんから声を掛けられたかと思ったら、なぜだかその栞さんがベンチから後ろ向きに落下。尻餅どころか背中からの落下です。何やってるんですか一体?
「あいたたた……そ、そっか。背もたれなかったんだよねこの椅子。あはは」
「し、栞君……くくっ、くくくく」
 ありもしない支えに身を任せようとしたらしいその人をベンチの上から見下ろし、笑いを噛み殺そうとしつつも及ばなかったチューズデーさんは、小さな体を小刻みに上下させるのでした。
 とは言ってもそれは僕も同じことで、噛み殺そうとして噛み殺しきれない途切れ途切れな笑いをその笑いの対象に向けてしまいます。しかし仮にも恋人という立場上、笑うだけなのはどうかと思うので、起き上がるのに手を貸してあげようとベンチから立ち上がって栞さんに近付きました――が、その時。
「あ、あ……みみ、見付かっちゃった……」
 栞さんのドジっぷりに意識から消え失せていた「音がした植え込み」の裏から、静かな、そして穏やかな、かつゆったりとした声。そしてそれと同時に、ゆらりと現れる黒一色。
 それは、どう見ても後ろからずっと同じ道を辿ってきていたというあの女の人でした。
 服装はともかく、看板前で遠目に見た時やけに黒の配分が多いと思ったその首から上では、鼻の頭まで前髪が伸びていました。次いで横髪は頭部を包み込むようにして顎の先辺りまで伸びていて、前髪と合わせて考えると、髪と言うよりはもはや被り物の様相。そんなのでちゃんと前見えてるんですか?
「それじゃああの……失礼、しました……」
 こちらの心配をよそに黒い彼女、その黒の隙間から唯一覗ける顔のパーツである控えめに微笑んでいる口でそう言うと、ゆったりと一礼。そして何事もなかったかのようにすたすたと歩き去ってしまいました。
 今のは一体、何だったんだろう?
「今の人、孝一くんの知り合い?」
 僕があっけに取られている間に体制を立て直した栞さんは、地面に座り込んだまま目を丸くするというこれまたあっけにとられた様子で、まあそう思うのも仕方ないかなと思える質問を投げ掛けてきます。
「いえ、全く知らない人……だと思いますけど」
 僕にはあんな濃い知り合いはいません。大学で見掛けただけの人を知り合いとは言わないでしょうし――でも、声には若干聞き覚えがあるような無いような。あれ?
「しかしまあ、まだ多少冷える日もあるとは言え結構な厚着だったね。もう少し薄い服でもいいと思うのだが」
 自身が黒いせいかあまり驚いていないチューズデーさんは、彼女の服装をそう評します。まさかあれを目の前にして色以外の箇所にツッコミを入れるとは。
 ……しかし落ち着いて思い返してみればまさにその通りで、寒い日でもシャツの上に長袖一枚羽織っておけば事足りる気温の中、今の真っ黒さんの上着はコート。第一ボタンからきっちりと閉じられたそのコートは、彼女の首下までを完全に包み込んでいました。更に言うならそのコートの下に黒のタートルネックを着ていて、首も完全に真っ黒。
 ここで言いたいのは「ちょいと厚着過ぎやしないですか」ということの筈だったのに、少し話しを進めてみたらばいつの間にか色の話が主眼に。強烈な印象ってのは話題の牽引力が凄いものです。
「寒いのが苦手な人なのかもね」
 黒の衝撃から立ち直ったのか、ようやく立ち上がって服をぱんぱんと手ではたきながらそう返す栞さん。そして服に付いた草やらを払い終えると、首を傾げます。
「でも、『見つかっちゃった』って何なんだろう? そこで何してたんだろうね?」
「さあ……僕にもさっぱりです」
 二人して音のしなくなった植え込みに視線を合わせていると、後ろのベンチから声が。
「栞君のように、そこで転んだのではないのかね? その音に気付いた孝一君に見られたから、恥ずかしいところを『見つかってしまった』ということでは?」
 正確には音がして振り返った時点では見えてなかったんですけど、まあ、あり得ると言えばあり得るでしょうか。
 表情には出てないけど声にからかう気を満載させるチューズデーさんに、
「べ、別に恥ずかしくないもん。どーせあの人には栞が椅子から落ちたのなんて見えてなかっただろうし」
 と、恥ずかしそうに拗ねる栞さんなのでした。
 さて、昼食も食べ終わって一イベントあったところで、そろそろ場所を移しましょうか?

 ということで、現在は三人並んで真っ黒さんと同じ道をゆっくりまったりお散歩しています。
 この三角形の公園の外回りはぐるりと並木道に囲まれていて、その並木が一部分だけ桜なんだそうです。一応はそこに行ってみようということになっているのですが、特別急いでいるわけでもないのでこの通りのスローペース。
 途中に見つけたゴミ箱へと手持ちのゴミを捨てたりしつつ、いやはや、桜じゃなくても充分な景色で。
「なあお二人さん。人間はこういう時、手を繋いだりするのではないのかね?」
 ですねえ。……いやいや、でしませんでしません!
 景色を満喫しての感想へ下方向から割り込んできた言葉に、その発言者ではなくついついもう一つ隣の人物の顔を見てしまったり。するとあちらも同じくこちらを見ていて、目が合うと途端に下を向いてしまいます。
「し、しないよぉ。だって今は、その……」
「二人きりではないからね。くくく、ではわたしは一旦離れるとしよう。ずっと邪魔をし続けるのも気が引けるからね」
 上から見下ろしつつ困った表情をする栞さんに対し、余裕しゃくしゃくで見上げ返すチューズデーさんは、そう言って僕と栞さんの間から飛び出しました。
「先に桜の辺りで待っているよ。そこまでは、どうぞごゆっくり」
 数歩進んで立ち止まり、振り返ってそう言うと、並木道を真っ直ぐ走り去ってしまいました。
 残された僕達二人は遠ざかるその小さな背中が更に小さくなって見えなくなるまで見送り、それが済むとお互いの顔を見詰め合い、二人揃ってクスリと吹き出し、どちらからともなく手を握り合ってみたり。その手は今朝の登校時と同じく、暖かくて柔らかい。
「やっぱり、知ってる人の前だと恥ずかしいですよね」
「そうだよねー。でも、昨日大声であんなこと言ってたのに何を今更って感じだよね。どこまで聞こえちゃってたんだろう?」
「あの騒ぎっぷりなら全員に聞かれてても文句言えませんけどね」
「逆にこっちが怒られそうなくらいだったもんね。夜中だったし」
「あはは、そうですね」
「ふふっ」
 そんな他愛のない会話を交わしながら、更に歩みが遅くなった僕達は亀の歩みでのろりのろりと桜並木を目指します。
 ちょくちょく人ともすれ違うけど、もちろんそれは全然知らない赤の他人なので恥ずかしさは殆どありません。そりゃあもちろん全く無いってわけじゃないけど、手が離れてしまうほどでは――むしろ、人が通る時は余計強く握られてますし。
 その手を繋いでから、最初に人とすれ違った際。強まる握力に栞さんのほうを見てみると、
「あ、あはは。人が通ると緊張しちゃうよ。見えてないんだろうってことは分かってるんだけど」
 こちらの視線から何を言いたいのかを察し、明るい苦笑いを見せるのでした。
 堂々としてるよりもこっちのほうが可愛いと思ってしまうのは、僕の嗜好が変なのでしょうか?
 ……いや、変だろうが何だろうがこれでいいのか。自分の好きな人の仕草を可愛く思って何が悪い――って、なんだか暴走気味だな。落ち着け落ち着け。
「今まではね」
「あっ、はい?」
 自分の制御にいっぱいいっぱいで、そんな時に丁度声を掛けられたもんだから慌ててしまいました。それゆえ、呼ばれてそちらを向いた――と言うよりは、ビクリと勢い良く振り返ったという趣に。
 すると栞さんは俯いていて、でも口の端を嬉しそうに持ち上げて、そしてそのまま話の続きを。
「今までは、どこかに遊びに行こうとしたらいつもみんなで一緒にだったんだよ。孝一くんが引っ越してきてからだったら、プールとお花見だね。――でも今日は、三人だけ。しかも今は、二人だけ。それでもね」
 そこで栞さんはこちらを向き、それこそ惚れ直しそうなくらいとびきりの笑顔で、
「凄く楽しいよ。今日はありがとう、孝一くん」
 ……………………。
 ………………。
 …………。
 大好きです。
 じゃなくて。
「なな、なんだかもう解散みたいな言い方ですねそれ」
「そう? でもそんなのまだまだだよ。時間はいっぱいあるもんね」
「ですよね……」
 ななななんだかもうこの場で鼻血噴いて卒倒してもおかしくないくらい幸せなんですけどいいんですかこんなただ二人で歩いてるだけでここまで嬉しくてだって別にこれなら朝学校行く時に一緒に歩いたのと道が違うだけであとは全く同じだしあの時だって手は繋いでたしあれれれれ?
「あはは、孝一くん変な顔」
「え? どんな顔になっちゃってますか?」
「赤くなってるのに、顔から気が抜け切っちゃってるよ」
 そう言われて、空いてるほうの手で自分の顔をぺたぺたと探ってみます。が、顔が熱いのも筋肉が緩みきってるのもそれで分かったというのに、意識しても元に戻りません。戻せません。
 いい気分ではあるんだけど、してやられた感じもして悔しいなあ。こっちにいわゆる甘いマスクとやらがあれば、気を取り直した辺りで同じことを仕返したりもできるんだろうけど……。
 しかしもちろんそんなものはなく、そしてもしあったとしても仕返しを実行する度量があるとは思えず、「もしも」に「もしも」を重ねても実現しなさそうなその計画は、即頓挫。
 そりゃあね。そんなもの持ち合わせてたら高校卒業するまでに彼女の一人くらいはいただろうしね。今からすればもちろんもう過去の話なんだけど、気になる人くらいはいたんだし。
 ――ん? そう言えば……いやいやまさかまさか。そんな筈は。
 なんてことを考えたり考えなかったりしてる間にも着々と目的地へ足を運び、その間にちょろちょろ人とすれ違います。その度に栞さんとの会話が一旦中断になるわけですが、時間帯を考慮してそれだけ人と会うのなら結構人通りはあるようで。
 この公園って、通り道として使われてたりするのかな? 入口にあった案内図では確か、あちらこちらに入口があったはずだし。

 ようやく着いた。いや、とうとう着いてしまった?
 自分の心情だとどっちの表現になるのか曖昧でしたけど、ついに桜並木が見えてきました。すると、道の真ん中に嫌でも目立つ黒い色。その条件から導き出される人物はただ一人……いえ、さっきのあの「見つかっちゃった」な人はもちろん別にして、ですけど。
 その後姿を確認して繋いでいた手を離すと、
「む、ようやくご到着だね。どうだったね? 楽しめたかね?」
 足音で気付いたのか僕達が声を掛けるより前にこちらへ振り向き、その黒い体の持ち主であるチューズデーさんはそう声を掛けてきました。……楽しめたかと訊いてくる割に、楽しそうなのはチューズデーさん自身でしたがね。
「ま、まあ――『ご配慮ありがとうございました』ってところですかね。それにしても凄いですね桜。何本くらいあるんでしょうかねこれ?」
「くくく、そう話を急かさなくてもいいではないかね? そうかそうか。触れられたくないということは、上手い具合に楽しめたようだね。くくくく」
 そう言ってチューズデーさんが笑い、それに合わせて肩を震わせられると、あまりの図星さに目を合わせていられませんでした。そしてこちらが目を逸らしたところで浴びせ続けられる、あの緑の瞳からの視線が痛いです。
「栞君はどうだったね?」
 と思ったら、自意識過剰だったようで。
 見られてないと分かると見て欲しいものですね。自分でも意味分かりませんけども。
 それはそうと栞さん、
「えっ? それは――もちろん栞も楽しかったよ。ああいう状況でどっちか片方だけが楽しかったら変だしね」
 はにかみつつも、先に答えた偏屈なヘタレに比べると嫉妬しそうなくらい素直なお返事で。
 でも桜が凄いって言うのは、別に嘘じゃないんですよ? どれだけお金掛かってるんでしょうかってくらい道の両端にずらりと桜が並んでますし、いやもちろん桜の木一本分の値段なんて知りやしませんけどね? それに散った桜の花びらで地面が所々薄ピンク色になってるのも綺麗ですし。だから僕だって自分の返答が間違ってるとは……あー、なんて言うか、これじゃあただの負け惜しみだからもう止めときましょうか。


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